神を信じて生きるために、キリストに近付こう

マルコの福音書11章27-33節より

2021年1月24日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

祭司長、律法学者、長老はユダヤ教の権威をもっていました。

イエスが何の権威によって、神殿の商売人たちを追い出したのかを攻め立てます。

イエスがもつ権威はすべての支配と権威のかしらです。

イエスは命の所有者。罪をゆるされる方。サタンから解放してくださるお方。キリストを信じる者を選ばれる方。罪をさばくお方。真理を教えてくださるお方。

聖書は神の啓示された言葉です。聖書を調べても、キリストは神だと信じないユダヤ人がいました。彼らは預言者ヨハネが神から遣わされたことを信じませんでした。

キリストの言葉を信じず、真理を受け入れませんでした。群衆の反応を恐れ、自分たちの立場を守ることだけを考えていました。

神の言葉、真理に向き合おうとしないならば、こじつけや間違った理解が正されず、そのうちに無力な生き方になってしまいます。恐れはいつまでも消えず、「わかりません」と弱弱しい言葉しか言えなくなってしまいます。

今の世は、神を信じない無神論的な生き方が多く見られます。進化論はその代表的なものです。無機物が長い年月をかけて進化して人間が偶然にサルから生まれたと考えるなら、あなたが生まれた意味や、人生の目的は何もありません。

何もかも偶然で、人間も人生も自然も無意味でしかありません。神がいないなら、何もかも虚しいのです。

しかし、人間の存在の意味は神によって与えられるのです。

天地万物をつくられた創造者のまことの神様が、あなたを愛し目的をもって、あなたはこの世界に生まれのです。あなたは神様の目に高価で大切な尊い存在なのです。

この神様を信じて生きるのと、そうでないのでは人生はまったく違うものになります。無神論の人生の選択はないのです。聖書の神様を信じることが必要なのです。

ただひとつ、この神様を信じて、生きるためには、神様に対しての罪を赦していただく必要があります。

キリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死なれたことを、あなたが信じるなら、神様はあなたの罪を赦し、ご自身の子どもとしてくださいます。

キリストを救い主として信じて、あなたの素晴らしい人生を生きることを心からお祈りしています。

アーメン

祈りにより山は動く

マルコの福音書11章20-25節より

2021年1月17日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様の言葉により、いちじくが根元まで枯れたことにペテロは驚きます。

この機会を通して、イエス様は祈りの重要性を教えられました。

祈りは長さでも形式でもありません。一番大切なことは信じることです。それも半信半疑でなく、徹底的に信じ続けることです。そのような祈りは必ず「そのとおりになる」とイエス様は言われます。

祈りは言葉です。自分の願いや問題を言葉にしてイエス様に告白できたとき、その問題は大きく解決しています。「できない」と心に信じていることは、いつまでたっても「できる」ことはありません。

内なる思いを神様に対して祈ることができたとき、その問題からあなたは解放されます。その願いや問題はあなたの側から、神様に渡されたのです。

また、真実に祈れば祈るほど、一方的に自分の思いを願うだけでなく、それに対する神様の言葉に気付くようになります。聖書の言葉が自分に対して語られるようになります。ただ自分の願いに同意してもらうのではなく、神様のアドバイスを聞く姿勢が与えられます。祈りは神様に話すことと聞くことなのです。

信仰による祈りは山をも動かします。ここでいう「山」とは誇張表現で、困難や問題を象徴します。

神様に自分の心を正直に注いで祈るとき、神様に赦していただかなければならない罪が自分にあることを知ります。そしてその時、私たちもまた、誰かが自分に犯した罪を赦さなければなりません。

その時、私たちは神様の前で平安でいることができます。神様の前に安心して進み出ることができるのです。

イエス様を罪からの救い主と信じて罪赦された者は、恐れることなく、心から信頼して祈りを捧げることができるのです。

自分の人生の中で、まことの神様が生きて働かれることを祈ることができるのです。

人生にはいくつもの山があります。その中には、決して動かない巨大な山もあります。しかし、イエス様を信じるなら、きっと、あなたはたくさんの問題や試練を乗り越えてきたことに気付くはずです。山を乗り越えてきたのです。いえ、山は動いたのです。祈りに応えて山は動くのです。信じましょう。アーメン

