神の祝福の人生のため、あなたは神が創られた尊い存在

創世記1章26-28節、2章7-17節より

2021年8月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

神様は人間を神様のかたちに似せて創造されました。人間の体は他の被造物(猿など)と似ていても、人間は神の霊を受けた特別な存在です。

人間は言葉で互いの意思を伝え合います。この世のすべては言葉で表現され、創作され、現実化したものです。言葉には力があり、人を生かす反面、傷つける凶器であることを忘れてはなりません。

人間には良心があります。誰かのために仕えると心は満足しますが、罪深いことをすると心は痛み苦しみます。

人間は、工場で大量生産されるのではなく神の手作りの作品で、ひとりひとりが個性豊かな人格を持ちます。

神の前に対等な男と女に造られ、性が与えられ互いに必要として愛を育み命を新しい命を生み出します。また神の代理として地上の生き物の管理を任されています。

最も大切なのは、人間は神様との人格的な交わりによって真に生きた者となれるのです。神の意志を知り、神を喜び、すべてにおいて神を称え、見えない神をこの世に現す存在です。

あなたは神によって創造された最高作品なのです。あなたの代わりはどこにもいません。宇宙の創造よりも、あなたが今、生きて存在することの素晴らしさを知ってください。

神は人間に自由意志を与えられました。自由には責任が伴います。神から離れた人間には正しさの基準がありません。この世にも正しさはありません。絶対的な正しさは神ご自身なのです。神に従う時、初めて人間は自由と平和を手にします。

「あなたは、どんなことでも好きなことをしていいですよ」と言われるのは死刑宣告(不自由の刑)なのです。もしも夫婦が互いに好き勝手に生活したなら、また親が子供のやりたい放題なままにしたなら…幸福も喜びも消え去ります。

人間は昔から命を我がものにしようと死の解決を探求してきました。しかし、人間に必要なのは、まことの善悪を知る方である神様に立ち返ることです。

最初の人、アダムが神の約束を破ってから、死の支配が世界に入りました。この死とは神と人間の関係の断絶です。神から離れて、人間は自分が神にとって、尊い存在であることもわからなくなりました。何が正しいのか、生きる目的も、死んだらどこへ行くのか。それらの答えは神を通してしか知ることができません。

アダムに代表される人間は、神の言われた行いを守れませんでした。その結果、人は神から切り離され、神の恵みよってしか救われない者となりました。

完全に神の戒めを守ることができたのは罪なきキリストだけです。この正しいお方を信じるから救われるのではありません。罪なきキリストがご自分を罪の捧げものとして、十字架で人間の罪の身代わりとして死なれたことを信じる者は罪から救われるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

聖書は始まりと終わりを明らかにする

創世記1章1-5節より

2021年8月15日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書は神が天地万物を創造された歴史の記録から始まります。歴史は神の御業です。草木も生物も、もちろん人ひとり存在しない世界の初まりの出来事を誰ひとり立証することはできません。しかし、唯一まことの神がこの世界・宇宙万物を創られたなら、神だけがそのすべてをご存知です。人が知り得ない領域のことは神によって知らされる以外に方法はありません。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

(へブル人への手紙11章3節)

ヘブル語の「バーラー」は神による創造を意味します。人間がいかに知恵を持っていても、無から有を造り出すことは出来ません。命や時間や空間、歴史を創ることは人間には出来ません。神は材料、素材によらず、ご自身の言葉によって思いのまま創造されるのです。神の言葉、預言は聖書の中で、歴史を通して実現してきました。過去だけでなく、将来も神の言葉によって神のご意志が確実に成し遂げられていくのです。「この世界には必ず終わりがあり、そのとき新しい天地に造り変えられ(キリストを信じて罪赦され新しく生まれた者はそこに入ることができる)、また、すべての人間に神の厳粛なさばきがあり…」

歴史の始まりは闇と水の下にある重いかたい物質以外に何の区分もない世界でした。命も秩序も形もない中で、神の霊が支えていました。そして神は万物の創造によって、命と秩序を生み出されました。

