探して近づいてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月23日

<聖書>

またこう話された。「ある人に息子(むすこ)がふたりあった。(おとうと)が父に、『お父さん。私に財産(ざいさん)の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代(しんだい)をふたりに分けてやった。それから、幾日(いくにち)もたたぬうちに、(おとうと)は、何もかもまとめて遠い国に旅立(たびだ)った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水(ゆみず)のように財産(ざいさん)使(つか)ってしまった。何もかも使(つか)()たしたあとで、その国に大ききんが()こり、彼は食べるにも(こま)(はじ)めた。それで、その国のある人のもとに()()せたところ、その人は彼を畑にやって、(ぶた)世話(せわ)をさせた。彼は(ぶた)の食べるいなご(まめ)(はら)()たしたいほどであったが、だれひとり彼に(あた)えようとはしなかった。しかし、(われ)(かえ)ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり(あま)っている(やと)(にん)が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、()()にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して(つみ)おか)し、またあなたの前に(つみ)(おか)しました。もう私は、あなたの子と()ばれる資格(しかく)はありません。(やと)(にん)のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは(とお)かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り()って彼を()き、口づけした。息子(むすこ)は言った。『お父さん。私は天に対して(つみ)(おか)し、またあなたの前に(つみ)(おか)しました。もう私は、あなたの子と()ばれる資格(しかく)はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『(いそ)いで一番()着物(きもの)()って来て、この子に()せなさい。それから、手に指輪(ゆびわ)をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして()えた子牛(こうし)()いて()てほふりなさい。食べて(いわ)おうではないか。この息子(むすこ)は、()んでいたのが()(かえ)り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴(しゅくえん)(はじ)めた。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)15章11-24節)

<説教>

有名(ゆうめい)放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話です。正確(せいかく)には、(うしな)われた子どもたち・父の(あい)物語(ものがたり)と言えます。

父の存命中(ぞんめいちゅう)相続(そうぞく)財産(ざいさん)()()り、父のもとから(とお)(はな)れて放蕩(ほうとう)のすえ、友も(うしな)孤独(こどく)となり、食べるのにも(こま)()て、ユダヤ人にとって(けっ)してあってはならない(ぶた)世話(せわ)をするまで()ちぶれてしまいます…

人間の(つみ)とは一体(いったい)(なん)でしょうか。それは人間は(あい)に対して反逆(はんぎゃく)する存在(そんざい)だということです。それは、(あい)するために子に(いのち)(あた)えた(かみ)にとっては(かんが)えられないことでした。(けっ)してあってはならないことでした。

子の(つみ)は、親のお金を自分の(よく)のために浪費(ろうひ)したことではありません。この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)が父親の(あい)から独立(どくりつ)して生活したいと、なぜか(かんが)えたことなのです。それは親を(うやま)っての自立(じりつ)ではありませんでした。父親の意志(いし)(したが)うことが窮屈(きゅうくつ)と感じて、父から(はな)れて生きようとすることでした。また人生の主導権(しゅどうけん)は自分であって自分のしたいように生きようとすることでした。家庭(かてい)(あい)の中で生きることは、自分の自由な人生を(さまた)げると(かんが)えて、その家族から(はな)れて生きようとすることでした。

(じつ)はそれこそが、人類(じんるい)最初(さいしょ)(つみ)最初(さいしょ)の人アダムが(かみ)(したが)わず、(かみ)から(はな)れて生きることと同じなのです。それ以来(いらい)(つづ)人類(じんるい)物語(ものがたり)歴史(れきし)です。

(つみ)とは、自分を(つく)った(かみ)の最高の(あい)のもとで被造物(ひぞうぶつ)として(したが)わずに、(かみ)がくださる素晴(すば)らしい賜物(たまもの)(かみ)のために使わずに、(かみ)のもとから(はな)れて生きることです。しかし、(かみ)から(はな)れて自由に生きようとするとき、人間は(かなら)(つみ)奴隷(どれい)になると聖書(せいしょ)は教えています。

しかし父の(あい)熱心(ねっしん)(うしな)われた息子(むすこ)(さが)すのです。息子(むすこ)が家にいたときも、父の財産(ざいさん)をもって(とお)(はな)れたときも、すべてを(うしな)って(ぶた)世話(せわ)をしていたときも、父の(あい)は変わることはありませんでした。

ただ、(つみ)が父と息子(むすこ)の間にあるために、和解(わかい)には息子(むすこ)(こころ)変化(へんか)()たねばなりませんでした。自分と向き合い(つみ)悲惨(ひさん)(みと)め、(かみ)に立ち返ろうと(ねが)うこと、それは本人(ほんにん)以外(いがい)(だれ)にもできません。

人間は(かみ)から(はな)れて(さか)らっている間は、本当の自分から(はな)れています。(かみ)に立ち返るとき人間ははじめて本当の自分を見つけることができるのです。

(われ)(かえ)ったとき、息子(むすこ)は父に(したが)わなかった(つみ)の生き方を止めて父に(したが)(やと)(にん)になることで満足(まんぞく)します。もう(あい)される子どもの資格(しかく)はないと考えるかも知れません。

しかし、(かみ)の前に()(あらた)めるなら、父なる(かみ)は、(よろこ)んで彼を(むか)えてくださり、完全(かんぜん)なこども以上の存在(そんざい)(あた)えてくださいます。

あなたがたは自分の罪過(ざいか)(つみ)との中に()んでいた者であって、そのころは、それらの(つみ)の中にあってこの世の(なが)れに(したが)い、空中(くうちゅう)権威(けんい)()支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に(はたら)いている(れい)(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の(にく)(よく)の中に生き、(にく)(こころ)(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを()けるべき子らでした。しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に()んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです── 

