ニュートンは、りんごかが木から落ちるのを見て、地球に引力のあることを発見しました。では、この地球にはなぜ引力があるのでしょうか?
しかも、もしこれ以上引力が強かったら、私たちの体も何もかも、重くなって不自由です。また、もし地球の引力が今より少なかったり、なかったりしたら、みんなフワフワ浮き上がって困ります。
私たちの生活にちょうどよい引力、この不思議な引力が、なぜあるのかということは、どんな科学者にも解らないナゾです。
(「科学と人生」月岡世光氏より)
ニュートンは、りんごかが木から落ちるのを見て、地球に引力のあることを発見しました。では、この地球にはなぜ引力があるのでしょうか?
しかも、もしこれ以上引力が強かったら、私たちの体も何もかも、重くなって不自由です。また、もし地球の引力が今より少なかったり、なかったりしたら、みんなフワフワ浮き上がって困ります。
私たちの生活にちょうどよい引力、この不思議な引力が、なぜあるのかということは、どんな科学者にも解らないナゾです。
(「科学と人生」月岡世光氏より)
マタイの福音書4章1-11節より
2024年3月10日
<聖書>
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
(マタイの福音書4章1-11節)
<説教>
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
(マタイの福音書4:8-9)
この世の栄華とは、この世界のきらびやかさ、華やかさに隠されている人間の堕落した欲望です。それは刺激的であり、人をひきつけます。
そういったものは外側だけのものであり、人間のたましいの深い部分まで満たすことができません。必ず虚しさが待っています。その先にあるのは永遠の滅び、死です。
それは人間が悪魔に誘惑されて神から離れた結果、この世は今、悪魔が支配しているからです。
私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。
(ヨハネの手紙第一5:19)
しかし、この世界はすべて、神さまが造られたものです。聖書に次のようにあります。
初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
(コロサイ人への手紙1:16)
この罪に堕落した人間、すべての被造物、この世界のすべてを新しく造り変えるため、贖われるために十字架に架かるために、イエス様はこの世に来て下さいました。
この悪魔の誘惑は、イエス様に十字架の苦しみを通らずに、今すぐこの世界を自分のものにしなさいという誘惑です。そのために悪魔にひれ伏して、拝むだけでいいというのです。
これこそが最大の罪だと、神のことば、聖書は言います。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
(出エジプト記20:3-7)
そして神であるイエス・キリストは、ご自分を神としたことで十字架刑に処せられたのです。
そして、悪魔は、すべての人間を誘惑して、この世を愛して、神から離れさせようとしているのです。
神さまを信じて神さまに従って生きるということは、この世で生きている間だけのことではありません。恐るべき滅びから救われて、永遠のいのちを与えられて、神の御国に入ることです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。
(ヨハネの手紙第一2;17)
聖書の神、キリストの父なる神さまは唯一の神であり、この天地を創造され、この世を罪から贖われ、救い主キリストを世に遣わしてくださいました。
すべての栄光はこの神さまにのみ現されます。
人間は神を礼拝するために、神さまに似せて造られた存在なのです。
そこにだけ、まことの平安と愛といのちがあります。
聖書は一貫して、罪の世にすべてを捧げて生き続けてはいけない、罪を悔い改めて、キリストを救い主として信じて、神を礼拝する生き方を選び取るようにと警告しています。
マタイの福音書4章1-11節より
2024年3月3日
<聖書>
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
(マタイの福音書4章1-11節)
<説教>
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
(マタイ4:5-6)
悪魔も詩篇91篇11-12節の御言葉を使ってイエスを誘惑します。しかし、よく見ると御言葉の内容が変えられています。悪魔は自分に都合のいいように御言葉を変えているのです(聖書の改ざん)。この世の言葉も正しそうであっても、人々を悪い思いや間違った行動へと誘うことが多いのです。
そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。 (ヤコブの手紙3:15)
わざわざ自分を危険な状態にして、神が助けてくれるか試す必要はないのです。人間は神の愛とみわざを疑うとき、自分の納得できる証拠を求めてしまいます。自分の方法で解決しようとします。いつも神の御言葉に立ち返り、御言葉による信仰の歩みが必要です。
