イエスは道

ヨハネの福音書13章36節-14章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月2日

<聖書>

シモン・ペテロがイエスに言った。「(しゅ)よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「(しゅ)よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも()てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも()てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに()げます。(にわとり)()くまでに、あなたは三度(さんど)わたしを知らないと言います。」
「あなたがたは心を(さわ)がしてはなりません。(かみ)を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、()まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を(そな)えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を(そな)えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに(むか)えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「(しゅ)よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが(みち)であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを(とお)してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章36節-14章11節)

<説教>

イエスが十字架(じゅうじか)()かって死ぬときが近づいていました。しかし弟子(でし)たちは、イエスがどこへ行こうとしているのかわかりませんでした。弟子(でし)たちはイエスが自分たちから(とお)(はな)れてしまうことを(おそ)れて、心が(さわ)いでいたのです。

イエスはそんな弟子(でし)たちに次のことを約束(やくそく)されます。

  1. イエスを信じる者は、かならず天国(てんごく)用意(ようい)された「住まい」それも大邸宅(だいていたく)()むことができる。
  2. イエスは弟子(でし)たちのついていけない所に行くが、(かなら)ずもう一度(もど)って来る。

私たちが第一に心配(しんぱい)すること、心(さわ)ぐことは将来(しょうらい)どうなるかということです。イエスを信じる者はこの神の約束(やくそく)(しん)じなければなりません。イエスはあなたを(かなら)(むか)えに来て、天国(てんごく)()まわせてくださいます。

それでも、イエスの言われることがわからない弟子(でし)たちに言われます。

「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(ヨハネの福音書14:6

「イエスは道」とはどういう意味でしょうか。

()(のぼ)(ふもと)の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」

という()があります。これはどんな宗教(しゅうきょう)も、結局(けっきょく)、最後は(すく)われて天国(てんごく)へ行けるのだからどの宗教(しゅうきょう)も同じだという意味です。

しかし、聖書(せいしょ)はイエスを(しん)じなければ、父なる神のもとへはいけないと明らかにしています。

はじめて行く場所への道を(だれ)かに聞いた場合、どんなに丁寧(ていねい)に行き方を(おし)えてもらっても、本当にそこへたどり()けるかわかりません。

一番確実(かくじつ)な方法は、その目的地(もくてきち)への道を知っている人が、一緒(いっしょ)案内(あんない)してくれることです。

私たちは一度切りの人生の中でどうやって生きていいのか(まよ)います。何が正しいのかわからなくなります。じっさい聖書(せいしょ)は次のように書いています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言(しんげん)14:12)

私たちをゴールに案内(あんない)してくれるのはイエスご自身(じしん)です。イエスとともに生きる時、安全(あんぜん)です。

イエスの言うことをよく聞いて、イエスを知ることが大切です。

道は()みつけられて道となります。

イエスは人間の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。イエスの十字架(じゅうじか)犠牲(ぎせい)によって、(しん)じる者は神と和解(わかい)することができます。イエスが神への道を開いてくださいました。

人が(すく)われるためにイエスが道となってくださいました。このイエスを(しん)じて、いつも、このお方の聖書(せいしょ)のみことばに(したが)うとき、(いつわ)りの(ほろ)びへの道から(のが)れて、天国に()まうことができるのです。

この道は、人間の力で見つけて入れる道ではありません。

自分の(つみ)(ぶか)さを知り、イエスを(しん)じて、()(あらた)めて生きようとする者だけが見出すことのできる小さい門、(せま)い道なのです。そのときイエスが道となってくださるのです。

イエスを(しん)じて、このお方に(したが)う者は(けっ)して、(まよ)って()(づま)ったりせず、イエスが(むか)えに来てくださり、神の用意(ようい)された天国の()まいに必ずたどり()くことができます。

何より大切なのはこの道に入ることです。他の道では(けっ)して天国につながることはありません。この道に入る者は(さいわ)いです。

(せま)い門から入りなさい。(ほろ)びに(いた)る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに(いた)る門は小さく、その道は(せま)く、それを見いだす者はまれです。

(マタイ7:13-14

日々の信仰が与える勝利

サムエル記第一17章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月25日

<聖書>

ペリシテ人は(たたか)いのために軍隊(ぐんたい)召集(しょうしゅう)した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに(じん)()いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に(じん)()き、ペリシテ人を(むか)()つため、(たたか)いの(そな)えをした。ペリシテ人は()こう(がわ)の山の上に、イスラエル人はこちら(がわ)の山の上に、谷を(へだ)てて相対(あいたい)した。ときに、ペリシテ人の陣営(じんえい)から、ひとりの代表(だいひょう)戦士(せんし)が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その()の高さは六キュビト半。頭には青銅(せいどう)のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅(せいどう)で五千シェケル。足には青銅(せいどう)のすね当て、背中には青銅(せいどう)()(やり)(やり)()機織(はたお)りの()(ぼう)のようであり、(やり)穂先(ほさき)は、(てつ)で六百シェケル。(たて)()ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の(じん)()かって(さけ)んで言った。「おまえらは、なぜ、(なら)んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷(どれい)ではないのか。ひとりを(えら)んで、おれのところによこせ。おれと勝負(しょうぶ)して()ち、おれを()(ころ)すなら、おれたちはおまえらの奴隷(どれい)となる。もし、おれが()って、そいつを(ころ)せば、おまえらがおれたちの奴隷(どれい)となり、おれたちに(つか)えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの(じん)をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負(しょうぶ)をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈(いきしょうちん)し、非常(ひじょう)(おそ)れた。

(サムエル記第一17章1-11節)