(エペソ人への手紙2:1-5

すべて疲れた人へ

マタイの福音書11章20-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月16日

<聖書>

それから、イエスは、数々(かずかず)の力あるわざの行われた町々が()(あらた)めなかったので、()(はじ)められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの(むかし)(あら)(ぬの)をまとい、(はい)をかぶって()(あらた)めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは(ばつ)(かる)いのだ。カペナウム。どうしておまえが(てん)に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで(のこ)っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは(ばつ)(かる)いのだ。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地(てんち)(おも)であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、(かしこ)(もの)知恵(ちえ)のある(もの)には(かく)して、幼子(おさなご)たちに(あらわ)してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに(わた)されています。それで、父のほかには、子を()(もの)がなく、子と、子が父を()らせようと(こころ)(さだ)めた人のほかは、だれも父を()(もの)がありません。すべて、(つか)れた人、重荷(おもに)()っている人は、わたしのところに()なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは(こころ)(やさ)しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを()って、わたしから(まな)びなさい。そうすればたましいに安らぎが()ます。わたしのくびきは()いやすく、わたしの()(かる)いからです。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

ツロ、シドンは旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)で、異邦(いほう)(かみ)(すう)(はい)して、栄華(えいが)快楽(かいらく)(たか)ぶりにより、ユダヤをあざけり(ほろ)ぼされた国です。ソドムは(けが)れた肉欲(にくよく)罪深(つみふか)い町であり、(つみ)(ばつ)代名詞(だいめいし)でした。けれども、そんな町々でさえ、イエスがなされる(かみ)奇蹟(きせき)を見るなら(つみ)()(あらた)めるので、ユダヤの町々よりも(つみ)は軽いとイエスは言われます。

イエスを信じて(つみ)()(あらた)めるなら、天国(てんごく)に入れる福音(ふくいん)(よい知らせ)は、(かしこ)い者や知恵(ちえ)ある者には(かみ)(かく)されるのです。(かみ)形式(けいしき)儀式(ぎしき)(きら)われます。(かみ)(あい)する心を(よろこ)ばれます。()からさげすまれ、価値(かち)なき者、無知(むち)な者、ただ素直(すなお)な者に(かみ)(すく)いの御国(みくに)(めぐみ)として(あた)えてくださるのです。

父なる(かみ)を知るのは子なるイエスだけです。またイエスを知るのは(かみ)だけです。父なる(かみ)と子なるイエスは特別な関係(かんけい)をもちます。天の御国(みくに)にまつわるすべては(かみ)からイエスに委ねられています。ただ、イエスによってのみ、人間は(かみ)を知ることができるのです。ここで言う「知る」とはたんなる知的(ちてき)知識(ちしき)ではなくて、いのちが(かよ)い合う存在(そんざい)関係(かんけい)です。

イエスは、すべての人に、わたしのもとに来るように(まね)いています。それは、(つみ)重荷(おもに)(くる)しむ者、人生の思いわずらい、(くる)しみ、問題(もんだい)(なや)む者です。この(まね)きにこたえてイエスのもとに来るものは重荷(おもに)をおろして休むことができると約束(やくそく)されています。

それはイエスのくびきを共にいただくことです。くびきとは人間が2(とう)(うし)(うま)(くび)(いた)ではさんで固定(こてい)して(あやつ)道具(どうぐ)です。

それは、気ままに歩む者には、束縛(そくばく)であり邪魔(じゃま)なものです。しかし、主人(しゅじん)(したが)おうとする者には必要(ひつよう)であり、また(ねが)うものです。イエスこそがすべての主権者(しゅけんしゃ)である(かみ)であり、この方を(みと)めて、信頼(しんらい)して生きるとき、人は(はじ)めてまことの平安(へいあん)をいただくことができるのです。そのとき、不安(ふあん)罪悪感(ざいあくかん)欲求(よっきゅう)不満(ふまん)からくる緊張(きんちょう)や、あせりから解放(かいほう)されます。

なぜなら、イエスが(あた)えるくびきは、あなたの体にぴったり合ったオーダーメイドのくびきだからです。(はだ)がすりむけるような苦痛(くつう)窮屈(きゅうくつ)なくびきではありません。(つみ)重荷(おもに)や、()(みと)められる労苦(ろうく)()わえつけられたくびきではないのです。

いつもイエスが共にいる歩みであり、決して重荷(おもに)にはなりません。イエスを知っていく、(つみ)重荷(おもに)()()れ、(けが)れからきよめらえる(あい)(よろこ)びと平安(へいあん)の歩みなのです。

   1.(しゅ)にすがるわれに (なや)みはなし
 十字架(じゅうじか)御許(みもと)()を下ろせば
 (うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
  
 2.(おそ)れは()わりて 祈りとなり
 (なげ)きは()わりて (うた)となりぬ
 (うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
   
 3.(しゅ)はいと(やさ)しく われと(かた)(とぼ)しき()()たし(たま)(うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
  
 4.(しゅ)御約束(みやくそく)()わりはなし
 御許(みもと)()くまで (ささ)(たま)わん
 (うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
  
 聖歌498番
 (うた)いつつ(あゆ)まん((しゅ)にすがる我に) 

