赦され、赦すならば人は解き放たれる

マタイの福音書18章21-35節より

2021年11月7日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人間は神に対して莫大な罪の借金があります。それは自分のすべての持ち物をもっても支払うことはできません。神のキリストが十字架で死なれるほどの大きな罪です。

罪とは神の言葉に従わず、この世の生き方に流され、自己中心に心のままに、自分の欲を満たすことを第一にする生き方です。罪により、神の存在がわからず、神を認めることができず、罪の中にいます。その刑罰である滅びの死が課せられています。

しかし、罪から離れ、神に従って生きて行こうとする者を神は赦してくださいます。

赦しと許しはまったく違います。許しとは、大目にみたり、我慢することです。赦しは神のみがなせるわざです。罪の赦しは、①拭い去ること②思い出さない③癒すこと、それは神の平安を与え、神と和解し、きよめ、守り、解放を意味します。

罪の赦しは、神ご自身の本質でもあり、恵みです。神の罪人に対する愛のゆえに、キリストが十字架で罪のために死なれたことにより、罪が赦されます。赦しは人間の悔い改めとキリストの流された血潮によるのです。

また、キリストを信じて罪赦された者は、他の人を赦す者でなければなりません。

人間はひどいことをされた人を赦せません。また誰かにしたひどいことを赦されず、自分を赦せず、苦しんでいます。いかなる理由があっても、赦しがなければ人生は縛られてしまいます。

赦したところで、正しく問題がさばかれたり、事態は変わらないかも知れません。しかし、神は赦しなさいと仰います。赦さないことは大きな罪なのです。

いかなる人も神に赦されなければならない罪人です。キリストは十字架であなたの罪を赦してくださいました。十字架のキリストを見るとき、自分自身も罪深い存在であることを知ります。しかし、キリストがあなたの内にあるなら、赦すことができるように助けてくださいます。あなたの赦せないその人の罪のためにもキリストが十字架で死なれたのです。 人間は赦され、赦すことによって罪の人生から解放されます。憎しみ、憤り、あらゆる負の感情から自由にされます。キリストは互いに愛し合いなさいと言われました。愛するなら赦さなければなりません。赦すなら神はあなたの罪を赦してくださいます。

キリストを土台とする人生は決して倒されない

マタイの福音書7章24-29節より

2021年10月31日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

私たちの日々の生活の中の小さな過ち、間違った選択、よくない考え、無駄にした時間…それらが毎日何度も繰り返されるなら、やがて人生の大きな失敗や、時には破滅につながります。

「長い目で見ると、私たちは自分の人生を形作り、自分自身を形作っています。この過程は死ぬまで続きます。私たちの下す選択はすべて、究極的に私たち自身の責任となるのです。」

エレノア・ルーズベルト(アメリカ32代大統領夫人)」

聖書はキリストを土台として自分の家を建て上げなさいと言います。家とは人生であり、あなた自身のことです。

外見の見栄えだけの家や、砂の上に建てられた家は嵐や洪水で壊されます。家にとって大切なのは土台です。その土台となれるのはキリストです。キリスト以外の土台は、もろい砂であり、単なる見栄えに過ぎないのです。それは変わりやすい人の好み、気ままな欲望、はかない人生の目的、頼りにならない人間の判断、時代と共に移り変わる道徳観などです。

今日の人生の困難の原因は、キリストの言葉、聖書を聞かないことです。大切なのは、聖書の言葉を日々の生活の中で実際に行うことです。医者の診断を聞くだけでなく、治療を行わないと病気は治りません。

聖書のみことばによりキリストとしっかりつながるなら、今日どう生きるべきかを聖書が教えてくれます。キリストへの信仰の土台の上に確かな人生の家が建つのです。

やがて人生の試練の嵐は誰にもやってきます。その時、倒されずにしっかり建ち続けるか、あるいはひどい倒れ方をして破壊されるか、その違いがはっきり現されます。仮に人生でかろうじて倒れることがなくても、すべての人は地上の生き方の総決算があることを覚えなければなりません。

