神は愛なり。この愛にまさるものなし

ヨハネの手紙 第一4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2022年4月10日

この世界で一番重要なキーワードは「愛」です。人は愛を求め、愛に疲れ、愛したいと願っています。愛はすべての人の希望です。もし、世界から愛が絶えてしまえば、人は決して生きることはできません。

「神は愛なり」これは聖書により、神様が人間に示された偉大な真理です。神様の本性、ご性質は愛です。誰かを愛する時、人は神様を知ることができます。愛することによって人は最も神様に似た者となり、神様に近づくことができます。

神様は人間を愛しています。しかし人にはその愛がわかりません。愛を知るにも、冷えた愛の心の回復が必要です。まず最初に神様が人を愛されました。

神のひとり子、キリストが人間の罪の身代わりに十字架で死なれたことによって、神様の愛がすべての人に明らかにされたのです(ローマ5:8)。

この神様の愛を個人的に受け取ることが必要です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

その時、今まであなたの内になかった愛が生まれます。神様の愛を知るとき、人は家族や友だけでなく、隣人を愛したい気持ちが生まれるのです。感情を超えた神の愛です。

神様の愛は天地創造の時から現されています。神様の愛によって人は創造されました。神様を愛するロボットとしてではなく、自分の自由意志によって神様を愛する存在としてです。神様の愛に似せて人間は造られました。

神様の愛は、契約に基づく永遠に変わることのない愛です。旧い契約(旧約聖書)の神様の愛はヘセドゥ(ヘブル語)の愛に代表され、誠実、真実を尽くす意味です。新しい契約(新訳聖書)はイエス・キリストの十字架で流された血潮によるアガペー(ギリシャ語)の愛です。

神様に逆らい無視し、自分勝手に生きる罪人のために命を捨てる愛です。それを恵み‐価値なき、受けるに値しない者に与える行為‐と言います。

罪を犯した人間の刑罰をそのままにする冷酷なさばき主ではなく、その罪から救い出そうとされる愛の神さまなのです。

キリストの十字架であらわされた愛を受けることによってのみ、人は心に愛の命が与えられ、罪の生き方から離れ、神の愛が回復されます。そして、神様との正しい関係を取り戻し、自分の意思により神様を愛し、積極的に隣人を愛する者に変えられるのです。感情ではなく、言葉、行い、態度、姿勢の愛

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリ13:4-8)

今週はキリストが十字架で死なれた受難週です。キリストの愛を深く知り、悔い改め、恵みに感謝を捧げましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です