<説教>

イスラエル人は宿敵(しゅくてき)ぺリシテ人との(たたか)いに(くる)しんでいました。谷をはさんでお互いに緊迫(きんぱく)状態(じょうたい)でした。そこでぺリシテからは3メートルもある巨人(きょじん)でベテランの戦士(せんし)ゴリヤテがイスラエルに一対一の(たたか)いを(もう)()ます。イスラエル人はゴリヤテの巨体(きょたい)武器(ぶき)を見て、(おそ)れて(たたか)勇気(ゆうき)(うしな)ってしまいます。そんな時、8人兄弟の(すえ)()(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがゴリヤテを石一つで()(ころ)したのです。

戦士(せんし)でもない(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがなぜゴリヤテに勝利(しょうり)したのでしょうか。

① ダビデは(おそ)れに支配(しはい)されなかった

ゴリヤテは自分の巨体(きょたい)武器(ぶき)を見せつけて、おどし文句(もんく)を言ってイスラエル人を(おそ)れさせました。(たたか)う時に(おそ)れは最大の(てき)です。多くの場合、(たたか)う前の心理戦(しんりせん)勝敗(しょうはい)は決定します。

聖書(せいしょ)に中に「(おそ)れるな」という命令(めいれい)は約365回出ています。それだけ人は(おそ)れてしまうものなのです。

しかし、ダビデはゴリヤテを自分と比較(ひかく)せずに全能(ぜんのう)の神さまと比較(ひかく)したのです。すべてを支配(しはい)される神さまと比べたらゴリヤテは()るに()りない小さい者です。

見える状況(じょうきょう)ではなく神さまに信頼(しんらい)するとき信仰(しんこう)大胆(だいたん)さが(あた)えられます。

② ダビデは普段(ふだん)の生活の中で神さまに(つか)えていた

ダビデは普段(ふだん)から神さまと共に羊飼(ひつじか)いの仕事に(つか)えていました。(ひつじ)をライオンや(くま)(おそ)われたときも、神さまが共におられ信仰(しんこう)勇気(ゆうき)により(たたか)っていました。

ダビデは、普段(ふだん)からみことばを(おも)いめぐらし、(いの)り、賛美(さんび)して神さまと共にいました。

ダビデはいきなりゴリヤテに勝利(しょうり)したのではありません。ダビデはどんな時も神さまに(つか)えて、信仰(しんこう)勇気(ゆうき)(あた)えられ、普段(ふだん)の生活の中で訓練(くんれん)され下地(したじ)が作られていたのです。

羊飼(ひつじか)いは決してきれいな仕事では、末っ子のダビデは父からまったく注目(ちゅうもく)されていませんでした。しかし、神さまのご計画(けいかく)(だれ)も知らないところで準備(じゅんび)されていました。目立たない普段(ふだん)何気(なにげ)ないところでの神さまとの関わりがやがて、目に見える形となって(あらわ)されるのです。

③ ダビデは神さまが勝利(しょうり)(あた)えてくださることを知っていた

ダビデは勝利(しょうり)秘訣(ひけつ)を知ってしました。神さまに忠実(ちゅうじつ)であるなら、あとは神さまが(かなら)(たす)けて(みちび)いてくださいます。

ダビデはたった一つの石で巨人ゴリヤテを()(たお)しました。しかしダビデの本当の武器(ぶき)万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)(生けて働かれる神の力)です。すべての(たたか)いに勝利(しょうり)をもたらすのは万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)です。神さまご自身が(たたか)いに出て(いど)まれるのです。

石とはメシヤ(キリスト)の象徴(しょうちょう)です。この石(キリスト)が巨人(悪魔(あくま))を()(たお)すのです。

悪魔(あくま)はキリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりにより、完全に()(たお)されました。私たちがイエス様の御名(みな)(いの)り、みことばを信じて(したが)う時、悪魔(あくま)は何も手を出すことは出来ません。

私たちの(たたか)いとは、(つるぎ)(たて)によるのではなく、人間の内にあります。(つみ)に対して神のことばと信仰(しんこう)によって(たたか)いに勝利(しょうり)できるのです。

ダビデの勝利(しょうり)によって、イスラエルに神さまがおられることをすべての国に知らしめました。

今もキリスト者は信仰(しんこう)によって(つみ)勝利(しょうり)して、()にイエス・キリストを(あかし)するのです。

なぜなら、神によって生まれた者はみな、()に勝つからです。私たちの信仰(しんこう)、これこそ、()()ち勝った勝利(しょうり)です。()に勝つ者とはだれでしょう。

イエスを神の御子(みこ)と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一5:4-5

山上の垂訓‐心の貧しい者は喜びなさい

マタイの福音書5章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月18日

<聖書>

この群衆(ぐんしゅう)を見て、イエスは山に(のぼ)り、おすわりになると、弟子(でし)たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を(ひら)き、彼らに(おし)えて、言われた。

「心の(まず)しい者は(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。
(かな)しむ者は(さいわ)いです。その人たちは(なぐさ)められるから。
柔和(にゅうわ)な者は(さいわ)いです。その人たちは地を()()ぐから。
()()(かわ)く者は(さいわ)いです。その人たちは()()りるから。
あわれみ(ふか)い者は(さいわ)いです。その人たちはあわれみを()けるから。
心のきよい者は(さいわ)いです。その人たちは(かみ)を見るから。
平和をつくる者は(さいわ)いです。その人たちは(かみ)の子どもと()ばれるから。
()のために迫害(はくがい)されている者は(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)5章1-10節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)の5章から7章は「山上(さんじょう)垂訓(すいくん)」と言われる長い説教(せっきょう)です。これはイエス様が語られたいろいろな説教(せっきょう)をまとめたものです。イエス様はこのような(おし)えを弟子(でし)たちに()えず、習慣的(しゅうかんてき)(おし)えられました。