キリストはあなたの心の宮をきよめられる

マルコの福音書11章12-19節より

2021年1月10日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

旧約聖書ではいちじくの木はしばしばイスラエルをあらわします。このいちじくも遠くから見ると葉をつけていましたが、近くで見ると実はつけていません。これはイスラエルの人々の神様に対する姿勢を表わしています。エルサレムはたくさんの巡礼者が集まりにぎわっていて、礼拝が捧げられていても、外見や形式だけで、一番大事な彼らの心がどれだけ神様に注がれていたでしょうか。

実際、エルサレムの中の、「異邦人の庭」と呼ばれる場所は世的な場所となっていました。税を納めるための巡礼者の外貨を両替する証人がいました。彼らは法外な手数料を取っていました。また、いけにえのための鳩は通常の店の10倍以上の値段でした。彼らは宗教を逆手に商売していました。また、祈りと瞑想のための静けさも奪い取っていました。商人たちは、神のことなどまったく考えず、自分たちの利益だけを求めていたのです。当時、エルサレムとエリコの通じる道には険しい曲がりくねった谷があり、そこは強盗が頻繁に現れました。イエス様は、神聖なエルサレムに、もっと悪い強盗が住んでいると言われました。

人間は神に似せて造られました。人間はイエス様が住まれる宮なのです。しかし、人間は罪をもっています。この罪によって、イエス様があなたの中に入ることが出来なくなっています。罪に操られ、心の中に悪い思いがあります。罪は神様をあなたから追い出して、神さまに祈り、話すことができなくなっています。

エルサレムの商人や両替商をイエス様は激しく怒られ、追い出されました。ただの怒りの叱責ではなく、これはイエス様のきよめなのです。人の中の罪も、私たちが自分の力は感情によって追い出すことは出来ません。人間の罪の赦しのためにキリストが十字架できよい血潮を流される必要がありました。イエス様を罪からの救い主と信じて、罪から解放される必要があるのです。

そのとき、あなたの心にイエス様が住まわれます。全人格的にすべてが新しくされ、神様と和解し、関係が回復されます。あなたはもう単立単独でなく、一人ぼっちでなくイエス様と一緒に生きるのです。そして人との関係、内なる自分との関係も健全にされます。アーメン。

世の熱狂は冷めるが、キリストは永遠の救いを与えられる

マルコの福音書11章1-11節より

2021年1月3日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

11章からはイエス様のエルサレムでの最後の1週間の出来事です。今日の箇所は十字架で死なれ復活される1週間前のしゅろの週と言われるお祭りです。

イエス様はろばの子に乗りエルサレムに来られました(勝利の入城と言います)

救い主を喜んで、ユダヤの人たちは、自分の上着を道にしき、しゅろの枝を振ってイエス様をお迎えします。彼らはイエス様が王となられ、武力や政治によって、自分たちを貧困や、しいたげ、苦しみ、差別、病から救い出してくれると考えました。しかし、ろばに乗られるイエス様は、父なる神様に素直に従い、柔和で平和な君を象徴していました。愛して仕えることにより、まことの永遠の平和の王国を建てるため十字架に向かわれます。罪からの救いを与えるお方です。

イエス様を迎えた民衆たちは1週間後にイエス様を十字架につけろと叫ぶ者に変わります。

親の愛を子どもはどれくらい深く知っているでしょうか。親の愛の深さを知るためには、子供の人格の成長が必要です。

神の愛と救いを知るために、神の約束である、聖書の御言葉を求めて、信じることが必要です。罪の自覚による心の悔い改めが必要なのです。

熱狂的な世の中のコマーシャル、中身のない見栄え、お祭り騒ぎに救いはありません。ただ熱い思いだけでは救いはありません。万物の創造主、宇宙の主権者である唯一の神、聖書でご自身を現されるイエス様が人間を救うお方なのです。

世の中は私たちに本当に必要で正しいことを与えているでしょうか。神様は、私たちに本当に必要な大切な救いを与えようとされ、ひとり子イエス様を十字架につけられました。それほどまでに神様はあなたを愛されています。

聖書の預言はすべて成就してきました。まもなく、残された預言、イエス様がさばきのために来られて、終わりの時がきます。この世はいつまでも続きません。

人間の考えた救いは何の力もありません。イエス様を信じる者は救われます。

アーメン。

キリストの十字架による贖いの代価

マルコの福音書10章35-52節より

2020年12月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスの十字架が近づいています。しかし弟子たちは、自分のことしか考えられません。彼らは天国でも、人より優位になりたいと考えていました。ヤコブとヨハネはすべてを捨ててイエスに従いましたが、今は自分の名誉を求めています。