十字架の上

マタイの福音書27章27-51節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月2日

<聖書>

それから、総督(そうとく)兵士(へいし)たちは、イエスを官邸(かんてい)の中に()れて行って、イエスの回りに全部隊(ぜんぶたい)(あつ)めた。そして、イエスの着物(きもの)()がせて、緋色(ひいろ)上着(うわぎ)()せた。それから、いばらで(かんむり)()み、(あたま)にかぶらせ、右手(みぎて)(あし)を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の(おう)さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、(あし)()り上げてイエスの(あたま)をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物(きもの)()がせて、もとの着物(きもの)()せ、十字架(じゅうじか)につけるために()れ出した。そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架(じゅうじか)を、むりやりに背負(せお)わせた。ゴルゴタという(ところ)(「どくろ」と言われている場所(ばしょ))に来てから、彼らはイエスに、(にが)みを()ぜたぶどう(しゅ)()ませようとした。イエスはそれをなめただけで、()もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架(じゅうじか)につけてから、彼らはくじを()いて、イエスの着物(きもの)を分け、そこにすわって、イエスの見張(みは)りをした。また、イエスの(あたま)の上には、「これはユダヤ人の(おう)イエスである」と書いた罪状(ざいじょう)()きを(かか)げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗(ごうとう)が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架(じゅうじか)につけられた。(みち)を行く人々は、(あたま)()りながらイエスをののしって、言った。「神殿(しんでん)を打ちこわして三日(みっか)()てる人よ。もし、神の子なら、自分を(すく)ってみろ。十字架(じゅうじか)から()りて()い。」(おな)じように、祭司(さいし)(ちょう)たちも律法(りっぽう)学者(がくしゃ)(ちょう)(ろう)たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人(たにん)(すく)ったが、自分は(すく)えない。イスラエルの(おう)だ。今、十字架(じゅうじか)から()りてもらおうか。そうしたら、われわれは(しん)じるから。彼は(かみ)により(たの)んでいる。もし(かみ)のお気に入りなら、いま(すく)っていただくがいい。『わたしは(かみ)の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架(じゅうじか)につけられた強盗(ごうとう)どもも、(おな)じようにイエスをののしった。さて、十二時(じゅうにじ)から、全地(ぜんち)(くら)くなって、三時(さんじ)まで(つづ)いた。三時(さんじ)ごろ、イエスは大声(おおごえ)で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と(さけ)ばれた。これは、「わが(かみ)、わが(かみ)。どうしてわたしをお見捨(みす)てになったのですか」という意味(いみ)である。すると、それを()いて、そこに()っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを()んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ(はし)って行って、海綿(かいめん)()り、それに()いぶどう(しゅ)(ふく)ませて、(あし)(ぼう)につけ、イエスに()ませようとした。ほかの(もの)たちは、「私たちはエリヤが(たす)けに()るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度(いちど)大声(おおごえ)(さけ)んで、(いき)()()られた。すると、見よ。神殿(しんでん)(まく)が上から下まで()(ぷた)つに()けた。そして、()()(うご)き、(いわ)()けた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

十字架刑(じゅうじかけい)は、特別(とくべつ)犯罪(はんざい)にしか使われませんでした。それは主人(しゅじん)裏切(うらぎ)った者、逃亡(とうぼう)した者、最も低い身分(みぶん)の者が重い(つみ)(おか)した場合でした。

(けが)れた罪人(つみびと)が地上に()れないように、十字架(じゅうじか)の上で()から()てられた存在(そんざい)として、苦痛(くつう)と、さげすみと、はずかしめを()けるのです。

そして、イエスは(くる)しみの十字架(じゅうじか)の上で、父なる(かみ)にも見()てられました。

なぜでしょうか。(かみ)完全(かんぜん)に正しいお(かた)で、きよく、(あい)なるお(かた)です。(かみ)全能(ぜんのう)で何でもできます。しかし、(かみ)のご性質(せいしつ)(はん)することはできません。(かみ)(つみ)をそのままにしておくことはできないのです。

イエスが十字架(じゅうじか)()ななければならないほど、人間の(つみ)(おも)いのです。十字架(じゅうじか)の上で、すべての人間の(つみ)身代(みが)わりとなり、父なる(かみ)の目には、イエスが完全(かんぜん)罪人(つみびと)として見えたのです。そして、罪人(つみびと)としての刑罰(けいばつ)を、すべてお()けになったのです。(つみ)(かみ)との関係(かんけい)を失わせます。(かみ)(つく)られた者にとって、(かみ)(こた)えがないことは何よりも苦痛(くつう)なのです。

イエスの右と左には強盗(ごうとう)十字架(じゅうじか)に付けられていました。一人の強盗(ごうとう)は、自分の(くる)しみを(さけ)び、(かみ)(のろ)っています。しかし、もう一人の強盗(ごうとう)は、自分の罪深(つみぶか)い人生に気付(きづ)きます。(かみ)がいないため、どうしようもない人生になったとわかったのです。しかし、彼はイエスが(かみ)であり、自分の罪深(つみぶか)さに(こた)えて下さると(しん)じたのです。

しかし、彼は、もう十字架(じゅうじか)の上で()ぬのをただ()つだけです。(のこ)された時間で彼にいったい何が出来(でき)るとういうのでしょうか。もう絶望(ぜつぼう)なのでしょうか。

いいえ。人はいつでも自分と()き合い、自分の(つみ)やけがれを心から、()(あらた)めるなら、イエスを(しん)じるだけで、その瞬間(しゅんかん)(すく)われ、(つみ)(ゆる)されます。

すべての人は、イエスの右と左の強盗(ごうとう)のどちらかです。それ以外の人はひとりもいません。すべての人間は罪人(つみびと)です。イエスが必要(ひつよう)なのです。

(かみ)は人間の(つみ)を決してあいまいにはできません。しかし、(かみ)同時(どうじ)に、その(つみ)刑罰(けいばつ)をご自分でお()けになったのです。

十字架(じゅうじか)は、(かみ)完全(かんぜん)な正しさと、完全(かんぜん)(あい)(あらわ)された()をいのちに()える(ちから)です。

(つみ)重荷(おもに)は、あまりに(おも)く、(だれ)背負(せお)うことなどできません。イエスはあなたを自由(じゆう)解放(かいほう)するために「完了した」と言われ()んでくださいました。

この(とうと)いイエスの犠牲(ぎせい)()、しかし、あなたのために(よろこ)んで十字架(じゅうじか)()んでくださったイエスを(しん)じませんか。

十字架と罪

マタイの福音書27章15-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月26日

<聖書>

ところで総督(そうとく)は、その(まつ)りには、群衆(ぐんしゅう)のために、いつも(のぞ)みの囚人(しゅうじん)をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人(しゅうじん)()らえられていた。それで、彼らが(あつ)まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(しゃくほう)してほしいのか。バラバか、それともキリストと()ばれているイエスか。」ピラトは、彼らがねたみからイエスを()(わた)したことに気づいていたのである。また、ピラトが裁判(さいばん)(せき)()いていたとき、彼の(つま)が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は(ゆめ)で、あの人のことで(くる)しいめに会いましたから。」しかし、祭司(さいし)(ちょう)長老(ちょうろう)たちは、バラバのほうを(ねが)うよう、そして、イエスを死刑(しけい)にするよう、群衆(ぐんしゅう)()きつけた。しかし、総督(そうとく)は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架(じゅうじか)につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな(わる)い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます(はげ)しく「十字架(じゅうじか)につけろ」と叫び続けた。そこでピラトは、自分(じぶん)では手の(くだ)しようがなく、かえって暴動(ぼうどう)になりそうなのを見て、群衆(ぐんしゅう)の目の前で水を()()せ、手を(あら)って、言った。「この人の()について、私には責任(せきにん)がない。自分(じぶん)たちで始末(しまつ)するがよい。」すると、民衆(みんしゅう)はみな(こた)えて言った。「その人の()は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放(しゃくほう)し、イエスをむち()ってから、十字架(じゅうじか)につけるために()(わた)した。  