内容(ないよう)はとても高い(かみ)道徳(どうとく)基準(きじゅん)であり、人間が(まも)ろうとして(まも)れるものではありません。

たとえば、「人を(にく)んではならない」、「情欲(じょうよく)をもって異性(いせい)を見てはならない」、「人前(ひとまえ)善行(ぜんこう)してはならない」、「人をゆるしなさい」、「自分の(たから)(てん)にたくわえなさい」、「何を食べるか心配(しんぱい)してはいけない」、「人をさばいてはならない」「自分の(てき)(あい)しなさい」など。

これらの(おし)えによって、人は自分が(つみ)(おか)したことを知ります。(かみ)さまは自分が(けっ)して正しくないことを気付(きづ)かせてくれるのです。これらの(おし)えは本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)(かみ)さまが(つく)られた人間の姿(すがた)を表わしています。(かみ)さまを信じて生きる時に、(かみ)さまがそのような人間、イエス様に()た者に(つく)り変えてくださるのです。

「心が(まず)しい人」とはどういう意味(いみ)でしょうか。

それは、あまりにも(まず)しくて、力も地位(ちい)(だす)けもなく、人や社会(しゃかい)から()められ見放(みはな)されて、すべての希望(きぼう)(かみ)にかける人のことです。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)詩篇(しへん)にも、次のようにあります。

「この(なや)む者が()ばわったとき、【(しゅ)】は聞かれた。こうして、(しゅ)はすべての(くる)しみから彼を(すく)われた。」
詩篇(しへん)34:6)

(まず)しい者は(けっ)して(わす)れられない。(なや)む者の(のぞ)みは、いつまでもなくならない。」
詩篇(しへん)9:18)

詩篇(しへん)の中の(まず)しく(なや)む者とは、(かみ)に近づいて(かみ)(よろこ)ばれる人のことです。

私たちは財産(ざいさん)貯金(ちょきん)がたくさんあれば、人生が安全(あんぜん)保障(ほしょう)されると思っていました。(しあわ)せの多くがそのようなものだと考えていたかもしれません。

しかし、自分が人からある意味(いみ)見放(みはな)された存在(そんざい)であると知り、心から全力(ぜんりょく)(かみ)さまに信頼(しんらい)する者は次のことを知るのです。

  • 物への執着(しゅうちゃく)がなくなっていく。物質(ぶっしつ)が人間に幸福(こうふく)安全(あんぜん)(あた)えるのではない。
  • (かみ)さまだけが自分を(たす)け、(のぞ)みと力を(あた)えることができる。

私たちの本当の問題(もんだい)は、貧乏(びんぼう)でみじめか、お金や物があって裕福(ゆうふく)かどうかなのではありません。それらは第一ではなく、実は自分(じぶん)自身(じしん)の内には、生きる希望(きぼう)(すく)いがまったくないと知ることなのです。

人間は(よわ)く、小さく、罪深(つみぶか)い者なのです。(かみ)さまを必要(ひつよう)とする存在(そんざい)なのです。(かみ)さまを(たよ)って、(たす)けられなければ、罪深(つみぶか)い生き方から本当の人間として生きることはできません。

自分のありのままを()け入れてくださる(かみ)さまを信頼(しんらい)しましょう。そのとき本当の自分のすべてを(あい)して生きていけるのです。「(かみ)さまと自分を知る」とき本当の人生が始まるのです。

「心の(まず)しい者は(さいわ)いです。」は原文のアラム語では、単調(たんちょう)な文ではありません。「ああ、(さいわ)いなるかな、心の(まず)しき者!」という感動(かんどう)()ちた意味(いみ)です。

この()(よろこ)びは、健康(けんこう)(うしな)われた時、計画(けいかく)失敗(しっぱい)した時、希望(きぼう)がかなえられなかった時にはかなく()っていきます。

しかし、イエス・キリストを(しん)じる者は(ふか)(しず)かな(よろこ)び、なにものにも変えられない(よろこ)びをもっています。

苦痛(くつう)の中、損失(そんしつ)(かな)しみ、(いた)み、(なみだ)の中にも心に()ち、()すことのできない(よろこ)び、それは()さえも(うば)()ることのできない(よろこ)びです。(つみ)(ゆる)しを()け、(すく)われた者の勝利(しょうり)(さけ)びです。

これはイエス・キリストと共に歩む者だけが持っているのです。

イエス様があなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)()んでくださいました。このお方に何も心配(しんぱい)せずにおゆだねして、(したが)っていきましょう。

神さまは心の動機を見られる

マタイの福音書20章1-16節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月11日

<聖書>

天の御国(みくに)は、自分のぶどう(えん)(はたら)労務者(ろうむしゃ)(やと)いに朝早く出かけた主人(しゅじん)のようなものです。彼は、労務者(ろうむしゃ)たちと一日一デナリの約束(やくそく)ができると、彼らをぶどう(えん)にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場(いちば)に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう(えん)に行きなさい。相当(そうとう)のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中(いちにちじゅう)仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも(やと)ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう(えん)に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう(えん)主人(しゅじん)は、監督(かんとく)に言った。『労務者(ろうむしゃ)たちを()んで、最後(さいご)に来た者たちから(じゅん)に、最初(さいしょ)に来た者たちにまで、賃金(ちんぎん)(はら)ってやりなさい。』そこで、五時ごろに(やと)われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初(さいしょ)の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを()()ると、主人(しゅじん)文句(もんく)をつけて、言った。『この最後(さいご)連中(れんちゅう)は一時間しか(はたら)かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中(いちにちじゅう)労苦(ろうく)()けるような(あつ)さを辛抱(しんぼう)したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当(ふとう)なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束(やくそく)をしたではありませんか。自分の分を()って(かえ)りなさい。ただ私としては、この最後(さいご)の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという(ほう)がありますか。それとも、私が気前(きまえ)がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が(さき)になり、(さき)の者があとになるものです。」