その神の判断基準はキリストを神と信じて、聖書のみことばを聞いて行ったかどうかです。神の言葉に聞き従い、罪を悔い改めて自己中心の生き方から解放されて、となり人を愛し、思いやり、関係を大切に生きたかどうかです。

キリストは自らの神の権威により語り、ご自分の言葉に対する態度によって、人の運命(死後も)が決まると言われます。

キリストは十字架で死なれ、あなたの罪の代価を支払うことによって、お金では決して買うことのできない家、神の宮、神殿をあなたに与えてくださいました。あなたがどんな試練にも倒されずキリストの命によって生きるために。

「つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、正しい者は永遠の礎である。」

(箴言10章25節)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」

(ヤコブ書1章22節)

神の愛と真実を疑うとき、人の欲望は悪魔の誘惑に負ける

マタイの福音書4章1-11節より

2021年10月24日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書は悪魔(サタン)の存在を明らかにしています。悪魔は、神に最初に創られた人間、アダムを誘惑して罪を犯させて、神との関係を失わせました。それ以来、この世界の現実は恐るべき罪と死の支配です。悪魔は人間の霊を見えなくして、神を信じることを妨げています。悪魔の存在も、悪巧みも隠されています。神から離れた人間は罪と死の中で恐れと不安に縛られています。

キリストはこの悪魔の罪と死の支配から人間を解放するために人間となられて、この罪の世界に来られたのです。救い主の働きをするために、神の主権をもって悪魔と向き合われました。悪魔の試みは、父なる神が定めた十字架の死とよみがえり以外の方法で人間を救うようにキリストを誘惑することでした。しかしキリストは永遠に不変の神のみことばで悪魔の誘惑を退けられます。

今も休むことなく、悪魔はすべての人間を罪に誘惑しています。特に性、金銭、権力・地位・名誉の領域で活発に活動しています。罪に堕落した人間の心の中の欲望は悪魔の誘惑に反応します。人間が神の愛と真実を疑い不信仰になるとき、人間は神に背いて誘惑に負けてしまうのです。悪魔は確かに人間を誘惑しますが、罪を犯すかどうかの最終決定は人間の意志にかかっています。

罪に打ち勝つためには、神を信じて、神のみことばに頼る以外にありません。神の言葉に従い、愛と平和をもって自分のこと以上に誰かのために生きることです。それこそがキリストの十字架を背負い、キリストの歩まれた道を生きる神の目的です。また、信仰に歩む者には罪に打ち勝つ力をキリストが与えてくださいます。

悪魔は人間の欲望に誘惑して罪を犯させます。そして罪責感に人間を苦しめ、死の滅びへ陥れるのです。しかし、悪魔の本当の目的はキリストが神であり、このお方を信じるなら、罪から救われることを信じさせないようにすることなのです。キリストの十字架以外の方法で、救いがあるとあなたをだますことなのです。キリストの十字架の贖い(あがない)以外に決して罪の解決はありません。

この罪と死そのものを、キリストは十字架の死とよみがえりによって打ち滅ぼされました。もう、あなたの罪は取り去られ、悪魔はあなたの罪を訴えることはできません。

悪魔はあなたを滅ぼすために罪を攻めたてますが、キリストはあなたが生きるために、罪を赦すために十字架であなたの罪の刑罰を変わりに負ってくださいました。

キリストはあなたを愛されています。

人生の二つの道、幸いか滅びか

詩篇1篇1-6節より

2021年10月17日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人生には二つの道があります。ひとつは神を信じて生きる正しい者の道です。もうひとつは神を信じない悪者の道です。

悪者とは、神を無視して、神に対する恐れをもたず、神が存在しないかのように生活します。祈ることもなく、食べ物や健康に感謝もせず、ただそのまま動き続け、好きなように生活しています。そして、次第に悪の見方、生き方に歩み、習慣的に悪に立ち止り、悪の深みにはまりこんでしまうのです。

多くの人は、自分の人生を少しばかりきれいにすれば問題ないと考えています。しかし、聖書には、悪い霊を追い出して、心をきれいにしても、また悪霊が仲間を連れて来て心に住み、以前よりも悪くなるとあります。少しばかり悪から離れるくらいでは人生は何も変わりません。