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章15-26節)

<説教>

ローマの支配下(しはいか)のユダヤ(りょう)総督(そうとく)ポンテオ・ピラトによる、イエスの裁判(さいばん)が行われます。ユダヤ国は十字架刑(じゅうじかけい)執行(しっこう)する権限(けんげん)がなかったので、イエスを政治犯(せいじはん)としてローマの権限(けんげん)十字架刑(じゅうじかけい)にしようとしたのです。

裁判(さいばん)の中で、ピラトはイエスは無実(むじつ)であり、十字架刑(じゅうじかけい)にする理由(りゆう)はないと判断(はんだん)しました。ピラトはイエスを何とか釈放(しゃくほう)しようと努力(どりょく)します。しかし、イエスを(にく)むユダヤ指導者(しどうしゃ)や、彼らに扇動(せんどう)された群衆(ぐんしゅう)(くる)ったように、「イエスを十字架(じゅうじか)に付けろ!」と(さけ)(つづ)けます。その力を(おそ)れて、自分の身を守るために、ついにピラトはイエスを十字架(じゅうじか)へと()(わた)します。

しかし、実はピラトの本当の姿(すがた)堕落(だらく)していました。彼は不正(ふせい)を行い、残忍(ざんにん)で、不法(ふほう)裁判(さいばん)で人を(ころ)し、人間として(みち)(はず)していたのです。ピラトはイエスがこれまで裁判(さいばん)で見てきた罪人(つみびと)とはまったく(ちが)存在(そんざい)であることに気付(きづ)きます。いつしか、ピラト本人(ほんにん)がイエスに(さば)かれていました。無実(むじつ)のイエスをさばくことなどできない自分の罪深(つみぶか)姿(すがた)をピラトは苦しみます。

ピラトは、イエスの無実(むじつ)を知りながら、ユダヤ人たちに自分の過去(かこ)悪行(あくぎょう)を知られていたため、自分の判断(はんだん)や正しさを行えず、ユダヤ人の言いなりになったのです。

しかし、イエスは、そんなピラトの罪深(つみぶか)姿(すがた)をご存知(ぞんじ)でした。

人間は自分の(ねが)いをかなえるためには、少しの(あく)不正(ふせい)はかまわないと思うかも知れません。いえ、(あく)(ぜん)()()つと本気で考える人たちもいるかも知れません。

しかし、ヘロデ、カヤパ、ピラト、ヒットラー、スターリン、その他すべての悪人(あくにん)たちは(かみ)から(とお)(ほろ)()りました。しかし、イエスは今も生きておられる()なるお方です。

ピラトは社会的(しゃかいてき)立場(たちば)問題(もんだい)がなくても、すべてをご存知(ぞんじ)(かみ)の目には罪深(つみふか)姿(すがた)がありました。それはすべての人間の姿(すがた)でもあります。すべての人は十字架(じゅうじか)を王座とする血まみれのイエスという王によって裁かれるのです。人は十字架(じゅうじか)によってはじめて自分の(つみ)を知るのです。

バラバは(ごく)悪人(あくにん)罪人(つみひと)でしたが、イエスの十字架(じゅうじか)()()えに無罪(むざい)放免(ほうめん)となりました。バラバは(ねが)っていた自由(じゆう)を手に入れました。しかし、そのとき、彼は自分の()わりにイエスがむち()たれ血まみれの姿(すがた)十字架(じゅうじか)背負(せお)って、ついに十字架(じゅうじか)の上で()なれたことを知ったことでしょう。彼はたとえ釈放(しゃくほう)されても、(おか)した(つみ)(けっ)して(ゆる)されません。

しかし、イエスの()がただの()ではなく、自分のために()なれたことがわかったとき、彼は(つみ)(ゆる)されるのです。

すべての人は、(つみ)(おか)したので、(かみ)からの栄誉(えいよ)()けることができず、ただ、(かみ)(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる(あがな)いのゆえに、(あたい)なしに()(みと)められるのです。

(ローマ人への手紙3:23-24)

イエスに従う者

マタイの福音書26章69-27章5節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月19日

<聖書>

ペテロが外の中庭(なかにわ)にすわっていると、女中(じょちゅう)のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを()()して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中(じょちゅう)が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを()()し、(ちか)って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄(ちかよ)って来て、「(たし)かに、あなたもあの仲間(なかま)だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて(ちか)(はじ)めた。するとすぐに、(にわとり)()いた。そこでペテロは、「(にわとり)()く前に三度(さんど)、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、(はげ)しく()いた。さて、夜が明けると、祭司(さいし)(ちょう)(たみ)長老(ちょうろう)たち全員は、イエスを死刑(しけい)にするために協議(きょうぎ)した。それから、イエスを(しば)って()()し、総督(そうとく)ピラトに()(わた)した。そのとき、イエスを()ったユダは、イエスが(つみ)(さだ)められたのを知って後悔(こうかい)し、銀貨(ぎんか)三十枚を、祭司(さいし)(ちょう)長老(ちょうろう)たちに(かえ)して、「私は(つみ)(おか)した。(つみ)のない人の()()ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末(しまつ)することだ」と言った。それで、彼は銀貨(ぎんか)神殿(しんでん)()()んで()()った。そして、外に()て行って、(くび)をつった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章69-27章5節)