(マタイの福音書20章1-16節)

<説教>

ぶどうは雨季(うき)になる前に急いで収穫(しゅうかく)します。雨にぬれるとぶどうが(くさ)ってだめになるからです。そのために多くの働き人が必要となります。イスラエルでは実際(じっさい)に、ぶどう(えん)主人(しゅじん)は朝の市場(いちば)労働者(ろうどうしゃ)募集(ぼしゅう)しました。

朝早く(6時)から一日中(いちにちじゅう)労苦(ろうく)()けるような(あつ)さの中を働いた人たち、9時、12時、午後3時、そして午後5時に一時間だけ働いた人たちがいます。どちらも賃金(ちんぎん)は1デナリでした。

朝早くから仕事を(あた)えられた人たちは、一日(12時間)1デナリの約束(やくそく)をしました。しかし、それ以外(いがい)の人たちは、(とく)労働(ろうどう)条件(じょうけん)があったわけではありません。ただ「それ相応(そうおう)報酬(ほうしゅう)」があると言われただけでした。

また、午後5時に市場(いちば)に立っていた人たちは「(だれ)(やと)ってくれない」と言っています。

しかし、一日の終わりに最後に1時間しか(はたら)かなかった者から順番(じゅんばん)賃金(ちんぎん)支払(しはら)われます。それも1デナリです。12時間(はたら)いた者は不平(ふへい)を言いました。

(あさ)(はや)くから(はたら)いた者たちは、自分たちは労働(ろうどう)契約(けいやく)()わした特別(とくべつ)存在(そんざい)だと過信(かしん)しました。そして、彼らは義務的(ぎむてき)報酬(ほうしゅう)のために(はたら)いのです。

しかし、午後5時からの労働者は、いくら報酬(ほうしゅう)があるかも気にせず、(やと)ってくれた主人(しゅじん)信頼(しんらい)して、お金のために義務的(ぎむてき)(はたら)くのではなく、(よろこ)び、感謝(かんしゃ)姿勢(しせい)がありました。

このたとえ話は、神さまに(つか)えて生きる姿勢(しせい)をあらわしています。神さまを第一にして生きるとき、ただ報酬(ほうしゅう)のためだけに(つか)えるのではなく、神さまに(よろこ)んでいただきたいという姿勢(しせい)が大切です。()()めや、条件(じょうけん)約束(やくそく)だけに(しば)られて(はたら)くのではなく、どのような心の姿勢(しせい)で、また動機(どうき)を神さまは()われるのです。

心が正しければ、(はたら)きも正しくされます。心が利己的(りこてき)貪欲(どんよく)であるなら、(はたら)きも悪いものとなります。わたしたちと神様との関係がどうであるかが大切なのです。

イエス様を信じる者、イエス様のために生きていこうとする者は、自分が思う以上の報酬(ほうしゅう)(あた)えられることでしょう。人間にはその人の(はたら)きを見た目や結果(けっか)でしか判断(はんだん)できません。それは、心の動機(どうき)や心の状態(じょうたい)理解(りかい)することができないからです。 しかし、この地上(ちじょう)の、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)順序(じゅんじょ)や、この世から(みと)められる優劣(ゆうれつ)は、神さまによってすべて反対にされます。神さまは、物事の結果(けっか)だけでなく、そのプロセス、心を見られるからです。

神さまを(しん)じて(つか)えたら、いくら報酬(ほうしゅう)があるのか、どんな利益(りえき)があるのか。そんなことは何も心配(しんぱい)しなくてよいのです。神さまは、それ相応(そうおう)のよいものをくださいます。

あなたの人生(じんせい)が今までどうであったかは大した問題ではありません。大切なのは、見返(みかえ)りを(もと)めてイエス様を(しん)じるのではなく、イエス様という人格(じんかく)を心から信頼(しんらい)する者を神さまは(よろこ)ばれます。

この地上(ちじょう)人生(じんせい)を終えた後、天の御国(みくに)(むか)()れていただき、神の子どもとしての財産(ざいさん)()()ぎます。もちろんこの地上(ちじょう)の歩みも神様とつながり祝福(しゅくふく)(そそ)がれます。

罪と赦し

詩篇(しへん)51(ぺん)1-12(せつ)より

土山みことばキリスト教会

2023年6月4日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言(よげん)者ナタンが彼のもとに来たとき

(かみ)よ。御恵(みめぐ)みによって、私に(なさ)けをかけ、あなたの(ゆた)かなあわれみによって、私のそむきの(つみ)をぬぐい()ってください。どうか私の(とが)を、私から(まった)(あら)()り、私の(つみ)から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの(つみ)を知っています。私の(つみ)は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、(つみ)(おか)し、あなたの御目(おんめ)(あく)であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告(せんこく)されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は(とが)ある者として生まれ、(つみ)ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実(しんじつ)を喜ばれます。それゆえ、私の心の(おく)知恵(ちえ)(すく)えてください。ヒソプをもって私の(つみ)(のぞ)いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を(あら)ってください。そうすれば、私は(ゆき)よりも白くなりましょう。私に、(たの)しみと(よろこ)びを、()かせてください。そうすれば、あなたがお(くだ)きになった(ほね)が、(よろこ)ぶことでしょう。 御顔(みかお)を私の(つみ)から(かく)し、私の(とが)をことごとく、ぬぐい()ってください。(かみ)よ。私にきよい心を(つく)り、ゆるがない(れい)を私のうちに(あたら)しくしてください。私をあなたの御前(みまえ)から、()()てず、あなたの聖霊(せいれい)を、私から()()らないでください。あなたの(すく)いの(よろこ)びを、私に(かえ)し、(よろこ)んで(つか)える(れい)が、私をささえますように。

詩篇(しへん)51(ぺん)1-12(せつ)

<説教>

「あなた」と「わたし」と聞いて、何を連想(れんそう)しますか?