この世では人の上に立って権力をもつ者が偉いとされます。しかし、実際に手や足となり、汗して働き、人と関わり、自分を犠牲にして、仕えるものが真の働きをします。イエスが求める人の上に立つ者とは、自分以上に誰かを生かすことです。仕えて人の役に立つしもべです。

イエスは待ち望んだメシヤ(救い主)でした。しかし、イエスは十字架で死のうとされていました。弟子たちにとって、この二つは矛盾していました。十字架が理解できませんでした。十字架は仕えるしもべとしての完成であり目的でした。

贖いの代価とは奴隷の身代金のことです。罪の奴隷である人間を解放して、神のものとするために、イエスは人間の身代わりとなり、罪の刑罰を受けられたのです。イエスは十字架で父なる神様の怒りを受け、捨てられたのです。しかし、イエスは弟子たちを愛し受け入れられます。弟子たちは何もわからなくても、イエスについていくならば、必ず栄光のゴールが待っていることだけはわかっていました。

十字架が理解できなくても、また、精神的にキリストを受け入れられないことも関係ありません。人間は十字架で死なれた敗北者のキリストではなく、勇ましくかっこいい神様を受け入れたいのです。

しかし、本当の理由はどうしても離れられない罪が原因です。あなたの悪習慣や過去の大きな過ちかも知れません。しかし、罪とは神に背を向けて、神を無視して、自分の欲のまま生きることなのです。

キリストを信じることは信頼することです。あなたは幽霊を信じていても信頼することはないでしょう。

あなたが心から願うことは何ですか。そのために、神様に何をしてもらいたいですか。はっきり言えることは、キリストが恥と責めを受け死なれた十字架の救いを受け取ること以外には神様に求めることはないのです。

キリストは十字架を同情してもらいたいのではありません。あなたがキリストを信じて、救われ、喜ぶことを、何よりもご自身の喜びとして満足して自らすすんで十字架をしのばれたのです。

アーメン。

キリストによる家族の回復

マルコの福音書10章28-34節より

2020年12月13日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様がメシヤ(救い主)であるという福音を語ることは、当時のユダヤでは迫害の危険をともなうことでした。今の日本では福音を伝えて迫害を受けることはないかも知れませんが、命に関わる危険な国もあります。しかし、日本でもキリスト教を信じて、日曜日に教会へ行くことを家族は反対するかも知れません。

正しくはキリスト教と言う言葉はなく、キリストとの関係に新しく生きることです。キリストを信じるならば、あなたは新しい家族の一員とされるのです。。

教会は神の家族です。キリストを信じて救われた者はみんな家族なのです。人間は神様により命と生きる目的が与えられました。神様は父なるお方であり、私たちは神様の子どもなのです。そして神様が人を結び合わせて家族を与えられるのです。地上の家族は、天の家族をこの地上で実現するために与えられているのです。

神様は家族がイエス様を信じて、神の関係と家族の関係の回復が救われることを願っておられます。

今、世界中で人間関係が乱れ、学校崩壊や家庭崩壊が当たり前のように起こっています。それはすべての人が生まれもっている罪によるのです。また世界が罪に満ちているためです。罪により人間は自己中心になり、家族にも心を素直に開けず、本来の健全な関係が難しくなっています。

十戒の中にあなたの父母を敬いなさいとあります。人間関係の基本は家族です。親子、兄弟です。人間関係の基本は会話です。挨拶です。家族でお互いに顔を見て、笑顔で明るく挨拶ができていますか。簡単そうで実はとても大切なことなのです。そこから、となり近所、地域社会、学校、職場と広がっていきます。

聖書はさらに大切な関係、神様を敬いなさいとあります。まことの家族関係の回復のために、家族が愛し合いひとつとされるためにはキリストを受け入れ罪から救われることが必要です。