<説教>

(すぎ)()しの(まつ)りが近づく中、イエスを十字架(じゅうじか)(けい)にしようとユダヤ宗教(しゅうきょう)議会(ぎかい)(サンヘドリン)の裁判(さいばん)が行われます。そんなイエスの受難(じゅなん)の時、弟子(でし)のペテロはイエスを知らないと(いな)み、イスカリオテのユダは銀貨(ぎんか)30枚でイエスを()(わた)した(つみ)後悔(こうかい)して、(くび)()自殺(じさつ)します。

わずか前まではペテロはイエスが()ぬなら一緒(いっしょ)()ぬと言い、またイエスを逮捕(たいほ)しにきた大勢(おおぜい)群衆(ぐんしゅう)兵士(へいし)()かって(つるぎ)(たたか)おうとしました。勇敢(ゆうかん)に見えたペテロはイエスの十字架(じゅうじか)につまづいたのです。

ペテロはイエス出会ったとき、イエスが(かみ)であり、自分が罪人(つみびと)であることを告白(こくはく)しました。そしてすべてを()ててイエスを(あい)して、彼につき(したが)おうとしました(ルカの福音書(ふくいんしょ)5:1-11)。

しかし、十字架(じゅうじか)の前で彼は自分が(にぎ)っている(よわ)さを知りました。

イエスは

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を()て、自分の十字架(じゅうじか)()い、そしてわたしについて来なさい。(マルコの福音書(ふくいんしょ)8:34)」

と言われました。

イエスは十字架(じゅうじか)により、()から(くる)しみを()けて()てられました。イエスに(したが)おうとする者もまた、同じ(くる)しみを()けるのです。(かみ)を知らない()のただ中で生きるキリスト者の(くる)しみがあるのです。

すべての人の人生の中にある(くる)しみ、試練(しれん)(おそ)れ、不安(ふあん)ではなく、イエスを(しん)じることによって()ける(くる)しみです。

ペテロはイエスに(したが)う者が()ける(くる)しみを(こば)んだのでした。それは人間には()えない十字架(じゅうじか)です。しかし、イエスは「わたしについて来たいなら」と言われます。それは強制(きょうせい)されてでも、期待(きたい)されてでもなく、自分の意志(いし)によってイエスと一緒(いっしょ)に生きようとするまことのイエスの弟子(でし)です。そのいばらの(みち)への(もん)は小さく、十字架(じゅうじか)へと(つづ)(みち)(せま)いですが、その(みち)(かみ)栄光(えいこう)がまぶしく(かがや)いています。日々の生活の中で、みことばに(したが)い、(かみ)の力を()けて生きることができます。

(かみ)は、そのようなイエスの弟子(でし)()け入れてくださり、まことの(かみ)のご計画(けいかく)の中で使命(しめい)を与え、人生の目的(もくてき)(あた)えてくださいます。そこにイエスと共に()けるまことの(よろこ)び、(あい)祝福(しゅくふく)があります。

ユダは自分の力で人生をつかもうとして(つみ)(おか)しました。彼は自分の(つみ)後悔(こうかい)しましたが、祭司(さいし)(ちょう)(ちょう)(ろう)たちのもとに(つみ)のゆるしを()けようとしました。すべての(つみ)(かみ)の前に(おか)しているのです。一度(おか)した(つみ)は決して()()すことは出来ません。自分で始末(しまつ)することはできないのです。たとえ自殺(じさつ)して(いのち)と引き()えにしでも(つみ)(ゆる)しにはならないのです。

(つみ)(ゆる)しはただ一つです。(きよ)(かみ)のイエスの血の代価(だいか)(はら)われた十字架(じゅうじか)にあるのです。いかなる(つみ)もイエスのもとに()(あらた)めるなら(ゆる)され、(かみ)との和解(わかい)(あた)えられ、新しく生きる者ときよめ、つくり変えられます。

「もし、私たちが自分の(つみ)を言い(あらわ)すなら、(かみ)真実(しんじつ)で正しい方ですから、その(つみ)(ゆる)し、すべての(あく)から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一1:8)

十字架じゅうじかのかげに いずみわきて
いかなるつみも きよめつくす
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげに ゆきし時に
みかみあいを さとりえたり
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを もとつづけん
けわしきさかを のぼるときも
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを いかで離れん
御国みくにの門に 入る日までは
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
「十字架じゅうじかのかげに」聖歌 396番

十字架への道

マタイの福音書26章47-56節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月5日

<聖書>

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりであるユダがやって来た。(つるぎ)(ぼう)を手にした大ぜいの群衆(ぐんしゅう)もいっしょであった。群衆(ぐんしゅう)はみな、祭司(さいし)(ちょう)(たみ)長老(ちょうろう)たちから()()けられたものであった。イエスを裏切(うらぎ)る者は、彼らと合図(あいず)を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆(ぐんしゅう)が来て、イエスに手をかけて()らえた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を()ばして(つるぎ)()き、大祭司(だいさいし)のしもべに()ってかかり、その(みみ)()()とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「(つるぎ)をもとに(おさ)めなさい。(つるぎ)()(もの)はみな(つるぎ)(ほろ)びます。それとも、わたしが父にお(ねが)いして、十二(じゅうに)軍団(ぐんだん)よりも多くの御使(みつか)いを、今わたしの配下(はいか)()いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書(せいしょ)が、どうして実現(じつげん)されましょう。」そのとき、イエスは群衆(ぐんしゅう)に言われた。「まるで強盗(ごうとう)にでも()かうように、(つるぎ)(ぼう)()ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、(みや)ですわって(おし)えていたのに、あなたがたは、わたしを()らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者(よげんしゃ)たちの(しょ)実現(じつげん)するためです。」そのとき、弟子(でし)たちはみな、イエスを見捨(みす)てて、()げてしまった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章47-56節)

<説教>

ユダの裏切(うらぎ)りによって、イエスはユダヤ指導者(しどうしゃ)たちに逮捕(たいほ)されます。

普通(ふつう)犯人(はんにん)刑事(けいじ)逮捕(たいほ)されるとき、犯人(はんにん)は逃げようとしたり、最後まで抵抗(ていこう)して悪あがきします。しかし、イエスは逮捕(たいほ)されるとき、()げも(かく)れもせず、武装(ぶそう)した何百人の群衆(ぐんしゅう)に、自分からすすんで()らえられました。