詩篇91篇は神の保護(守り)について書かれています。それは、特別な時だけでなく、どんな時も神様を信頼するべきであり、人間のいのちと存在そのものが、神の御手にある完全な守りだというのです。神さまへの愛と信頼が、信仰の歩みに必要なのです。
2.悪魔の誘惑は長所や賜物に働く
悪魔はイエス様の神の全能の力、奇蹟を行う力を間違った目的で使わせようと誘惑しました。悪魔は、人間の長所や賜物にも誘惑してきます。その人の能力を人のためではなく、自分のためや悪い目的に使わせようと誘惑します。悪魔に利用され、その手足となるのは、人の心の奥にひそむ思いや願いなのです。
しかし、悪魔の試みを受けたイエス様は、試みを受ける信仰者を必ず助けてくださいます。人間のどうしようもない弱さもご存知なのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
(ヘブル人への手紙2:18)
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:15-16)
イエス様が神殿の頂から飛び降りて御使いが助けたら、多くの人はイエス様を神の子と信じるでしょう。
しかし、奇蹟やしるしに頼る信仰は本当の信仰ではありません。人々が驚くことをして注目を集めても長続きはしません。
神さまはいつも、普段の生活の中で、共にいてくださるのです。信仰に歩む者に対して、誘惑に打ち勝つ力、よみがえりのいのちによる新しい生き方へと進ませてくださいます。
それはただ、イエス・キリストの十字架の贖いのみわざによってのみ実現されたのです。
マタイの福音書3章13-17節より
2024年2月18日
<聖書>
さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章13-17節)
<説教>
バプテスマのヨハネがユダヤの荒野で罪の悔い改めを語り、罪に苦しむ大勢の人たちにヨルダン川で洗礼を授けました。
そして、イエス様がヨハネから洗礼を受けるためにヨルダンに来られました。なぜ、罪なきイエス様が洗礼を受けられたのでしょうか。
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
(ガラテヤ人への手紙4:4-5)
イエス様はユダヤ人として、八日目の割礼や、モーセの律法を守り、正しく生きることに努められました。そして、律法を守るだけでなく、律法の刑罰までもお受けになったのです。律法を破った者が受けるべき刑罰を、イエス様は身代わりとなられて十字架の上で命を捧げられました。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(コリント人への手紙第二5:21)
唯一まことの神を信じていたユダヤ人にとって正しいこととは、神の律法を守ることでした。
そんな彼らに、神さまは、報いを求めず、すすんで行う心からの愛をもって与えなさいと言われました。またイエス様の弟子パウロも次のように書いています。
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
(ガラテヤ人への手紙5:6)
ユダヤ人として生きるための割礼、律法を守ること、洗礼さえ、人を新しく造り変えることはできません。
最初の人アダムの罪によってすべての人間は罪をもって生まれてきます。人間は神に従うべき善悪の基準を捨てて、善悪を自分勝手に決めて生きていると聖書は言っています。
神の前に正しく生きるためにはイエス・キリストを信じることだけが必要なのです。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3:16-17)
すべての人の罪のために十字架に向かわれるイエス様の公の生涯が始まりました。父なる神さま、聖霊なる神さまが、イエス様と共にいてくださいます(三位一体の神さま)。正しく生きようとするイエス様を愛して喜ばれるのです。
十字架であなたのために死んでくださったイエス様を心から感謝して生きるとき、あなたは決してひとりではないことがわかるでしょう。神の目から見たあなたの尊い価値を知るでしょう。愛と力が与えられ、喜びがあふれてきます。
ユダヤ教の一分派であったキリスト教がなぜ世界宗教に広がったのでしょうか。
それは単に神の律法を守る正しい生き方以上の、神の恵みが明らかにされたからです。キリストの十字架の代償の死とよみがえりが、本物の愛だからです。
ただ、よい行いをすることが人生の最高の目的ではなくなったのです。イエス様を愛することが、すべての理由、源となったからなのです。
偽りの自由、罪深い生活から、イエス様を信じたら、罪から自由にされ、神さまに従って生きていきたいと変えられます。これ以上の奇蹟があるでしょうか。しかし、信じるならば誰もがこの素晴らしい奇蹟を受け取れるのです。
マタイの福音書3章7-12節より
2024年2月11日
<聖書>
しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
(マタイの福音書3章7-12節)
<説教>
人さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
(マタイの福音書3:5-6)
当時の宗教家であり指導者であったパリサイ人やサドカイ人たちも、洗礼を授けていたヨハネのもとに罪の赦しのバプテスマ(洗礼)を受けに来ました。
彼らは、ユダヤ教の中心的存在でした。神に選ばれた特別な存在、アブラハムの子孫でもありました。パリサイ人やサドカイ人は、聖書の律法を守る宗教には熱心でしたが、外面は立派に振る舞っても、内面は神ではなく自分の力や権力に頼っていたのです。
そんな彼らに、バプテスマのヨハネは終わりの日には神のさばきは必ずくだること、すべての人が神に対して罪人であり、悔い改めが必要であると説きます。人間の誇るどんなものによっても人間の罪は赦されないのです。
多くの人は、自分は大丈夫、救いが必要とは考えません。内面にこそ問題がある罪人であることが認められず、姿形や外見といった見た目を大切にします。しかし、ヨハネは「悔い改めの実」を結びなさいと言いました。それは、神に背を向けた罪深い生き方を止めて、神に心を向けて新しく生きることです。罪赦されて、愛と正しさに生きることです。
そのために聖書は、外面ではなく、内面が新しく変えられなさいと言うのです。内面が変えられないなら、外面を変えることは意味がないのです。問題は何も解決されないのです。
しかし、生まれ持っての人間は自分の努力や頑張りで、人間は自分の内面を変えることなどできません。その方法はただ一つ、イエス・キリストを罪からの救い主と信じる者は、霊的な誕生を経験して、新しく造り変えられるのです。
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
(マタイの福音書3:11)
その奥義が悔い改めなのです。宗教の基本、神との関係は「悔い改め」にあります。この世界は、神のあわれみと、罪人の悔い改めによって保たれているのです。
すべての生きている人に、いつでもどこでも悔い改めのとびらが開かれています。自分の罪を神の前で、認め、かなしみ、告白して謙遜になることです。
その時、聖霊によるいのちと力により、新しい創造のみわざがなされるのです。
先のパリサイ人、サドカイ人は、宗教には熱心でしたが、この神の力による、この世界の常識ではありえない、超自然的な力による、人間が新しくされる~悔い改めによる罪の赦し~を受け取ることができなかったのです。
人間の理解できる宗教では、人は救われません。人知を超えた神の力を信じる者、イエス・キリストの十字架の死と三日目のよみがえりにより、人は罪赦され救われるのです。悔い改める者は、キリストと結ばれます。
<追記>
ある賛美で、罪深い自分に悲しんで、イエス様に心から赦しを求める場面が歌われていました。その人は、冷え切った体のまま、神の前にうなだれて、その時、暖かい涙が冷たい手の上にこぼれ落ちたのです。
人間の涙、それは、ただ目から流れた液体などではなく、心が揺り動かされるような姿です。
人間でも、自分の許せない人が、そのように心から謝罪して、涙を流すのを見たら、多くの場合許すのではないでしょうか。
罪を認め、赦しを乞う姿も、その姿にあわれみを覚え、許す思いも、神が与えた真実な人間の姿です。
人間の心を完全にご存知の神なら、なおさらです。そうです、人が神の前に心から、自分の罪を認め、悲しみ、悔い改めるなら神は赦してくださるのです。
そして素晴らしいことに涙とは、喜んだ時も流れるのです。自分の罪が神に赦された者は、心から笑顔で喜ぶことができるのです。
神もまた涙されます。神のひとり子キリストが人間の罪の身代わりに十字架で死なれたことは、神が流された涙です。悲しみをこえた喜びの涙です。
このイエス様の十字架を自分の罪のためと信じる時、本当の涙と笑顔の素晴らしいいのちの歩みがあります。
小さな手~♪ RYLE(リラ) ひときわ輝く星の光が 小さな馬屋を照らした 冷たい風 心まで 貫くこの世界に 罪の重さを知った私は 心震わせて向かった 小さな灯り灯る あなたのいるその部屋へ ※ あなたは今 この中に 飼い葉おけで眠っている そっと触れた小さな手は 私のため傷つくこと 知っているのに 優しく握り返した 私に微笑みながら 冷たさに 凍えた手のひらに 暖かな涙落ちてく 変わらないものを求めては 傷ついた日々の中で 痛む心 抱えた私は 声を震わせて泣いた ありのままの姿を 包み込む愛の中で ※
マタイの福音書3章1-6節より
2024年1月28日
<聖書>
そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
(マタイの福音書3章1-6節)
<説教>
人間にとって大切なものはいろいろとあります。家族、健康、友人、目標、仕事、食べ物、住宅、衣服、金銭、教育…
そういったものとは別に、多くの人が知らないけれど、実はとても大切なものがあると、神のことばである聖書は教えています。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
(マタイの福音書4章4節)
そうです。人間は神のことばが必要なのです。