聖書(せいしょ)はずばり「神」と「私」の関係です。この詩篇(しへん)51篇の19節中で原語(げんご)では「私」が38回、「あなた」が47回出てきます。

(つみ)(ゆる)しは、たんに懺悔(ざんげ)のような自分一人の独白(どくはく)ではなく、気分的に楽になるのでもありません。神との親密(しんみつ)な関係の中に(たし)かな(ゆる)しが与えられるのです。

この詩篇(しへん)の中で、信仰者(しんこうしゃ)であったダビデはひたすら(つみ)(ゆる)しを(ねが)います。神を信じる者を神は決して見捨(みす)てない「御恵(みめぐ)み」(ヘブル語のヘセドで契約(けいやく)にもとづく愛の意味)、「あわれみ」(ヘブル語ラーハムで母の(たい)、子への生命の愛の意味)にすがります。

そして彼は、自分が(つみ)ある者であることを正直(しょうじき)告白(こくはく)します。ダビデが自分の(つみ)を知ったのは、彼に語った預言者(よげんしゃ)ナタンの言葉によってでした。ダビデ王の権力(けんりょく)によって、ナタンを消しさることもできました。しかし、ダビデは神のことばを真実(しんじつ)なものとして(つみ)(ゆる)しを乞いました。

(つみ)とはそれが発覚(はっかく)するかどうかはまったく関係ありません。神はすべての(つみ)をご存知(ぞんじ)だと聖書(せいしょ)は言うのです。(つみ)とは神を信じる者が、神の知恵(ちえ)によって(みと)めることができるのです。

しかし同時にその神だけが(つみ)解決(かいけつ)をお持ちです。ダビデは9節で「御顔(みかお)を私の(つみ)から(かく)し」てくださいと(いの)ります。すべての(つみ)をご存知(ぞんじ)の神に対して無意味(むいみ)にも思えます。しかし、すべての(つみ)をご存知(ぞんじ)の神が、人間の(つみ)(おお)(かく)してくださる。これは、新約(しんやく)聖書(せいしょ)のイエス・キリストの十字架(じゅうじか)(つみ)(あがな)いへとつながっていくのです。

さらに、ダビデはただ儀式的(ぎしきてき)(つみ)(ゆる)されるのではなく、彼の内の(つみ)性質(せいしつ)が変えられ、きよめられ、新しく(つく)り変えられることを(ねが)(もと)めるのです。

人間の(ゆる)しとは大目(おおめ)に見ること、我慢(がまん)することでしょう。しかし、神の(ゆる)しは、完全(かんぜん)であるだけでなく、()なる(正しい)者に内側(うちがわ)から刷新(さっしん)することを言うのです。

聖書(せいしょ)の最初は

「初めに、神が天と地を創造(そうぞう)した。」(創世記(そうせいき)1:1)

です。ここの「創造(そうぞう)した」はヘブル原語でバーラーという言葉です。これは主語(しゅご)が「神」の時だけに使われる特別な言葉です。

本編(ほんぺん)の10節の「私にきよい心を(つく)り」の「(つく)り」に使われているのがこのバーラーです。神を信じる者は、(つみ)(ゆる)され、神によってその心が雪よりも白く(つく)り変えられるのです。

そのためにいかなる(ささ)げものや犠牲(ぎせい)必要(ひつよう)ありません。その犠牲(ぎせい)はイエス・キリストが十字架(じゅうじか)でその(とうと)い命すべてを(ささ)げてくださいました。

人間の側で必要(ひつよう)なのは、次の聖書(せいしょ)の言葉にあらわされています。

神へのいけにえは、(くだ)かれたたましい。(くだ)かれた、()いた心。

神よ。あなたは、それをさげすまれません。       詩篇(しへん)51篇17節)

どんな(つみ)を犯したとしても、絶望(ぜつぼう)してはいけません。イエス・キリストはあなたの(つみ)のために死んでくださいました。告白(こくはく)だけが人を(つみ)から(すく)ってくれます。

いかなる(つみ)であっても、()(あらた)めるなら、あなたは神から(うしな)われることなく、神とともに生き続けることができます。そして神だけがあなたの大切な人生を、いつも新しく切り開き、(つく)られるお方なのです。この地上だけでなく永遠にです。

キリストにあってすべてが新しい

コリント人への手紙第二5章11-21節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月28日

<説教>

こういうわけで、私たちは、(しゅ)(おそ)れることを知っているので、人々を説得(せっとく)しようとするのです。私たちのことは、神の御前(みまえ)(あき)らかです。しかし、あなたがたの良心(りょうしん)にも(あき)らかになることが、私の(のぞ)みです。私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦(すいせん)しようとするのではありません。ただ、私たちのことを(ほこ)機会(きかい)をあなたがたに(あた)えて、心においてではなく、うわべのことで(ほこ)る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が(くる)っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気(しょうき)であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを()(かこ)んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後(こんご)、人間的な標準(ひょうじゅん)で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準(ひょうじゅん)でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(つく)られた者です。古いものは()()って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解(わかい)させ、また和解(わかい)(つと)めを私たちに(あた)えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この()をご自分と和解(わかい)させ、違反(いはん)行為(こうい)()めを人々に()わせないで、和解(わかい)のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節(しせつ)なのです。ちょうど神が私たちを(とお)して懇願(こんがん)しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解(わかい)()()れなさい。神は、(つみ)を知らない方を、私たちの代わりに(つみ)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の()となるためです。

(コリント人への手紙第二5章11-21節)