聖書が言う「幸いな人」とは、悪に近づかないだけでなく、神に向かって生きようとする人です。積極的に神のことばを聞いて従う者のことです。みことばが正しい者の人生を形造っていくのです。よい行いでなく、神のみことばが人生を変えるのです。

現在の人間のため息、うめき、叫び、いたみ、悲劇、人間関係の崩壊、人生の破滅は、神のみことばを聞いて守れなかった結果です。神のみことばが生活の一部になるまで、何度も繰り返して、心の中まで取り入れなければなりません。

また、正しい人とは、生まれたままの野生の木ではなく、神によって豊かな川のほとりに移植された新しく生まれた木です。川の水とは神のみことばです。正しい人にとって、みことばが飲み物と栄養です。また水はきれいにする働きがあります。罪に気付かせ、罪から離れさせます。神のことばが働き、地上生涯かけて、正しい人をきよめて続けてくださいます。

神のことばの内には命があり、正しい人を成長させ、時が来ると実がなります。しかし、悪者の人生は、風に吹き飛ばされるもみ殻です。もみ殻は一見、実のように見えても中には命がなく、何の実質もないのです。

悪者の道は、死後の神のさばきに耐えることはできません。いえ、この地上でも神を信じる会衆の集い(教会)に立てません。ここに立てない者は自分の責任で滅び失せることを意味します。

「幸いな者」は聖書全体の思想です。神のことば、聖書の目的は人を幸いにすることです。そして、「幸いな人」とはイエス・キリストのことです。すべての人間は罪人として生まれ、悪者の道を歩んでいます。悪者の道から、正しい者の道に移ることは人間の力では絶対にできません。キリストが正しい者の道となってくださいます。この道への入り口は、とても狭いですが、キリストを信じて、そのまま進むと、どんどん道が広くなります。そして、この道は命につながっています。

「幸い」か「滅び」

今、あなたはどちらの道にいますか。あなたはどちらの道を選びますか。

自分を偽らずに心の貧しさを悲しむ者は幸いです。神の国はそのような人のものです

マタイの福音書5章1-3節より

2021年10月3日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には「心の貧しい者は幸いです。」とあります。この「貧しい」の意味は、文字通り無一文の極度のみじめな貧困の意味です。さらに言語では、貧しさのために、何の栄誉もなく、人からしいたげられ、この世から見捨てられた結果、すべての希望を神にかける人を意味します。

人の心にあるものが言葉や行いとなって、罪深い現実が見える形となり世界中で現れているのです。人の心から出るものとは「悪い考え、結婚以外の性行為、盗み、殺人、貪欲、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ」と聖書にあります(マルコ7:20-23)。

また使徒パウロは、自分がしたい善ではなく、かえって悪を行ってしまうことにより、自分の中にどうにもできない罪深い性質が宿っていることを告白しています。

罪深い自分の心の貧しさを認め、悲しむものは、この世の物質は何の助けにもならないことを知っています。罪人である人間は自分を罪から救い出すことはできません。唯一キリストだけが人の罪を赦し、きよめることができるお方なのです。

金銭や快適な生活を手に入れたのに、虚しく満たされない人のように…、大切な関係を失い、故郷から遠く離れて途方に暮れている人のように…、家族や友から離れ、愛することも、愛されることもなく悲しんでいる人のように…、自分の恥や汚れや罪を隠して生きたために、人生の喜びも意味も失くしてしまった人のように…

すべての人は神から離れ、神の愛を知らず、神に対して犯した罪に苦しんでいるのです。

人間は物質ではなく霊的な存在です。人は神に似せて創造された高価な存在です。人生の目的はパンではなく神です。神のもとに帰ることです。人間は神との人格的な生きた関係が絶対に必要なのです。その神の言葉に従って生きるとき、人間は初めて満たされ、喜びが生まれ、人生に意味と目的が与えられます。

自分のためだけに生きるなら、永遠に続く喜びはありません。人間の命は互いの誰かのために存在しています。神に似せて創られた人間とは互いに愛し合い、助け合い、自分がしてほしいことを他の誰かにする存在です。そのとき人は本来の喜びに満たされ、神の言葉により神の国に生きることができます。