しかし、歴史が始まって以来、人間に神のことばが与えられない沈黙の期間がありました。およそ西暦0年より前の400年間、人間の歴史から神の記録がなくなります(旧約聖書の最後の預言者マラキから、バプテスマのヨハネの間)。
皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
(ルカの福音書3章1-2節)
突如として、ユダヤの荒野にバプテスマのヨハネが現れ、神のことばが語られました。その使信は
悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。
(マタイの福音書3章2節)
天の御国が近づいたというのです。天の御国とはいったいどういうことでしょうか。
実は今、私たちが生きている世界は、罪と悪が支配しています。人間の心の中も悪と死の原則が支配しています(本来の姿は、愛といのちによって心が支配されるべき)。しかし、それらはすべて滅び去り、神が支配する愛と正義による世界、天の御国が到来するのです。
そのために、ヨハネは次のような教えを人々に宣べ伝えたのです。
①神はおられます。預言されたキリストは来られました。
②神によって悪は明らかにされました。罪深い、自己中心の生活をやめなさい。
③神に心を向けて、心を変えて、正しい生活をしなさい。
これが、悔い改めて、信仰によって生きるということです。
そのために、神であるイエス・キリストがこの世界に人として来られたのです。
バプテスマのヨハネは、旧約聖書に登場する代表的な預言者エリヤの到来です(マラキ書4章5節)。エリヤはイスラエルの民を偶像礼拝から救い出して、まことの神への信仰に立ち返らせました。
今の時代も同じです。ヨハネは迷いさまよう人々をキリストへと導いています。キリストを信じることによって、まことの神の民(教会によって生まれる新しいイエスラエル)を罪の支配から救い出して、神の支配である天の御国に置いてくださるのです。
この世はいつまでも続きません。やがて滅び去ります。その終わりの日は、天の御国に入る救いの日です。しかしまた、神のさばきの日でもあるのです。
それは今、この神の招きにどう答えるか、その決断によって決定するのです。
心の欲を第一にする、罪の生き方をやめて、神へと心を向けて、神のことばに従う正しい生活をしようではありませんか。それは窮屈な束縛ではなく、そこにだけ自由と平安があります。
いかなる罪であっても神に対して罪を悔い改める者は赦され生きることができます。あなたの罪の身代わりにキリストが十字架で死なれました。
神のあわれみ、神のことばによって人は生きるのです。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
(ヨハネの福音書3章18-21節)
マタイの福音書1章1-17節より
2024年1月21日
<聖書>
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
(マタイの福音書1章1-17節)
<説教>
①イエス・キリストはアブラハムの子
ユダヤ人は家系図に非常に関心を持ちました。それは出来る限り民族の血統を保とうとすることを大切にしたからです。わずかでもユダヤ人以外の血が入ると、ユダヤ人であり、神の民の資格が失われたのです。
例えば、祭司はモーセの兄のアロンにまでさかのぼる系図を提出する義務がありました。
私たちには退屈に思える系図も、ユダヤ人にとっては、キリストの系図が、ユダヤ人の祖先であるアブラハムまでさかのぼることは非常に感銘深いものなのです。
②イエス・キリストはダビデの子
また、この系図はキリストがダビデの子であることを証明するものです。この大切な事実を新約聖書はくり返し強調します。
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」
(Ⅱテモテ2:8)
盲人たちもイエスに叫びました。神がわからなくなった人生の迷子である私たちもイエス様に叫び求めるなら、神さまがわかるように心の目を開かせてくださいます。
「彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』」
(マタイ20:29-30)
十字架に向かわれるイエス様が最後のエルサレムに入城されるときも、群衆はイエスをダビデの子として歓迎しました。
ところでイエスをダビデの子と呼んだのは、群衆、庶民、一般の人たちでした。彼らは熱心に待ち望む人々でした。目の前は、いかなる現実に見えようとも、いつか必ずダビデの子孫が現れるのを信じたのです。そのとき、神の栄光によって、彼らが神に報われることを夢見たのです。
確かに、今はイエス・キリストに同意できない人たちもいます。そんな彼らの夢の実現の形は、力と富、物質的な繁栄、野望の実現です。
しかし、すべての人類の最初の夢、平和と愛の完成という夢が実現するとすれば、イエス・キリストによってのみ可能なのです。
人として来られたイエス・キリストの中に預言は成就したのです。旧約聖書で昔の預言者のことばは実現したのです。預言を軽く見てはいけません。預言は偉大な神の真理が含まれているのです。この天地万物、この世界のすべて、もちろん一人一人のあなたという人間の存在も、神の目的と計画によって起こったのです。