神は言葉で創造され、神への応答を期待されています。天地万物、生きとし生けるもの、最高の被造物の人間を創造された神の目的はコミニュケーションです。神の家族の関係を楽しむことです。人間は神の言葉に応答する者として創造されました。そして今、神を啓示する究極のロゴス(ギリシャ語で言葉)が人として受肉した神キリストに答えなければなりません。

世界も宇宙も秩序ある美しい神の作品です。しかし、人間ほど驚くべき素晴らしい神の被造物はありません。その人間が罪に支配され、闇に捕らわれている恐るべき現実を聖書は我々に最重要課題として突き付けています。

神のみがなせる比類なき奇跡は、人間の罪の性質を造り変え、新しく生まれさせて神との関係に立ち帰らせることです。天地万物を創造した神は、あなたを愛と正しさと聖さに喜ぶ本来の人間の姿に創造されるのです。

すべての人に待っているあたたかい家族

イザヤ書43章1-7節より

2021年8月8日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人間は母(両親)から生まれます。そして、人間は神によって命与えられ創造された被造物です。命は愛が生み出します。両親の愛によって人間は誕生します。神の愛によって目的に従って生きるべき者とされます。人間は地上の家族と、天の神の家族に属するのです。

宇宙も世界もすべては神が創造しました。その創造の神があなたを完全に創造されたのです。

しかし、人間は神に背き、神に逆らい自己中心に自分の欲を満たすことを第一にして生きています。神の意志や目的から遠くかけ離れた状態です。

神から見れば、すべての人は罪の中で死んだ罪人です。神から離れるなら人間は罪の奴隷として生きる以外なく、闇の中で死んだような汚れた存在なのです。

世の罪と同様に、神は罪人に刑罰を科されます。それは死です。永遠の滅びです。

しかし、愛のご性質をお持ちの神は罪人である人間を愛されます。その愛は、価値なきものを愛する神の強いご意志です。神は愛なり。ひとり子キリストが十字架で人間の罪の刑罰を身代わりに受けて死なれたことによって、神のその愛は私たちに明らかにされました。

神は愛するあなたのために最高の身代金を払ってくださいました。あなたは神のキリストの命によって買い取られた尊い存在です。

神はこの世の価値観であなたを見られません。誰との比較でなく、ありのままのあなたを知って、受け入れてくださいます。この世界でそんな場所は何処を探してもありません(お金を払って、受け入れてくれる一時の場所はあったとしても)。

いえ、ただひとつだけあります。それは家族です。そして、忘れてしまっていた、あなたの家族、あなたを創られた神だけです。

あなたが探し求めて神のもとに行くことはできません。神があなたを招いておられるのです。そしてただ信じた者が神に呼び集められたのです。

神はあなたの心のすべてをご存知です。そしてあなたが必要なものもご存知です。

すべての人間は神との和解が必要です。家族の関係の回復が何よりも必要です。

何がなくても愛があるあたたかい家族。どんな人間も最後に、これ以外のものを願うものはありません。ここにすべてがあるのです。ここから、すべてをやり直すことができます。

一番大切なものは愛です。家族によって愛を知ります。愛が家族を生み育てます。

家族は神が与えてくださった最高のものです。そして神ご自身が、私たちに最も近い親族なのです。神のもとに帰りましょう。あたたかい家族に帰りましょう。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

(ローマ人への手紙5章8節)

慰めのメッセージ、信仰の招き

イザヤ書40章より

2020年8月1日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イザヤ書は小さな聖書とも言われます。聖書は天地創造、人間の堕落、キリストの救いの預言と成就、聖霊降臨と教会の誕生、終末のこと、さばきと罪と死が滅ぼされて新しい神の国の完成について書かれています。イザヤ書40章(新約の福音書‐よい知らせ)からは聖書中、もっとも人知を超えた希望と慰めのメッセージです。

神に背き続けてバビロンに捕えられ支配されたイスラエルを解放する預言です。しかし、それだけでなく、来るべきキリストによる罪からの解放のメシヤ預言です。また、終末の救いの完成の預言でもあるのです。