<説教>

あなたは新しく生まれ変わりたいですか。

人間の体の90%は生まれ変わっているのをご存知(ぞんじ)ですか。(ふる)細胞(さいぼう)が新しい細胞(さいぼう)に入れ替わるのです。約4か月前に食べたものが今の、あなたの血や肉や骨になっているのです。

(のう)細胞(さいぼう)(のう)みそ)と心筋(しんきん)細胞(さいぼう)心臓(しんぞう)筋肉(きんにく)以外(いがい)細胞(さいぼう)は、物質的(ぶっしつてき)にほとんど()()わっていると言われています。約1年半後、見た目は変わらなくてもあなたはほぼ別人になっているわけです。

(おどろ)きですね。しかし、この人間を(つく)られた神は、人の内面(うちめん)をも(つく)()えることができるのです。

その方法は、聖書(せいしょ)を読んで、自分の(つみ)気付(きづ)き、心を()()えて、神を信じて愛して生きることです。それ以外(いがい)に、人間は新しく生きることは(けっ)してできません。

イエスが自分の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださったこと、また三日目によみがえられたことを信じるなら、その瞬間(しゅんかん)、あなたの(れい)(たましい)は新しくされます。あなたの中に、イエスが生き始めてくださいます。

外見(がいけん)は何も変わっていないように思えるかも知れません。しかし、その変化は時間が()つに(したが)って明らかにあらわれます。(つみ)に対して適当(てきとう)にごまかして生きることができなくされ、真実(しんじつ)に生きようという思いが(あた)えられます。自分の弱さを知り、イエス様を求めるようになります。人生の価値(かち)基準(きじゅん)が変えられます。生きる目的がはっきりし、自分を大切に健全(けんぜん)(あい)する者へと変えられます。

それは、すべてイエス・キリストに()た者へと変えられることであると聖書(せいしょ)は言っています。

イエスは(かみ)でありながら、人間としてこの地上に来られ、父なる(かみ)を大切に(あい)して(したが)い、人々を(あい)して、人間の本来(ほんらい)の生き方を(おし)えて下さいました。

人間は(あい)している者、信じている者に()ていきます。イエスを信じて(あい)して生きるとき、まったく新しい人生を始めることができるのです。

命とは不思議(ふしぎ)なものです。命の誕生(たんじょう)は人間には説明できません。

あなたは自分が生まれたときのことを(おぼ)えていますか。おそらく何も(おぼ)えていないでしょう。しかし、心を入れ()えてイエスを信じて生きようとするなら、もう一度新しく(たましい)が生まれ変わります。それは、あなたの(よろこ)びと希望(きぼう)となり、イエスこそがあなたの人生の目的になることでしょう。

信仰は神に答えるただ一つの手段

創世記11章27節-12章4節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月21日

<聖書>

これはテラの歴史(れきし)である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中(ぞんめいちゅう)、彼の生まれ故郷(こきょう)であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊(ふにん)の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。【主】はアブラムに(おお)せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷(こきょう)、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福(しゅくふく)し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福(しゅくふく)となる。あなたを祝福(しゅくふく)する者をわたしは祝福(しゅくふく)し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族(みんぞく)は、あなたによって祝福(しゅくふく)される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

(創世記11章27節-12章4節)

<説教>

創世記(そうせいき)は、「人類(じんるい)(はじ)め」について書かれています。宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)、人間の創造(そうぞう)、人間の堕落(だらく)、ノアの洪水(こうずい)による神の審判(しんぱん)、バベルの(とう)の後、言葉が混乱(こんらん)して、人々は()()りにされました。

しかし、神に(そむ)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)に生きようとする罪深(つみぶか)い人間に、神はいつも語りかけてくださいます。

人間を(つみ)と死の(ほろ)びから、救い出そうとする神の(あがな)いの計画は、ひとりの人物、アブラハムから始まります。

神はアブラハムの心が神の御前(みまえ)真実(しんじつ)であるのをご(らん)になります。しかし、アブラハムは、異邦(いほう)の神、偶像(ぐうぞう)を神とするウルの町に住んでいました。神はアブラハムをそこから(すく)い出されます。神の語りかけに答えるならは、人は(つみ)の世から分離(ぶんり)(せい)(べつ))されていきます。

75歳で子供のないアブラハムにとって、自分の子孫(しそん)を通して祝福(しゅくふく)を与える神の約束(やくそく)は、常識(じょうしき)では(しん)じられないものでした。神の約束(やくそく)はかならず()たされますが、その中に信仰(しんこう)試練(しれん)が含まれています。

神は高齢(こうれい)のアブラハム夫婦(ふうふ)から星の数ほどの子孫(しそん)(あた)えることがおできになることをアブラハムは信仰(しんこう)によって(しん)じました。そうです。神は約束(やくそく)されたことを必ず実現(じつげん)されます。神の語りかけに、アブラハムはすぐに答えました。まったく未知(みち)の地へ新しく(すす)みだしたのです。

神の約束(やくそく)()()るただ一つの方法は「信仰(しんこう)」です。神のことばを間違(まちが)いのない真実(しんじつ)なものと(しん)じることです。

聖書(せいしょ)のいう信仰(しんこう)者とは、正しい行いを守ることによっていただくよりも深い、真実(しんじつ)な神との関係を知っていました。

聖書(せいしょ)(はじ)めから終わりまで信仰(しんこう)によって()()る神の約束(やくそく)です。

イエス・キリストを(すく)(しゅ)と信じる信仰(しんこう)特別(とくべつ)なものでなく、人間が創造(そうぞう)された(むかし)から神に対する人間ができる唯一(ゆいいつ)応答(おうとう)なのです。

アブラハムに約束された祝福(しゅくふく)は、イエス・キリストを通して完全(かんぜん)成就(じょうじゅ)しました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じる者を()(つみ)のない者)と(みと)めてくださいます。