キリストは十字架で人間の罪の刑罰の身代わりとなられ、死んでくださいました。私たちを神の子どもとし、天の御国の相続、永遠の命を与えるためです。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

(コリント人への手紙第 8章9節)

悔い改める者は新しく生きられる~聖霊による教会誕生の夜明け前

使徒の働き1章12-26節より

2021年9月26日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

十字架で死んでよみがえられたイエスは40日間弟子たちに現れた後で天に昇られます。しかし、弟子たちはイエスが去ったにも関わらず非常な喜びに満たされてエルサレムに帰ります。そこで父の約束をただ待つのではなく、みんなが心を合わせ、祈りに専念しました。自分の罪のために十字架で死なれたイエスを知り、復活されたイエスを信じる者は罪から救われ、共におられる神を信じ、まことの喜び、祈りが与えられます。

この時、イエスの兄弟や、女性たちも共同体のメンバーに加わりました。性別、人種の壁を超えたすべての人が、キリストに罪赦され、ひとつの家族とされます。ユダヤ教の枠を超えた新しいキリストを信じる群れが生まれます。

十字架の前でイエスを拒んだペテロも立ち直り、120人の兄弟たちの指導的役割を果たします。そして、イエスを裏切ったユダの代わりに使徒を補充します。使徒に必要な資格はイエスと共に生き、十字架で死んでよみがえられたイエスの目撃者であることでした。

それは、キリストと共に生きるあなたでもあります。自分の罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことを信じて、復活されたキリストと共に生きる者です。

ユダがイエスを裏切り、後悔して首をつって死んだことは、聖書に預言された言葉の成就でした。キリストは12使徒を選ばれた時に、ユダが裏切り、そして自分に戻って悔い改めないことをご存知だったのです。

銀貨30枚でキリストを売渡し、十字架でイエスが死んだからユダが滅びたのではないのです。罪を犯した後、人間に赦しを求め、自分の方法で罪の行いを始末しようとしたから神のキリストの前から滅びたのです。神の言葉は必ず成就します。

どんな罪や過ちを犯しても、キリストのもとに行き、悔い改めて、以前の生き方を改めるなら神はその罪を赦されます。あなたは死から救われ、新しく生きることができるのです。

「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

(ルカの福音書2445-48節)

弟子たちが集まり、心合わせて祈り、信じるすべての人に聖霊なる神さまが与えられる教会の時代の始まりです。ユダヤ教からキリスト教へとイエスの十字架により罪の赦しによる新しい契約の時代です。

キリストだけが、あなたを罪と死から救うことのできるお方です。

十字架の後も続く神の救いのみわざ~福音が世界を作り変える

使徒の働き1章1-11節より

2021年9月19日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

よみがえられたキリストは40日間、弟子たちにご自身を現され、キリストが今、生きておられる確かな証拠とされました。キリストの十字架の死と復活によって、この悪しき世の支配のただ中にあり、神の国をすでに実現しているのです。

キリストは弟子たちに、父なる神から与えられる約束を受けるために、エルサレムから離れないよう命じます。天地創造から始まり、キリストによって始まった神の国の民とされる救いのご計画は聖霊によって今も前進しています。キリストが地上を去っても、キリストはその働きを弟子たちを通して継続されています。

そのためにキリストの十字架の死と復活のみわざによる約束の聖霊を受けなければなりません。弟子たちは十字架のキリストの苦しみの前に、わが身を守り逃げ去りました。キリストが復活されたエルサレムは、今さらに危険な場所でした。しかし、彼らはそこを離れませんでした。やがて、聖霊を受け、神を信じて、従えなかった自分たちの罪の身代わりにキリストが十字架で死なれたことを知り、罪赦され、神の子とされ、新しく生まれ変わり、まことにキリストに仕えるものとされました。

誰でも、自分の罪を認め、悲しみ、罪の赦しを神に求め、神に向かって生き方を180度変えようとするなら、罪赦され、神の子とされ、新しく生まれ生きることができます。

キリストの弟子から始まり、キリストの十字架の福音は世界の果てまで広がっています。キリストの福音だけが、人を作り変え、世界を作り変えることができるのです。

この世界は人間が見て知る以上の世界なのです。世界は死んでいるのでも、沈黙しているのでもありません。世界、歴史の中に働かれる神を通して、神の目的に向かって、確実に神のご計画が進んでいるのです。