イエス様も家族から理解されず、人間の罪を救うために十字架に架かられました。しかし復活され、イエス様の兄弟たちも救われ、まことの家族とされました。

キリストを信じることは遠回りに感じるかも知れませんが、家族が救い主キリストを受け入れることが本来の家族の関係の回復にいたる唯一の道なのです。 アーメン

お金で買えないもの

マルコの福音書10章23-27節より

2020年12月6日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様は裕福な者が神の国に入ることは難しいと言われました。この言葉は弟子たちを大変驚かせる言葉でした。ユダヤの国では富みは神様からの祝福と考えられていたからです。財産は人格がすぐれており、神さまに愛されていることの証明でした。そのような神様の祝福をいただいた人たちが救われないのなら、一体誰か救われるのかと考えたのです。

お金や財産、物質に依存して満足するなら、神さまに完全に信頼して、満たされることが妨げられやすいのです。自分自身と財産に頼る者は決して救われることがありません。しかし、神の救いの力、罪から救い出してくださるキリストの十字架を信頼する者は自由に救いに入ることができるのです。

お金があれば、この世界のほとんどすべてのものは手に入るかもしれません。しかし次のような言葉があります。

心地よいベッドは買えるが、安眠は買えない

食物は買えるが、食欲は買えない

家は買えるが、家庭は買えない

薬は買えるが、健康は買えない

楽しみは買えるが、幸福は買えない

また、富や財産は我々の未来を保障するものではありません。しかし完全に人間の未来を保証する道がひとつだけあります。それは信仰です。キリストを信じることによって与えられる神の永遠の救いです。救いはお金では絶対に買うことができません。救いは神様からのプレゼント、つまり無料です。しかし、その救いは決して値段のない安っぽいものではありません。反対に値段がつけられないほど尊いものです。神であられるキリストが十字架で自分のきよい命をあなたのために差し出されたのです。人間は決して自分を救うことができません。神のみが人間を救うことができるのです。

この救いは信仰により受け取ることができる宝物です。キリストを罪からの救い主としてお迎えしましょう。

アーメン。

永遠の命を得るために

マルコの福音書10章17-22節より

2020年11月29日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

何をすれば永遠の命をいただけるのか、青年はイエス様に走り寄って聞きます。この青年は真剣にイエス様を敬ってひざまずいて尋ねました。この青年は神様の命令の言葉である十戒も守っていると言います。

神様の言葉を守ることは、生活のすべてにおいて、人々との間において自分を捧げることです。神様の言葉は紙切れではなく、生きて働き、私たちを変えていく力があるのです。神様の命令を一言で言うなら、自分を愛するように隣人を愛する。自分のしてもらいたいことを他の人にも同じようにする。愛を動機とする行いなのです。

イエス様はこの青年の心をご存知でした。彼は自分の財産を愛して、それに依存していたのです。彼を満たしていたのは神様の言葉ではなくお金だったのです。

イエス様を信じる者はイエス様の愛を持っています。その愛に従って生きるなら、人々との関係の中で愛と喜びが生まれます。その愛は周りの人々にも影響を与えていきます。その愛の中で生きる時、お金や物質で満たされる生き方から解放されます。

何かをすれば与えられる。何かがあれば幸せになれる。これはこの世の中の考え方です。しかし、神様は受ける価値のない私たちにもっとも大切なものを与えてくださいます。それはこの世になにものにも比べることのできない価値あるものです。

問題はイエス様を知っていても、本気でイエス様を求めないことです。この青年はイエス様を信じて永遠の命にあずかる機会を目前にしながら失ってしまいました。

イエス様は、壊れた本来の家族の関係を回復されます。石のように冷え切っていた心にあたたかい愛の感情を与えてくださいます。あなたは偶然生まれて、何の意味もなく存在しているのではありません。万物を創られた神様が、あなたを愛して命を与え、人生に素晴らしい計画をお持ちなのです。 キリストが十字架にかかるほどあなたを愛されたのは、あなたが本当の人間の姿に変えられて心が喜び、人と関わり、友が増え、受けるよりも与えて、生まれてきたことを神様に感謝できる。イエス様はあなたを救われます。アーメン。

子どものように単純に信じる者が救われる

マルコの福音書10章13-16節より

2020年11月22日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様は子どものような者が神の御国に入ることができると言われます。子どもの特徴のひとつは素直で単純です。難しいことはわからなくても、そのまま受け入れます。子どもはあまり疑いません。言われることを信じます。力も弱く、知識もないので親を信頼します。また子どもはすぐに忘れます。怒りや悪意や恨み続けることもあまりしません。