荒野で神の言葉を語る代言者は、罪を悔い改めよと叫びます。罪深い生き方から神に立ち返るならば、すべての問題は回復されます。神はイスラエルの回復のためにバビロンという異邦人の国さえも用いられます。問題はバビロンではなく、天地万物を創造され、歴史を支配される神を見上げることなのです。このお方との関係の回復が必要なのです。

「荒野で叫ぶ者の声」は新しい契約である新約聖書ではバプテスマのヨハネによって成就しました。神のご計画の時に救い主キリストがこの世界に入られたのです。待ち望んだ旧約聖書に預言されたキリストが十字架で新しい契約、すなわち罪の贖いを成し遂げられたのです。イザヤ書53章に書かれた苦難のしもべとは、神に供えられた人間の罪の身代わりのいけにえの子羊です。十字架において神の義と愛によるご計画が最高潮に達します。

そのような偉大な神がおられるにもかかわらず、人間は置かれた状況や問題で自分は神に見捨てられた存在であると不信仰に歩んでいます。盲目にされ神を見ることができません。罪の生き方が変えられず、永遠の滅びに向かっているのです。

この世の誘惑や間違った教えにさらされ、人々は自分自身を見失い疲れ果てています。まことの神が必要なのです。神は決して疲れることがありません。休むことなく、いつも私たちを見守っておられます。自分の悟りに頼らず、確信して神のみもとに留まり、期待して神を待ちましょう。神が与える癒しは単なる疲労回復ではありません。キリストを死者の中からよみがえらせた命の新しい力による生き方です。

人里はなれた王者のような威風堂々たる鷲のように、人の知恵や経験では決して到達できない神の支配にある天の御国にあなたは今すでに生かされています。それが神の言葉を信じる者の新しい歩みです。信仰がそれを可能にします。この素晴らしい信仰へと神はあなたを招いておられます。

しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

(イザヤ書40章31節)

神のアガペーの愛はあなたの存在の理由であり、生きる目的

マタイの福音書5章43-48節より

2021年7月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、とイエスは命じます。自分の家族や、自分を愛してくれる者を愛することは誰でもできます。しかし、自分を愛さない者、自分を苦しめ傷つけようとする者を愛することはできません。

ギリシャ語の「愛」という言葉は、家族や友を愛する「愛」のほかに、アガペーと言われる「愛」があります。この愛は神様の愛の性質を表わしています。

アガペーの愛は神が遣わされたキリストの十字架の死を通して現されています。神に背き、神の命令を守らず、自己中心に欲を満たすために生きる人間が受けるべき罪の刑罰の身代わりのためにキリストは十字架で死んでくださいました。赦される価値のない人間が、ただ一方的な神のアガペーの愛のゆえに罪赦されるのです。

イエスはこのアガペーの愛で自分の敵を愛しなさいと言われるのです。アガペーの愛は、感情ではなく、他者に対して善をしようとする決意です。たとえ、どんなひどいことをされても、悲しませられても、侮辱されても打ち負かせない善意を持とうと決意することです。自分が好きになれない人、自分を愛してくれない人、自分を苦しめ傷つけようとする人を愛そうとする力と意志です。

しかし、本当にこの命令は人間に必要なのでしょうか。

実はこのイエスの教えは、キリストを信じて罪赦された者の生き方を表わします。自分の罪深さを知り、自信を価値なき者と悲しみ、神に頼ることなしに生きることは出来ない者が、罪を悔い改めて、キリストに罪赦された者はこのように生きるべきだと言われるのです。キリストの愛と恵みが、人を造り変えて愛の人に変えるのです。

神は善い人も、悪い人も分け隔てなく愛されます。罪赦されたなら、私たちもどんな人にも愛と善を行いたいと願うようになります。神の言葉を守ることは、私たちに本当の生きる喜びを与えてくれます。アガペーの愛によって自分自身を健全に愛する者に変えられます。神様が創られた、本来の人間の姿に変えられていくのです。

犬は家の中におとなしくいることが本来の姿ではありません。寒くても暑くても、活き活きと走っている時、犬は本来の姿で最高に喜んでいるのです。鳥も力いっぱい翼を広げて大空を飛んでいる時が最も美しく鳥らしいのです。