やがて終わりの時にキリストがもう一度来られ神のご計画が完成されます。それはキリストを信じて新しくされた者が入る神の国です。その日に向かって忍耐と希望をもって、主権者なる神に委ね、キリストに仕えて、福音を宣べ伝える者は幸いです。

昔、ラビ(神の言葉を教える先生)に仕えたイスラエル人たちは、自分たちの最高の姿を見せて、最終テストに合格しようとしました。その最高の誉れ「弟子として私に着いてきなさい」をもらうためでした。

今、キリストがあなたに、私の弟子としてついてきなさいと言われます。この招きがわかるなら、応答しましょう。

キリストの救いを伝える人生は、あなたを真実に満たしてくださいます。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(マタイの福音書28章18-20節)

信仰の父、アブラハム②~福音に生きるための信仰の試練

創世記22章1-14節より

2021年9月12日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

様々な試練の後、100歳のアブラハムに念願の子イサクを神は与えられます。その愛するイサクを全焼のいけにえとして神に捧げるように、神はアブラハムを試練に遭わせられます。信仰の試練とは神に従う方法以外で問題を解決しようとする誘惑です

試練の目的は、いざとなると自分の方法に頼る信仰から、徹底的に神に従うよう信仰を強めるためであり、神の役に立つ者とするためです。

今までのアブラハムなら神に抗議したり、別の解決の方法に頼ったかも知れません。また神の御業によって奇跡的にイサクを授かったこともアブラハムの信仰の質を変えていました。アブラハムは理性では納得できないことを神に委ね、従おうとしました。

イサクを縛り、刀を振りかざし手をかけようとした時、神はアブラハムの神に対する従順の姿勢を受け止めました。アブラハムは息子イサクを神に捧げたと神は見なしたのです。

アブラハムの試練は、すべての人に対する神の訴えかけでもあります。それは①すべての人は神に対する罪のために死の刑罰を受けなければならない ②神はすべての人を祝福する。

罪とは神が捧げられるべき最高の祭壇に、神以外のより頼むものを一番としてまつり捧げることです。

イサクが死んでも罪の赦しの捧げものにはなりません。人間の罪の赦しのためには神が備えられる罪なき神の子羊キリストだけなのです。

神は私たちが本物かどうかご存知です。私たちは不信仰な信仰者です。しかし神は試練により神に信頼する本物の信仰者へと造り変えてくださいます。

アブラハムが愛するひとり子を捧げることは、神の御子キリストが人間のために十字架で死んでくださったその痛みを知り、キリストの福音を知ることでした。

私たちも与えられた命、大切な人生を神に信頼して明け渡そうとする時、神はそれを真実な信仰として受け入れてくださいます。信じた福音~キリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死なれたことを信じることによって罪赦され、永遠に神との関係に入れられる~の通りにあなたは救われるのです。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

(ローマ人への手紙8章32節)

信仰の父、アブラハム① ~ 神の招きと約束

創世記12章1-8節より

2021年9月5日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

神が選ばれたアブラハムを通して人類に神による祝福の契約が与えられました。この日は歴史的に最も偉大な日の一つです。これこそが旧約聖書と新約聖書の契約の内容であり、次のことを意味します。

①アダムの罪によって悪と死に支配された世界を救い出す ②アブラハムから無条件でイスラエル民族がおこされる ③全人類の救い主キリストが来られる ④キリストから与えられる聖霊により教会が生まれる ⑤終わりの日にキリストがもう一度来られ(再臨)、完全な神の祝福が成就される(新天新地)

この世界にはまことの望みはなく、すべて一時的で不完全です。しかし、神は誠実なお方で、その約束は確かで信じるものを決して欺くことはありません。神の豊かな永遠の財産がアブラハムとその子孫、すなわちイスラエルと教会に相続されようとしているのです。