イエスに従う者の生き方

マルコの福音書10章35-45節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月14日

<聖書>

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの(たの)(ごと)をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光(えいこう)()で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を(もと)めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの()もうとする(さかずき)()み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの()(さかずき)()み、わたしの()けるべきバプテスマを()けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが(ゆる)すことではありません。それに(そな)えられた人々があるのです。」十人の(もの)がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで(はら)()てた。そこで、イエスは彼らを()()せて、言われた。「あなたがたも()っているとおり、異邦人(いほうじん)支配者(しはいしゃ)(みと)められた(もの)たちは彼らを支配(しはい)し、また、(えら)い人たちは彼らの上に権力(けんりょく)をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で(えら)くなりたいと思う(もの)は、みなに(つか)える(もの)になりなさい。あなたがたの間で人の先に()ちたいと思う(もの)は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、(つか)えられるためではなく、かえって(つか)えるためであり、また、多くの人のための、(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを(あた)えるためなのです。」

(マルコの福音書(ふくいんしょ)10章35-45節)

<説教>

イエスの弟子(でし)のヤコブとヨハネは他の弟子(でし)たちと同じように、すべてを()ててイエスに(したが)ってきました。しかし、心の中では人よりも自分が評価(ひょうか)されたいとも考えていました。

かつて弟子(でし)たちは天国(てんごく)で一番(えら)い者とはどのような人かをイエスに質問(しつもん)しました。人間とはそもそも(えら)くなりたい、(みと)められたいと(ねが)うものなのです。

キリスト者とはイエスに(したが)って生きる者です。そこには自分のためだけに生きる者が経験(けいけん)しない試練(しれん)(くる)しみがあることでしょう。

けれども、たとえイエスと(くる)しみをともに()けても天国(てんごく)()ける(むく)いの確約(かくやく)()ることはできません。究極的(きゅうきょくてき)にはすべての最後の権限(けんげん)はキリストの父である(かみ)にあります。私たちが(もと)めるべきは、いかに(むく)いを()けるかよりも、いかにイエスに(したが)って(つか)えていくかなのです。

イエスを(しん)じて生きる者は、この世の権力者(けんりょくしゃ)のようであってはなりません。(かみ)の前では、そのような権力(けんりょく)や力はまったく通用(つうよう)しません。(かみ)の前では人に(つか)える者こそ(たっと)ばれる生き方です。(つか)える給仕(きゅうじ)、しもべのように役に立つ、謙遜(けんそん)姿勢(しせい)がキリスト者の根本的(こんぽんてき)姿勢(しせい)です。

イエスは、その(すく)(ぬし)(メシヤ)としての生涯(しょうがい)(とお)して(つか)えるしもべの生き方を(しめ)されました。その十字架(じゅうじか)こそが完全(かんぜん)模範(もはん)でした。

(あがな)いの代価(だいか)(ギリュトゥトロン)」とは、自分の力ではどうしても()け出せない(つみ)奴隷(どれい)状態(じょうたい)から人間を(すく)い出すためにイエスが十字架(じゅうじか)支払(しはら)われた(いのち)です。

十字架(じゅうじか)の死にまで(したが)ったイエスのお姿を知って、私たちがイエスを(しん)じて(あい)するとき、私たちもまた(だれ)かに(つか)えることによってイエスの(あい)十字架(じゅうじか)を本当に体験(たいけん)します。その生き方によって私たちはイエスに()真実(しんじつ)な人間に変えられていきます。

この世で人々から称賛(しょうさん)されるのは、さまざまな勝者(しょうしゃ)といわれる人たちかも知れません。しかし、(かみ)天国(てんごく)(かんむり)をかぶらせてくれる者とは、(だれ)にも知られないような人生の中で、小さきものに(つか)えた者なのです。

驚くべき恵み~キリストと共に生かす

エペソ人への手紙2章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月7日

<聖書>

あなたがたは自分の罪過(ざいか)(つみ)との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの(つみ)の中にあってこの()(なが)れに(したが)い、空中(くうちゅう)権威(けんい)を持つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に(はたら)いている(れい)(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の(にく)(よく)の中に生き、(にく)と心の(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを()けるべき子らでした。しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙2章1-5節)

<説教>

(かみ)(おどろ)くべき、(しん)じがたい(めぐ)みを知るには、人間がいかにひどい状態(じょうたい)なのかを知る必要(ひつよう)があります。

死とはやがて(むか)える未来(みらい)のことではなく、今現在(げんざい)の人間の姿(すがた)こそが()であると聖書(せいしょ)ははっきりと示しています。すなわち、()とは、人間の生命(せいめい)(みなもと)である(かみ)との関係を(うしな)った状態(じょうたい)を言うのです。人間の(れい)は「()んでいる」とか「(よわ)っている」とかではなく、「()んでいる」のです。

人間は(つみ)と共に生まれてきます。その人間は(つみ)支配(しはい)され、奴隷(どれい)とされて、(かみ)(したが)うことができません。人間とは生まれながら(かみ)御怒(みいか)りを()けるべき子どもなのです。この御怒(みいか)りとはすべての人間が死後(しご)()ける審判(しんぱん)のことです。

しかし、(かみ)(あい)は、人間に次のような(しん)じられない(めぐ)みを(あた)えてくださいます。

  • (かみ)への(とびら)(ひら)かれています

道を外れて家出した子どもは、もう帰る家の()はかたく()ざされていると考えるかも知れません。キリストの十字架(じゅうじか)(つみ)(あがな)いによって、(しん)じる者はいつでも(かみ)への和解(わかい)の道が用意(ようい)されています。(かみ)()(あらた)めて(もど)ってくる人間を(よろこ)んで待っておられます。