人間も神の愛を受けて、神に造られた大切な存在として互いに愛し合う時、最も人間らしく、神を称える存在として生きることができるのです。

愛はこの世で一番素晴らしいものです。愛が神と人を結びつけることができるのです。そして、愛はキリストの十字架を示すのです。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」  

(ヨハネの手紙第一 4章:7-8節)

何処にいても、どんな時もキリストはあなたと共におられるインマヌエルの神

マルコの福音書16章9-20節より

2021年7月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

十字架に付けられ三日目によみがえるというイエスの言葉を信じてマグダラのマリヤはよみがえりのキリストに出会います。

マリヤは弟子や悲しんでいる人たちに、キリストがよみがえられたことを知らせます。しかし、彼らはよみがえられたキリストを見た人たちの言葉を信じませんでした。キリストは彼らの不信仰とかたくなな心を責められます。

神に近づく道は二つしかありません。一つは神の命令を完全に守ることです。しかし、それは誰もできません。もう一つは信仰によって神に近づくことなのです。

私たちはキリストの十字架も復活も目撃していません。しかし聖書の中のキリストのよみがえりの目撃者の言葉を信じるなら、キリストの救いを受けるのです。信仰とは見えない事実を信じる保証なのです。信仰は得体のしれない神秘的なことを信じるのではありません。信仰は信頼できる事実に基づいているのです。よみがえられたキリストを信じて受ける救いは、神の言葉の聖書の真実であり選択の余地はないのです。

キリストを伝える者がいなければ誰も神と出会うことはありません。テレビでもラジオでも本でもないあなただから伝えられるイエス様のお話があるのです。あなたが伝える言葉に神様が働かれて誰かがキリストに出会うのです。このように復活のキリストと出会ったことをマリヤが伝えたことから始まって、時代と国を超えて巡り巡ってあなたにもキリストが伝わったのです。それは神の力ある働きです。

キリストを信じる者は、イエスの御名によって力ある人生を生きていくことができます。婦人警官は笛を鳴らして交通整理をします。大きなダンプカーもオートバイも彼女の指示に従います。それは彼女に迫力や腕力がなくても、彼女には交通整理をする権威が与えられているからです。

水戸黄門のようにあなたの名前に力はなくてもイエスの御名に頼るなら悪魔の力も退けます。あなたが語るキリストの言葉は聞く者を慰め、力づけ、希望を与えます。

これからは何があっても、嬉しい時も、失望の時も、いつまでもいつまでも、永遠にイエス・キリストはあなたと共におられます。インマヌエルの神です。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(マタイの福音書28章20節)

すべてを覆(くつがえ)すキリストのよみがえり

マルコの福音書16章1-9節より

2021年7月11日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスは十字架で死んでしまいました。希望は去り、何もかも終わってしまった。マリヤたち女性が出来ることはイエスに油を塗り手厚く葬ることだけに思えました。

ここまでが人間が知り、行動できる領域です。大切なのはこの先にある人間の理解を超えた信仰の世界にあるのです。

空っぽの墓には御使いがいて、十字架につけられたイエスはよみがえられたと女性たちに告げます。思いもしない事の成り行きに女性たちは驚きます。そして恐れますが喜びます。

人間は「あやまちは取り返せない。罪は赦されず、後悔しても何も変わらない。未来に希望はなく、墓場ですべてが終わる。」と考えます。

この世界に本当の命も、本当の光もありません。なぜならこの世界は罪という現実があるからです。この罪の支配から人間は絶対に自由になることはできません。

しかし驚くべきことが起こりました。この罪の現実をキリストは打ち砕き、墓の中からよみがえられました。死に勝利されたのです。キリストを信じる者は、よみがえりのキリストの命につながり、罪から解放され、死はもはや力は何の力もありません。