イエスの十字架(じゅうじか)はすべて(かみ)(さだ)められた完全(かんぜん)計画(けいかく)でした。イエスが十字架(じゅうじか)の上ですべての人間の(つみ)身代(みが)わりとなられるためでした。イエスは十字架(じゅうじか)への苦難(くなん)の道が、父の(かみ)御心(みこころ)であることを確信(かくしん)して、人間の(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりを()けられたのです。

ペテロは数百人の武装(ぶそう)した群衆(ぐんしゅう)に、(いさ)ましく(けん)で立ち向かいます。しかし、イエスを殺害しようとする本当の(てき)は、(けん)(ぼう)をもった人間ではなく、悪の力、サタンなのです。この悪の力が完全(かんぜん)()(やぶ)られる道はただ一つ、イエスご自身が(かみ)(いか)りの(はい)をお飲みになること、すなわち、十字架(じゅうじか)でその(きよ)い命を(ささ)げることでした。

私たちの(てき)は死であり、(つみ)の力です。その(てき)は決して(おそ)ろしい姿をしていません。それは私たちの日々の生活の中にあるのです。それは心から出てくる悪い考え、人の気持ちを知ろうとしない自己(じこ)中心(ちゅうしん)な考え、自分の欲望(よくぼう)や心の思いを()たすことを人生の第一の目的としてしまったり…(かみ)存在(そんざい)無視(むし)して、(かみ)(したが)わずに生きること。それが(つみ)です。

(つみ)刑罰(けいばつ)は死です。死とはこの世から()()ることではありません。永遠(えいえん)に終わらない(ほろ)びの(くる)しみです。人間はこの(つみ)と死に対してまったく無力です。どんな武器(ぶき)も、勇気(ゆうき)(やく)に立たないのです。しかし、神は人間に(すく)いの道を(そな)えてくださいました。それが十字架(じゅうじか)(すく)いです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死なれたのは、あなたの(つみ)のためであると(しん)じて、心を変えて、神により(たの)んで生きようとするなら、あなたは(つみ)刑罰(けいばつ)(ゆる)され、死の(ほろ)びから(すく)い出されます。永遠(えいえん)の命が与えられ天の御国(みくに)に入ることができます。

イエスが十字架(じゅうじか)()かわれたのは、(わる)に対しても(ぜん)をあらわして生きることの模範(もはん)です。そしてイエスは、犠牲(ぎせい)の愛による人間の真実(しんじつ)な生き方を表わされました。そして人間は「苦難(くなん)」によってしか成長(せいちょう)しないことをイエスは十字架(じゅうじか)で教えてくれたのです。

イエスを(しん)じるなら、あなたは愛と真実(しんじつ)の人生に必ず変えられていきます。

「キリストも、あなたがたのために(くる)しみを()け、その足跡(あしあと)(したが)うようにと、あなたがたに模範(もはん)(のこ)されました。キリストは(つみ)(おか)したことがなく、その口に何の(いつわ)りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり(かえ)さず、(くる)しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお(まか)せになりました。そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの(つみ)をその()に負われました。それは、私たちが(つみ)(はな)れ、()のために生きるためです。キリストの()(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

(ペテロの手紙第一2章21-24節)

祈りの友

マタイの福音書26章36-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月26日

<聖書>

それからイエスは弟子(でし)たちといっしょにゲツセマネという所に来て、(かれ)らに言われた。「わたしがあそこに行って(いの)っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに()れて行かれたが、イエスは(かな)しみもだえ(はじ)められた。そのとき、イエスは(かれ)らに言われた。「わたしは(かな)しみのあまり()ぬほどです。ここを(はな)れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し(すす)んで行って、ひれ()して(いの)って言われた。「わが父よ。できますならば、この(さかずき)をわたしから()()らせてください。しかし、わたしの(ねが)うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子(でし)たちのところに(もど)って来て、(かれ)らの(ねむ)っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑(ゆうわく)(おちい)らないように、目をさまして、(いの)っていなさい。心は()えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目(にどめ)(はな)れて行き、(いの)って言われた。「わが父よ。どうしても()まずには()まされぬ(さかずき)でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが(もど)って来て、ご(らん)になると、(かれ)らはまたも(ねむ)っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも(かれ)らを()いて行かれ、もう一度(おな)じことをくり(かえ)して三度目(さんどめ)(いの)りをされた。それから、イエスは弟子(でし)たちのところに()て言われた。「まだ(ねむ)って休んでいるのですか。見なさい。(とき)()ました。(ひと)()罪人(つみびと)たちの手に(わた)されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切(うらぎ)る者が(ちか)づきました。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章36-46節)

<説教>

最後(さいご)晩餐(ばんさん)のあと、十字架(じゅうじか)()かってイエスは弟子(でし)たちを()れて(いの)られました。その場所はオリーブの木に(かこ)まれたゲツセマネ((あぶら)しぼりの意味(いみ))と()ばれます。そこでイエスは人間の(つみ)(さかずき)(さばきの(いきどお)りのぶどう酒)を()()すために、(あせ)()のようにしたたらせて(いの)られました。

イエスの十字架(じゅうじか)の前の(いの)りは、自分の(ねが)いではなく、父なる神のみこころがなされることでした。

弟子(でし)のパウロとヤコブとヨハネは(いの)ることができずに、(つか)れと(かな)しみに(ねむ)りこけてしまいました。

今も、イエスと共に(いの)る者は(けっ)して多くないと言われています。イエスはあなたに(いの)りの友となることを(ねが)われています。

(くる)しみや(かな)しみの意味(いみ)がわからなくても、希望(きぼう)()ざされようとも、(いの)りましょう。どう(いの)っていいのかわからなくても、じつはイエスがあなたのために(いの)ってくださっています。あなたのつたない(いの)りも、イエスの御名(みな)(いの)る時、イエスの(いの)りとされているのです。