アブラハムは南メソポタニヤ地方のウル(現在のイラクの辺り)から神に招かれ呼び出されました。ウルは多神教の宗教的混乱の都会の町でした。神はアブラハムを魂を殺す異教の支配から救い出します。アブラハムは神に従い、生まれ故郷に決別し、新しい信仰による歩みを踏み出します。

アブラハムが完全な人だから神に選ばれたのではありません。次のようにして彼は神の祝福をすべて受け取る素直さを持っていました。

①創造主である神に対する人間の立場を知っていた。人間は神の権威を敬い従う存在である。 ②神は必ず約束を果たされると信じていた。天に顔を向け、神の声を聞く姿勢。神への期待を持って生き続ける ③神の国ために働いた。信仰は聞くと同時に行うこと。

アブラハムはたくさん失敗もし、決して完全な信仰者ではありません。しかし、契約を守るのはアブラハムではないのです。契約の責任を負って下さるのは神なのです。それは一つのことを意味します。神によって立てられた契約は必ず勝利に終るということです。神のご計画はいかなる策略や妨害によっても止めることは出来ないのです。必ず成就するのです。

この世には多くの素晴らしい感動的な物語があるかも知れません。それをどんなに大切に自分の宝物にしても、それは人間の一方的な思いを超えることはありません。しかし、聖書には神とあなたとの生きた関わりの現実があるのです。あなたと神との間にイエス・キリストがおられ、今もあなたを招いておられます。キリストが十字架で死んでくださり、永遠の、無条件の、恵みの救いの契約は完成しているのです。それを受け取るかどうかは、あなたがキリストを信じるかどうかにかかっているのです。

「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」

(へブル人への手紙2章10節)

恐ろしい罪の現実を知ることなしに救いはない

創世記3章より

2021年8月29日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書は神に敵対し、人間を神に敵対させるサタン(悪魔)の存在を明らかにしています。

サタンは最初の人アダムに神を疑うように次のように誘惑しました。

①神を信じなくても生きられる ②この世に絶対的な権威はない ③神の言葉を自由に判断させ、選択権を人間に与えた

サタンの誘惑は誰もが怖がる大それたものではないのです。その過程において人は事の深刻さに気付きません。しかし後には必ず死の滅びがあります。今も昔も人は簡単に騙されるので、サタンは同じ戦略をあきもせず用いるのです。

アダムは禁じられた実を想像力と感覚に頼って見ました。創造主ではなく、被造物に耳を傾けて、神の言葉ではなく、自分の印象を頼りにしたのです。その結果、誘惑を退けることに失敗しました。

アダムの目は開き、自分の裸の恥を知りました。死とは神との関係の断絶です。神との交わりの栄光を失ったみじめな不安定な恥の自覚です。神の言葉に従わなかった罪責感でした。彼が得たのは神の知識ではなく、与えられた最善の環境を自らの罪によって台無しにしたことの知識でした。

神の戒めを破った瞬間からの恐るべき変化の自覚がありました。アダムは、以前の神との祝福を願うのが当然でした。神は「あなたはどこにいるのか」とアダムに回復を与えようと呼びかけます。

しかし、人間の頑固さ以上に、人間には罪の自覚も解決する力もないのです。人間はこの神の恵みの機会をまったくいかせないのです。サタンに敵対すべき人間が神と敵対しているのです。罪は敵意の対象さえ自ら変えることができないのです。

アダムは裸の恥を恐れますが。罪の結果を恐れるだけでは、悔い改めはありません。

神に背いたことを人は正直に答えなければなりません。アダムの選択は悔い改めではなく、刑罰を恐れた責任転嫁と逃避でした。

神から離れた人間は罪の恥を覆い隠そうとして生きています。しかし罪の恥を取り除くのは、神との交わりの回復以外にありません。人は神に対して罪を犯したのです。神の赦しが必要なのです。それ以外に罪責の重荷の解決はありません。

神は命の木を守るため人間をエデンの園から追放されました。神の御国には罪人の入る余地はまったく残されていません。しかし命の木が守られていることは、神との回復が人間に残されていることを意味します。 ここに聖書全体の神のさばきの厳しさとあわれみがあらわされています。イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪を犯した人間への救済は成し遂げられたのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」


(ローマ人への手紙3章23-24節)