罪の中に生きる者は死の滅びに敗北してしまいます。しかし罪の世に勝利する者とは、信仰によって、イエスを神であると信じる者だけだと聖書ははっきり言います。

この世界と同様に、人間の内にも罪と死の支配があります。思考も言葉も行いも、罪と死の法則にさらされていました。しかし、よみがえりのキリストの命をいただくなら、人間の内は罪と死の法則から、命と御霊の法則に変えられます。この変化は人間の努力や頑張りでは絶対に不可能です。神がキリストを通して信じる者に与える驚くべき御業です。

徳川家康のことを知っている人はたくさんいます。しかし徳川家康を知っている人はほとんどいません。私たちはキリストのことを知るのではなく、キリストを知るのです。キリストはよみがえられ、今生きて存在しておられます。このよみがえりのキリストと個人的な交わりを持つことが出来るのです。

信仰によって驚く体験、日々キリストとの新しい出会い、語りかけを受けることができるのです。この神との関係の回復こそがすべての人間に必要なのです。それこそがキリストの十字架の目的です。

キリストの死と葬りにより罪ある古い人は死ぬ

マルコの福音書15章42-47節より

2021年7月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

アリマタヤのヨセフは裕福で立派で正しい人で、神の国を待ち望んでいました。イエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していました。

しかし、十字架でイエスの死を目撃して、イエスの体の引き渡しをユダヤ総督ピラトに願い出ます。自分の身に危険が及ぶことも恐れないでヨセフはイエスのために行動したのです。かつての彼からは考えられません。十字架のイエスに出会ったなら人は必ず変えられるのです。

人の愛、大切な人の死によって人は生き方が変わるかも知れません。しかし、その人自身を内側から造り変えることができるのは神であるイエス・キリストだけです。

人間の生き方は2つしかありません。

①自分の欲を満たすために罪から離れずに生きる。②神を恐れて、悪から離れて生きる。

聖書は①を罪と言います。やりたいことを何でもすることが自由でしょうか。いいえ、本当の自由とはまことの神を信じて、聖書の言葉に従う生き方です。神から離れるなら人間は罪の奴隷となります。奴隷は自由ではありません。自由とはキリストを受け入れる信仰によって神から与えられる恵みのプレゼントなのです。

ヨセフは他の議員たちと同じようにではなく、イエスに対して自分のすべきことを行いました。それは、自分の罪と決別して、イエスに近づくことでした。ヨセフはイエスの十字架により自分の罪を知り、古い自分を十字架で埋葬して、信仰によって新しくされたのです。

ヨセフはイエスの体を洗い、清潔な亜麻布で包み、新しい墓にイエスを埋葬しました。ヨセフによってイエスは丁重に葬られました。ヨセフの迅速な行動によって、イエスの埋葬を安息日に入るまでに終えることができたのです。

すぐに、いかなる仕事もしてはならない安息日に入りました。前日の十字架の出来事は嘘みたいに静まり返ります。

しかし、この安息日こそが、神の救いのみわざの始まりです。それは、信じるすべての人を罪の束縛から解放するまことの安息です。人間を罪による死の滅びから救い出して、永遠の命を与える、ただひとつだけのキリストの救いです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」

(ヨハネの福音書53章39-40節)

十字架の上の王、救い主キリストを見よ

マルコの福音書10章22-41節より

2020年6月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

血まみれのイエスは裸で十字架に付けられ、人々は無力なイエスの姿をあざけり、ののしります。罪状書きは「ユダヤの王」。

やがて全地は暗くなり、暗黒の罪の死の力がイエスを襲います。全人類の罪を身代わりを受けたイエスは父なる神との関係が絶たれ「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます。しかし、そのまま死ぬのではなくご自身を罪のために捧げられ、「テテレスタイ(完了した)」と勝利の叫びをされ、ご自身の命である霊を父に渡されます。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けます。

家族に愛の関係があるなら子どもは悪の道に入りません。人は自分を愛してくれる場所が必要なのです。自分を認めてくれる場所を探すのです。それがたとえ悪とわかっていても。大切な関係から離れて罪に陥るのです。捧げられたイエスの肉体を通して神への生きた道が私たちに開かれたのです。あなたはイエスを通して神との関係が回復します。神があなたを愛して、あなたを認めてくださいます。