体でわかること(目で見る、耳で聞く、鼻でにおう、手や(はだ)(さわ)る)がすべてではありません。あなたの前の現実(げんじつ)問題(もんだい)絶望(ぜつぼう)して、感覚(かんかく)(たよ)りにした誘惑(ゆうわく)()(まか)せてはいけません。

神を(しん)じる者の(いの)りには力があります。(いの)りは必ず答えられます。(いの)ることができず、(つか)れて、(かな)しみの()てに(ねむ)っても弟子(でし)たちはイエスのそばにいました。(いの)りはイエスのそばにいることです。そこにとどまるとき、イエスの(あい)(ゆる)しがあなたを(すく)ってくださいます。

(いの)りによって神があなたを変えてくださいます。状況(じょうきょう)を変えてくださいます。(こころ)が変えられます。知識(ちしき)でも理屈(りくつ)でもありません。あなたは信仰(しんこう)によってそれを実際(じっさい)体験(たいけん)するのです。

神はあなたを神に(いの)る者としてご自身(じしん)()せて(つく)られたのです。(いの)りは神を信じる者の特権(とっけん)であり、(つと)めであり、(はげ)むべきことです。ただし、それは最高(さいこう)の人間の(いとな)みです。

「まことに、あなたがたにもう一度(いちど)()げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上(ちじょう)(こころ)を一つにして(いの)るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイの福音書18章19-20節)

()まなければ」河野 進
()まなければ (ささ)()ない()(あらた)めの(いの)りがあり
()まなければ ()()ない(すく)いのみ言葉があり
()まなければ ()()ない(めぐ)みの十字架(じゅうじか)があり
()まなければ (しん)()ないいやしの奇蹟(きせき)があり
()まなければ ()()ないいたわりの(あい)があり
()まなければ (ちか)づき()ない(きよ)聖壇(せいだん)があり
()まなければ (あお)()ない(かがや)御顔(みかお)がある
おお ()まなければ人間でさえあり()なかった

キリストのつまずき

マタイの福音書26章30-35節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月19日

<聖書>

そして、賛美(さんび)の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子(でし)たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜(こんや)、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼(ひつじか)いを()つ。すると、(ひつじ)()れは()()りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は(けっ)してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに()げます。今夜(こんや)(にわとり)()く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは(けっ)して(もう)しません。」弟子(でし)たちはみなそう言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章30-35節)

<説教>

最後(さいご)晩餐(ばんさん)でユダがイエスを裏切(うらぎ)りました。その後で、イエスはさらに弟子たちに、あなたがたはみな、私を裏切(うらぎ)ると宣告します。そうです。十字架の前に、イエスの弟子たちはすべてイエスにつまずいたのです。

ユダは自分の欲のためにイエスを裏切(うらぎ)りました。ペテロは自分は絶対(ぜったい)大丈夫(だいじょうぶ)だという自信(じしん)過信(かしん)によってイエスを裏切(うらぎ)ります。

誰も自分の頑張(がんば)りや努力(どりょく)によってイエスを愛して、(したが)(つづ)けることはできません。自分こそ(よわ)い者だ、罪深(つみぶか)い者だと(みと)めるする者こそが、(かみ)に助けを求め、()(あらた)めてイエスに(したが)うことができるのです。

ペテロは、(にわとり)()く前に3度イエスを知らないと言うイエスの予告(よこく)(どお)りに、イエスを(いな)みました。彼はイエスを間違(まちが)いなく愛していました。しかし人間の愛には限界(げんかい)があるのです。

しかし、ペテロはイエスの弟子としての大失敗(だいしっぱい)(はじ)(かく)そうとせず、聖書(せいしょ)の中にはっきりと表わしました。それは、(よわ)さや失敗(しっぱい)罪深(つみぶか)い者をイエスはゆるして、愛して下さる方であることを(みな)さんに知ってもらいたかったからです。

イエスを愛していくとき、あなたは必ず、自分の罪深(つみぶか)さや(けが)れを知ることでしょう。しかしイエスは、あなたの(よわ)さやどうしようもない姿(すがた)をご存知(ぞんじ)なのです。その上で、イエスはあなたを愛してくださいます。あなたをその問題、苦しみ、絶望(ぜつぼう)から(すく)い出すためにこそ、イエスは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

弟子(でし)たちはイエスを裏切(うらぎ)りましたが、イエスが約束(やくそく)されたのは十字架(じゅうじか)で死んだ後、よみがえり、弟子(でし)たちとガリラヤで会うことです。

自分を裏切(うらぎ)って(はな)()っていく弟子(でし)たちすべてのことをご存知(ぞんじ)でした。しかしその先にある神の約束(やくそく)(ゆる)しと愛です。

あなたはイエスの十字架(じゅうじか)のゆえに愛されています。(ゆる)されています。

神が定められたキリストの十字架

マタイの福音書26章14-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月12日

<聖書>

そのとき、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司(さいし)(ちょう)たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨(ぎんか)三十枚を彼に支払(しはら)った。そのときから、彼はイエスを()(わた)機会(きかい)をねらっていた。さて、(たね)なしパンの(いわ)いの第一日に、弟子(でし)たちがイエスのところに来て言った。「(すぎ)(こし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意(ようい)をしましょうか。」イエスは言われた。「(みやこ)に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子(でし)たちといっしょに、あなたのところで(すぎ)(こし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」そこで、弟子(でし)たちはイエスに言いつけられたとおりにして、(すぎ)(こし)の食事の用意(ようい)をした。さて、夕方になって、イエスは十二(じゅうに)弟子(でし)といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに()げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切(うらぎ)ります。」すると、弟子(でし)たちは非常(ひじょう)に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに(はち)に手を(ひた)した者が、わたしを裏切(うらぎ)るのです。(たし)かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、()って行きます。しかし、人の子を裏切(うらぎ)るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切(うらぎ)ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

(マタイの福音書ふくいんしょ26章14-25節)

<説教>

ユダヤの最大の(まつ)り、(すぎ)(こし)しが近づいています。

祭司(さいし)長老(ちょうろう)たちは、イエスをだまして(とら)えて死刑(しけい)にする陰謀(いんぼう)(くわだ)てますが、(まつ)りの間は民衆(みんしゅう)(さわ)ぎを(おそ)れていました。イエスの十字架(じゅうじか)背後(はいご)には人々のねたみがありました。