しかし、そんな子供も成長するにつれて、大人たちや世の中の影響を受けて、知恵や経験を通して、悪いことを知り、夢や希望をあきらめ、疑いや冷めた心を持つようになります。神様を信じたり、信仰を持つことをバカバカしく思ったり、正しく真面目に真っ直ぐに生きることが難しくなります。

大人はいろんな知識や経験がありますが、聖書は実は人間は知るべきことは何も知っていないと書いてあります。この世界を創造された神様が今も生きておられること、霊的な命や神に対する人間の罪、死とさばきのこと。そのために人の知恵でなく、奥義として隠された神の知恵、キリストによる救いが必要なのです。

世界はこの上なく便利になったかもしれませんが、人間は大切な機能を失ってしまいました。神の小さな声を聞けなくなり、祈る対象を失い、賛美する喜びを失い、神を信じて生きる信仰を失ってしまったのです。この世の死と罪の力が神様と人間の関係を断ち切ったのです。

どうしようもない試練や苦しみに対して人間の悟りはまったく役に立ちません。しかし、イエス様を信じない時でさえ、私たちの人生の背後で働かれる神様が今日まであなたを守り導いてくださっています。そのことを感謝しましょう。

すべての人間はキリストを信じる新しい誕生が必要です。神様はあなたを愛ゆえに罪汚れのないご自身の子どもとされます。神様の子どもとしての最高の特権を神様はあなたに与えたいのです。その親子関係は、何があろうとも、たとえ、この世界が滅びても絶対に変わらない永遠の十字架の愛の契約です。

そして神の命の言葉により、罪赦された者らしい、まことの子どもとしての成長を与えてくださいます。これまでの人間の知恵や経験に頼る生き方から、完全に私たちを救い、最善をなしてくださる神様に信頼する人生に歩めることはなんと幸いなことでしょう。弱く頼りない自分を認めて、素直になって、ぜひ、主イエス様を信じることから始めましょう。アーメン。

結婚は人間に与えられた神様からの祝福

マルコの福音書10章1-12節より

2020年11月15日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人々の心がかたくなだったので、モーセの律法では、姦淫、不品行(結婚以外の性的行為)、の罪に限って、離婚を認めていました。しかし、その規定も徐々にゆるみ、ささいな理由(料理を焦がした。通りで裁縫した。見知らぬ男性と話したなど)でも離婚が行われるようになりました。ひとつの理由は性的な不道徳がさかんだったためです。今の時代だけでなく、イエス様の時代にも性のモラルが乱れ、正常な結婚観が崩れていました。

創造の始めに結婚は、神様がふたりを結び合わせたものであり、引き離してはいけないとあります。結婚関係は神の前で生涯にわたり一夫一妻制であり、夫婦の関係を人間のきまりや律法によって本質的に無効にすることはできません。

神様は人間を神様に似せた高価な存在として創造されました。それは神様と人間が夫婦のように、親子のように、親密な愛の関係を喜び楽しむためです。しかし、人間が罪に堕落して、神様との関係が壊れたときに、人間関係も分裂と緊張が生じるようになりました。神様と離縁したからと言って、決して自由な独り身でいることはできず、別の連れ合いである暗闇の支配者である悪魔に支配されて、罪の奴隷となってしまうのです。

神様から離れ、神様との関係に狂いが生じる時、人間関係、性的な関係も狂いが生じます。姦淫の罪は、神様から離れた人間の大きな罪です。性的な関係は神様が夫婦にのみ与えられた祝福です。この神聖な贈り物を人間の自己中心な快楽とするとき、恐ろしい滅びへの道を歩むことになります。自分に対しての罪と神様の聖霊を悲しませます。

イエスラエルの夫、教会の夫はキリストです。私たちはキリストの花嫁なのです。結婚とはこれほど神様が人間を祝福された贈り物なのです。この悪い姦淫の時代、今こそ、罪から離れ、神様に悔い改め、立ち返らないといけません。聖くなければ誰も神を見ることはできません。 本来の正常な関係を回復するために、キリストは人間の罪を身代わりに受け十字架で死なれました。罪を認め、キリストを信じる者はキリストともに十字架で死に、新しい聖い命を与えられ、神様と和解し、キリストとひとつとされます。永遠に価値のある豊かな大切なあなたの人生を歩んでいきましょう。アーメン。