  • (つみ)によって()んだ理想(りそう)()をともしてくださいます

人間は(つみ)()(かえ)すことによって、人生の気高(けだか)理想(りそう)(うしな)ってしまいます。しかしキリストの(めぐ)みは、()()った理想(りそう)にふたたび()をともします。人生はふたたび生きる価値(かち)あるものとされます。

  • (つみ)によって(うしな)われた意志(いし)に命を()()み新しく(つく)()えてくださいます

(つみ)徐々(じょじょ)に、しかし確実(かくじつ)に人間の(とうと)意志(いし)()(めつ)させてしまいます。(きん)じられた悪いことがやめられなくなり、人間の正しい自由(じゆう)意志(いし)の力を(うば)()ります。そしてまったくなす(すべ)もなく(つみ)(くさり)(しば)られてしまうのです。しかし、キリストは(うしな)われた意志(いし)を新しく(つく)られます。(あい)は人に新しい力を(あた)えるのです。人間の真実(しんじつ)(あい)が人に生きる力を(あた)えるとしたら(かみ)(あい)ははるかにそれ以上です。人はキリストを(あい)するとき、まさに、その(あい)が私たちの意志(いし)(ぜん)()けて新しく(つく)()えるのです。

この素晴(すば)らしい(かみ)(めぐ)み(プレゼント)はすべて無料(むりょう)です。(ゆる)しは、ただ(かみ)一方的(いっぽうてき)(あい)の行いです。人間の(がわ)出来(でき)ることは何一つないのです。

キリストの十字架(じゅうじか)()を、自分の(つみ)身代(みが)わりであると感謝(かんしゃ)して、ただ()()るならば、あなたはこの(めぐ)みをご自分のものとすることができるのです。

信仰によってイエスと生きる

マタイの福音書14章22-33節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月30日

<聖書>

それからすぐ、イエスは弟子(でし)たちを()いて(ふね)()()ませて、自分より先に()こう(きし)へ行かせ、その間に群衆(ぐんしゅう)(かえ)してしまわれた。群衆(ぐんしゅう)(かえ)したあとで、(いの)るために、ひとりで山に(のぼ)られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、(ふね)は、(りく)からもう何キロメートルも(はな)れていたが、風が()かい風なので、(なみ)(なや)まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは(みずうみ)の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子(でし)たちは、イエスが(みずうみ)の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊(ゆうれい)だ」と言って、おびえてしまい、(おそ)ろしさのあまり、(さけ)(ごえ)を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。(おそ)れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「(しゅ)よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお(めい)じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは(ふね)から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、(しず)みかけたので(さけ)び出し、「(しゅ)よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を()ばして、彼をつかんで言われた。「信仰(しんこう)(うす)い人だな。なぜ(うたが)うのか。」そして、ふたりが(ふね)()(うつ)ると、風がやんだ。そこで、(ふね)の中にいた者たちは、イエスを(おが)んで、「(たし)かにあなたは(かみ)の子です」と言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)14章22-33節)

<説教>

このお話しは、イエスが5つのパンと2匹の魚から5千人に食事(しょくじ)(あた)えた奇蹟(きせき)の後の出来事(できごと)です。

弟子(でし)たちは、真夜中(まよなか)の海で向かい風と強い(なみ)悪戦苦闘(あくせんくとう)していました。そんな弟子(でし)たちを(なぐさ)めるためにイエスは海の上を歩いて弟子(でし)たちに近づきました。

(つか)()った弟子(でし)たちは、昼間の奇蹟(きせき)を忘れて、イエスを幽霊(ゆうれい)()間違(まちが)って(おそ)れます。イエスは弟子(でし)たちに言われます

「しっかりしなさい。わたしだ。(おそ)れることはない」

これは現実(げんじつ)問題(もんだい)(おそ)れてしまう私たちへのイエスのおことばです。どんな状況(じょうきょう)の中であってもイエスを(しん)じることだけがあなたを(まも)ってくれるのです。

イエスのことばを(しん)じたときペテロの(おそ)れは()え、イエスだけを()()ぐに見て水の上を歩くことができました。しかし、その直後(ちょくご)に風と(なみ)を見たとき彼の心に(おそ)れが生まれ、海に(しず)みそうになります。(しん)(つづ)けることが(むずか)しいのです。

科学(かがく)では人間は絶対(ぜったい)に水の上を歩けません。重力(じゅうりょく)浮力(ふりょく)法則(ほうそく)(さか)らうことができないからです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)(つく)られた(かみ)を信じる者は(さいわ)いです。(かみ)は見えるものだけでなく、時間や光、力やあらゆる物理(ぶつり)法則(ほうそく)(さだ)められました。

しかしイエスを(しん)じる信仰(しんこう)は、重力(じゅうりょく)浮力(ふりょく)(さか)らって水の上を歩くより(おどろ)くべきことです。それは人間にはどうすることもできない(つみ)の力、人間をがんじがらめにしている(つみ)(くさり)からの解放(かいほう)です。イエスが十字架(じゅうじか)で死んでくださり、よみがえられたことで、(つみ)の力はもう()()られたのです。イエスを(しん)じるなら、(つみ)の力はもうあなたを(ふか)(やみ)(しず)めることはできません。

水の上を歩くよりも不思議(ふしぎ)な道です。それは目には見えない、どこを(さが)しても見つからない信仰(しんこう)という小さい門、イエスと共にしか歩めない真理(しんり)という(せま)い道を生きることです。

そのようにイエスを信じて(すく)われた者も何度(なんど)何度(なんど)失敗(しっぱい)します。しかしイエスに(したが)う者は(かなら)(たす)けられ、そこから立ち上り、前へ前へと進んでいくことができるのです。その道は天国につながっています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書14:6)