愛する人々や弟子たちから捨てられても、イエスに付き従った女性たちは最後まで十字架の証人となりました。彼女たちがイエスを愛していたからです。

幾度も十字架刑に立ち会ったローマの百人隊長は、イエスの刑が惨めに死に敗北していく今までの死刑囚と違うことに気付きます。十字架で死んでいくイエスに威厳と命があったのです。彼は「この方はまことに神の子であった」と告白します。

王と呼ばれる者は、戴冠式(たいかんしき)で王の冠を与えられる。その式は華やかで荘厳で格調高い。各国の王たち、ナポレオン、ジャンヌダルク…

神から遣わされたイエスは油注がれた、永遠の天の御国の王。罪人を新しく生まれさせる力ある救い主。十字架こそが主イエス・キリストの戴冠式(たいかんしき)であることを見出す者は幸いです。

昔から多くの芸術家たちは「十字架のキリスト」を作品のモチーフにしてきました。美術、彫刻、音楽、演劇など。人間は最高のモチーフに出会ったとき、魂が揺り動かされ、情熱が与えられ、最高の作品を生み出します。最高の人生が与えられるのです。

美術館で「エッケ・ホモ(見よ。この方だ)」という題のついた十字架のキリストの絵画を見た人物は、その絵に釘付けになり動けなくなりました。その絵の説明には次のように書かれていました。

「わたしはあなたのために命を捨てた。あなたは、わたしのために何をしたか」。その人物のその後の人生が変えられたのはいうまでもありません。

どんな時も、十字架に付けられたキリストを見続けましょう。

罪と誇りを捨ててキリストの十字架を負う

マルコの福音書15章16-21節より

2021年6月20日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスは十字架に付けられる前にむち打たれ、ローマの兵隊から暴力を受け、からかわれ、辱めをうけます。最も尊敬されるべき神様が、最も残酷な十字架で罪人として扱われ、殺されたのです。血まみれで傷だらけのお姿は誰もが顔をそむけるようでした。

人間は人前で恥をかくことを嫌います。恐れます。それは弱さやコンプレックスをからかわれたり、存在を無視されたり、勝負に負けることかも知れません。

いい暮らし、いい学校、いい会社をめざすのも、恥ずかしい生き方をしないためです。

しかし、恥ずかしいという思いは外見のことではなく、人間の内面から来ています。最初の人アダムが神に背いた時に、神から離れた罪深い恥ずかしい自分の姿を知ったことが原因です。彼はいちじくの葉を腰につけ、それを隠しました。

すべての人はいろんなプライドによって恥を隠そうとしたのです。しかし、それは問題の解決ではありません。恥は罪の負い目から来ています。罪を犯した神を恐れて隠れたことが原因です。その罪の解決のためにキリストは十字架で死んでくださいました。人には言えないどんな恥ずかしい姿もキリストはご存知で、そのありのままの自分を受け入れてくださっています。キリストに赦された自分を受け入れることによって、はじめて自分を愛するができるのです。ありのままの自分を生きていくことができるのです。

クレネ人シモンは、十字架に向かわれるキリストに出くわし、無理やりキリストの十字架を負わされます。なんということだと最初は嘆いたことでしょう。しかし、血まみれで傷ついて、耐えられるキリストのお姿を見ているうちに、重い十字架を背負わされている自分の苦しみよりも、キリストがまことの救い主であることを信じたことでしょう。人前で十字架を背負わされた恥ずかしい自分からキリストへと心が変えられたのです。

キリストの十字架はすべての人の罪の赦しです。その神の働きをクレネ人シモンは手伝うことができたのです。キリストの苦しみをわずかでも味わい、キリストの重荷を助けることができたのです。十字架がシモンとキリストをつなげてひとつにしたのです。

無視されたり、誰かに打ち負かされたり、プライドを傷つけられることがあっても、あなたのために十字架で苦しまれたキリストは、あなたのために満足され喜んだお姿だったのです。キリストはあなたが信じて救われることを心から願っているのです。キリストはあなたを愛されています。

「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

(ペテロの手紙第Ⅰ2章20-25節)