この歴史は終着点のない道ではありません。すべての命と世界はあてどもなく移り変わるのではなく、神の確かな目的地に向かって進んでいるのです。
③ 神のあわれみの福音はすべての人ために
この系図で驚くべきことは女性の名前が含まれていることです。ユダヤの系図は普通、女性の名前は記されません。しかも、この系図の4人の女性の身分や行為を知る時、さらに驚かされます。
ラハブはエリコの遊女でした。ルツはモアブ人。悪名高いモアブ人でした(民数記23:3)。タマルは舅のユダをあざむき姦淫を犯しました。ダビデ王が姦淫と殺人の罪によって部下のウリヤから奪い取ったバテシュア。
ユダヤ人と異邦人の差別。男女の差別も、そして罪深い人間と神との隔ての壁である罪を神は取り除かれました。
それこそが、この系図の目的であり、イエス・キリストによる神の福音の神髄を示すものなのです。
このような問題ある罪人がイエス・キリストの系図にあること自体が、けっして変わることのない神の愛が現されているのです。
神は不思議にも、大きな罪を犯した人たちをご自分の目的のために用い、ご自分の計画の中に取り入れられるのです。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
(エペソ2:14-16)
箴言3章1-18節より
2024年1月7日
<聖書>
自分を知恵のある者と思うな。【主】を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。あなたの財産とすべての収穫の初物で、【主】をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。わが子よ。【主】の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、【主】は愛する者をしかる。幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。
(箴言3章1-18節)
<説教>
箴言は、古今東西、最大の知者ソロモンによって書かれました。いろいろな国でも箴言のように、ことわざを集めた実生活の知恵や人生の教訓は存在します。しかし、箴言は神を恐れ、神を礼拝する者が、神のおしえに従って、どのように日常生活を歩むかという訓練の書です。
箴言を読むときのひとつの参考を以下にご紹介します。
【知恵】
生活の知恵という意味ではなく、神との関係から教えられることで、神を恐れることが知恵の始まりです。
【愚かな者】
知恵のある者の反対として愚かなもの、なまけ者のことが書かれています。働き者の蟻から学びなさいと言われます。
【友】
箴言では友、隣人についてもよく出てきます。友とは、どんな時にも愛するものである。自分に敵対するような人に対しても、よき隣人として振る舞いなさいと書かれています。
本当の友を得るようにとの教えや、本当の友の果たす役割などについての教えもあります。
【ことば】
ことばを正しく使うことの重要さも教えています。最上のことばは、正しい者の心から発するのだと、深く心の問題をあらわしています。
イエス様は、人は心にあることをことばにすると言われます。
【おしえ】
子どもについておしえが大切であることも書いています。正しい道への方向を教え、正しいいのちの道を自分で選ぶことができるように導くのがおしえです。
しかし、箴言全体についても言えることですが、どんなによい教育、訓練であっても、知恵を教え込むことはできないということです。それらは、知恵を求める道を選ぶようにと心を向けさせるものに過ぎません。
わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。
(箴言1:23)
【いのちの木】
神を恐れ、悪から離れ、神との正しい関係にある者に与えられる祝福が長寿、平安(新約では救いの意味)、いのちです。これは、霊的な永遠のいのちに至る祝福です。地上の、物質の、一時的な祝福ではなく、天の、霊的な、永遠の祝福はまことの救い主、イエス・キリストによって与えられます。
箴言には、いのちの木のほかに、いのちの泉、いのちの道ともあります。いのちの道はいのちに至る道という意味と、いのちに属する道という意味でもあります。
その反対は、死への道、よみ、滅びの淵、やみなど、悪者の運命として書かれています。これは神をあざける者がいく道と聖書は言います。
【主】を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
(箴言1:7)
箴言の中心聖句でもあります。
主を恐れることは知恵であり、主をあざける者は愚か者です。そして愚か者は、なまけ者でもあります。主を恐れることなく、本当の友にも、隣人にもなることはできず、人の徳を高めることばを発することもできません。夫婦、親子、兄弟など家族間の関係もまた、神を恐れることによって正しくされます。
神を恐れることがいのちであり、神をあざけることが死なのです。
なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、【主】から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」
(箴言8:35-36)
神のことばとして、イエス・キリストはこの世に来られました。
イエス・キリストを信じる者は、神の知恵のことば、箴言で預言された祝福をいただいて日々、生きることができます。
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
(マタイの福音書13:44)
ルカの福音書12章1-9節より
2023年12月31日
<聖書>
そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。
おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
(ルカの福音書12章1-9節)
<説教>
あなたの生き方は表裏があるでしょうか。
今日の聖書箇所でイエス様が言われる「偽善」とは、もともとは役を演じる意味でした。そかから、仮面をかぶって、善い人を演じる意味になりました。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
(ヘブル人への手紙4:13)
神さまはすべてのことをご存知です。そのことを信じられない人間は、秘密は隠しおおせると高ぶり、罪を犯すのです。誰にも見つからなければ大丈夫だと思い込んでいます。
人生に表裏があってはならないのです。良い人間を演じる必要はないのです。神さまと自分を偽って生きて幸せになることなどできません。
神さまは、善い人間を装うのが上手な人より、愚かであっても正直な罪人を選ばれます。ありのままで神様を信じていいのです。
神さまの教えに熱心であったパリサイ人と言われる人たちは、見た目は立派でしたが、内面の心は、悪い欲でいっぱいでした。信仰の形式は守っていましたが、一番大切な神さまを愛することが欠けていました。
何よりも彼らは、神さまの言葉を伝える預言者たちを追い払い、神さまの言葉に聞き従いませんでした。そして、預言者によって語られた救い主イエス・キリストを信じずに、十字架に付けてしまいました。
イエス・キリストを信じることなしに、まことの神さまを知ることはできません。神さまを人生の中に迎えることなしに、生き方が変わることは決してありません。
イエス様を信じる者は罪が赦されるのです。神の前に義(正しい者)とされ、その霊魂は決して滅ぶことはありません。しかし、生まれたままの罪人のままで死を迎えるなら、肉体も魂もゲヘナと言われる滅びの淵へ投げ込まれてしまいます。人間はこの権威を持つ神さまこそを恐れなければならないのです。
値段が付かない価値のない雀さえも神さまはご存知です。まして、あなたは雀よりもはるかに価値のある存在です。あなたの髪の毛もみな数えられる神さまを、あなたの人生にお迎えするなら、もう表裏のある人生、善い人を演じる人生から解放されます。神さまの前に真実に生きることができるように日々、あなたに関わってくださいます。
イエス様が十字架で死んでくださったのは、あなたというかけがえのない存在のためなのです。神さまはあなたを愛されています。これが聖書の一番大切なメッセージ(福音)です。
新しい年をイエス様とともに、愛と平安と感謝に満ち溢れますようにお祈りします。
マタイの福音書1章16節-23節より
2023年12月24日クリスマス礼拝
<聖書>
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイの福音書1章17節-23節)
<説教>
神は天地万物を創造され、イスラエルの歴史を支配され、今も生きて働いて万物を支えておられます。
しかし、人は力ある神よりも、見えるものや権力に頼ってしまいます。
旧約聖書には、BC700頃、ユダの王アハズが、敵国に攻められ、恐れの中で神に信頼することができなくなったとき、神が預言のことばによりご自身を現されました。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
(イザヤ書7:14)
「インマヌエル」それは、いかなる状況の中でも、すべての主権者である神があなたと共におられるという真理です。
このアハズ王に対する神の預言は、究極的にはそれから約700年後のキリストの誕生によって成就しました。それが世界で最初のクリスマスです。
歴史はキリスト誕生から西暦が始まります。キリストは十字架に架かり、ただ信じる者が救われる新しい契約の時代になりました(旧約聖書から新約聖書へ)。
神の約束のことばによって、この世に来られたメシヤ、イエス・キリストは、信じる者に罪の赦しをくださる救い主です。人間の問題はこの罪にあるのです。
罪による神と人間との隔ての壁を打ち壊して、いかなる時も、永遠に共にいてくださるインマヌエルの神さまです。そこにだけ、まことの平安があります。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
(マタイ28:20)