イエスの12弟子(でし)のひとりイスカリオテのユダは祭司(さいし)(ちょう)銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売り(わた)します。彼にサタンが入ったとありますから、イエスの十字架(じゅうじか)の出来事の背後(はいご)にはサタン(悪魔(あくま))の働きがありました。

ユダの裏切(うらぎ)りによって、祭司(さいし)長老(ちょうろう)たちの思惑(おもわく)とおりにいかず、イエスご自身(じしん)予告(よこく)(どお)り、(すぎ)(こし)しの(まつ)りにイエスは(とら)えられ、十字架(じゅうじか)(わた)されました。ユダ自身(じしん)もイエスが死ぬとは考えていなかったでしょう。

では、十字架(じゅうじか)の出来事は偶然(ぐうぜん)おこったことなのでしょうか。

いいえ、十字架(じゅうじか)の出来事は、イエスが主権的(しゅけんてき)に、イエスが十字架(じゅうじか)の道を(えら)()られました。聖書(せいしょ)預言(よげん)成就(じょうじゅ)するためでした。長いイスラエルの歴史(れきし)を通して、神は聖書(せいしょ)にはっきりと(さだ)めておられました。

ユダヤの歴史(れきし)で最も大きな出来事は、(しゅつ)エジプトと言われる、奴隷(どれい)からの解放(かいほう)新天地(しんてんち)約束(やくそく)でした。その救いは、小羊(こひつじ)犠牲(ぎせい)()による、(ほろ)びのわざわいからの(すぎ)(こし)し(救い)でした。

この(すぎ)(こし)しの犠牲(ぎせい)()(ひつじ)として、イエスは十字架(じゅうじか)で死なれました。

最後(さいご)晩餐(ばんさん)は、最期(さいご)(すぎ)(こし)しの食事でもありました。また、最初の聖餐式(せいさんしき)でした。

教会(きょうかい)で、今もこの聖餐式(せいさんしき)が守られ、2000年前の出来事であったイエスの十字架(じゅうじか)(つみ)のあがないが忘れられたことは一度もありません。

あなたもイエスを信じるならば、(すぎ)(こし)し(救い)があり、出エジプト(解放(かいほう))が起こります。あなたの(つみ)(ゆる)され、まことの自由が(あた)えられ、あなたの人生は神の御国(みくに)に入ります。

まことの救い、まことの解放(かいほう)が神の定められた十字架(じゅうじか)につけられたイエスにあります。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを()り、祝福(しゅくふく)して(のち)、これを()き、弟子(でし)たちに(あた)えて言われた。
()って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また(はい)()り、感謝(かんしゃ)をささげて(のち)、こう言って彼らにお(あた)えになった。
「みな、この(はい)から()みなさい。

これは、わたしの契約(けいやく)の血です。(つみ)(ゆる)すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国(みくに)で、あなたがたと新しく()むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で(つく)った物を()むことはありません。」(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章26-29節)

愛に生きる

マタイの福音書26章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月5日

<聖書>

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに(おか)された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価(こうか)香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持ってみもとに来て、食卓(しょくたく)()いておられたイエスの(かしら)香油(こうゆ)を注いだ。弟子(でし)たちはこれを見て、憤慨(ふんがい)して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油(こうゆ)なら、高く売れて、(まず)しい人たちに(ほどこ)しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を(こま)らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。(まず)しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油(こうゆ)をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬(まいそう)用意(ようい)をしてくれたのです。まことに、あなたがたに()げます。世界中(せかいじゅう)のどこででも、この福音(ふくいん)()(つた)えられる(ところ)なら、この人のした(こと)(かた)られて、この人の記念(きねん)となるでしょう。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章6-13節)

<説教>

イエスの十字架(じゅうじか)の時が近づいていました。弟子(でし)たちは、イエスが間もなく死ぬという実感(じっかん)緊張感(きんちょうかん)もありませんでした。しかし、ある女はイエスと過ごす機会(きかい)はもうこれが最後(さいご)かも知れないと感じました。

彼女は、自分の持ち物の中で一番高価(こうか)なもの、女性にとって大切な香油(こうゆ)をイエスに()しみなく(ささ)げました。それが、彼女が大切な愛するイエスにできる最高のことでした。彼女はイエスに愛と信仰(しんこう)を表わしたのです。

愛とは愛することと愛されることによって完成します。愛されることだけを願う人生は干からびた人生です。あなたが誰かに愛を与えるとき、人生は豊かな愛と喜びの素晴らしいものとなるでしょう。

愛を与えるとは、あなたの大切なもの与えることです。一緒に時間を過ごすこと、聞いて理解してあげること、手助けする事。また、ゆるしを与える事、信用を与える事です。あなたの心の中でわかること、あなたが願うことを、他の誰かに、あなたから与えるのです。

あなたの笑顔(えがお)は素晴らしいです。微笑(ほほえ)みながら(やさ)しい言葉をかけてあげてください。その人はきっと(はげ)まされ、勇気(ゆうき)を与えられるでしょう。

人生には一回きりしかない機会(きかい)があります。その機会(きかい)(のが)せば、もう同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動(かんどう)は再び(もど)ってきません。多くの人は、よいことをする機会(きかい)を失ったために、人生を悲劇(ひげき)に終わらせているのです。

しかし、イエスを信じる者は、(つみ)(ゆる)されて、自分のかたくなさや自我、プライドから解放(かいほう)されて、心から素直に生きる者に変えられます。何度も失敗しながらです。イエスはあなたを絶対あきらめません。

イエスの愛に(ゆる)され、感動(かんどう)して生きる者は、愛だけがすべてであり、愛は無限であることを知るのです。弱かろうが、ちっぽけな存在であろうが、誰もが愛を与えることができます。イエスと共に生きる者はその素晴らしさを知り、体験していくのです。イエスに出会うなら、あなたはいかなるものも包み込み受け止める愛を、無尽蔵(むじんぞう)に与えることができます。あなたの愛はいつまでも残ります。