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まだ、試用版ですが、使いたい方はご連絡ください。
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マタイの福音書25章14節-30節より
2023年12月17日
<聖書>
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
(マタイの福音書25章14節-30節)
<説教>
マタイの福音書24、25章は終末に関するイエス様の教えです。
24章1-44節は、エルサレムの滅亡、終末の前兆、イエス様の再臨(世の終わりにイエス様がこの世に来られること)です。24章45節から25章は、イエス様の再臨に、どのように備えるかの3つのたとえです。
イエス様を信じる者は、神さまから必ず何らかの賜物が与えられています。
ひ とりひとりにふさわしい神さまによって定められた賜物です。ある人は5タラント、ある人は2タラント、別の人は1タラントといった具合にです。
1タラントは労働者の6000日分の給料です。1タラントの賜物と言っても、決して小さなものではありません。
イエス様がもう一度この世に来られる再臨は、いつかは誰にもわかりません。しかし、再臨までのときは無意味ではなく、それぞれが、任された与えられた賜物を、活用して生かす時なのです。
しかし、1タラント預かった者は、それを活用して、失敗することを恐れて、使わずに隠していまいます。あるいは自分に与えられた賜物をちっぽけなものと考えたのかも知れません。
やがて私たちは、終わりの日に清算のときを迎えます。大切なのは、いくら儲けたかではなく、それを実際に活用したかどうかが問われる清算です。
このたとえの中心は、私たちが、「忠実」であったかどうかです。与えられた賜物を神さまのために活用したかどうかです。そして、忠実に賜物を用いた者は、天の御国での賜物を任されるのです。それはこの世では大きな富である5タラントのお金とは比べられない、莫大な神の資産です。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
(ルカ16:10)
このたとえは、良い忠実なしもべと、悪いなまけ者のしもべとして比べられています。
良いしもべは、神さまが喜ばれることを、自分の喜びとして、忠実に仕えた者です。それに対して、悪いなまけ者のしもべとは、自分が神様のしもべであることを不平に思って、神さまに対して間違った考えをして、神さまに従えないことを言い訳するしもべです。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。
(マタイ25:21)
これが、人間が神様に造られた目的です。神さまは、私たちが神様とともに喜んで生きるために、命を与えてくださったのです。人間は、神さまが与えてくださる恵みと愛を受けて感謝して、神さまに捧げ、従うとき、一番幸せなのです。
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
(マタイ25:29)
これは、不変の法則、真理です。
与えられた(賜物)能力は、使わないと、失われてしまうのです。どんな素晴らしい道具も使わないと錆ついてしまうのです。しかし、能力、才能は使うならば、どんどん磨かれてさらに用いられていきます。
神さまがあなたに与えてくださった素晴らしい賜物は、誰かと比べることではありません。それを、自分のためだけでなく、神さまのために、誰かのために、喜んで活用しましょう。それは、何よりも必ず、あなたの喜びとなります。
ヨハネの福音書7章53節-8章11節より
2023年12月10日
<聖書>
〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
(ヨハネの福音書7章53節-8章11節)
<説教>
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て(ヨハネ8:3)
当時のユダヤ社会では、殺人と偶像礼拝、そして、この姦淫の刑罰は死刑です(石打ち)。
この女を罪に定めるのか、どうするかによって彼らはイエスを罠にかけて、議会に告発して、葬り去ろうとします。
律法学者らは、姦淫の女をイエスや群衆の真ん中に置きます。彼らは、もはや罪を犯した女を、まるでもののように扱いました。イエスを陥れるための道具のように。
しかし、イエスは驚くべきことを言われます。
イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネ8:7)
それは、姦淫の罪を犯しただけでなく、心の中で淫らなことを一度も考えたことのないものだけが、この女に石を投げることができるという意味でした。
姦淫の罪は死罪です。婚姻関係のない者が性的な行為を行うことは死罪です。
しかし、イエスは女を罪に定めるのではなく、女を連れてきた連中や、好奇な目で女を冷たく見る群衆たちの罪を指摘したのです。
自分が正しいと考えることは、多くの場合、罪の根本的な姿勢と言えます。イエスの前では、誰も自分に罪がないと言って、女に石を投げることはできないのです。
誰も人の罪はもとより、些細なことを人間的な判断でさばいてはいけないと聖書は教えます。それよりも自分の罪をよく吟味すべきです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
(マタイ7:3)
ひとり、またひとり去っていき、イエスと女だけが残りました。イエスに女を非難する姿勢は見られません。
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネ8:11)
いかなる権威ある律法(法律)もその正しさだけで、いかなる人もさばいてはいけないのです。どんな罪を犯した者にも、その人格を認め、罪に定めることが最終的目標ではなく、その人を善に向かわせることが目的なのです。
イエスは、その人の過去をご覧になるでしょう。しかし、その人の未来をもご覧になるのです。その人のこれからの生き方を信じて、その罪を赦されようとします。かつての罪人が、イエスを信じることにより、善人、愛の人に変えられることをイエスは何より信じているのです。
この「イエスと姦淫の女」の記事は、姦淫の罪が軽くあしらわれることを恐れて、写本によっては省かれています。
しかし、イエスは姦淫の罪をいとも簡単に赦されたのではありません。この女性だけでなく、彼女を告発した律法学者やパリサイ人たち、いえ、すべての人間の罪を十字架の上で、ご自身の罪として受けようとされるお方の罪の赦しの宣言です。
今からは決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:11)
赦された者としての、罪との戦いがあるでしょう。しかし、イエス様は私たちをどこまでも信じてくださいます。また罪に打ち勝つ力も与えてくださいます。
罪人は罪に定められて当然と考えるかも知れません。しかし神さまの道は人間とはまったく違うのです。
【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ55:6-9)
神さまは、罪人である人間を罪に定めることより、その罪をご自身のひとり子であるイエス・キリストによって罪の刑罰を受けてくださいました。なぜなら神は愛だからです。
人として来られたイエス様は、罪人をさばきません。神さまはイエス様にさばく権威を与えられていることも事実です。しかし、神さまはイエス様の十字架によって罪の赦しを用意してくださいました。
その救いに対して、その人がどのように応答するか、その態度と姿勢(これを信仰と言います)によって罪に定められるのです。
ルカの福音書7章36-50節より
2023年11月26日
<聖書>
さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
(ルカの福音書7章36-50節)
<説教>
パリサイ人のシモンはイエスを食事に招きました。
そこに招かざる、ひとりの罪深い女がイエスのために自分のできる最高の愛を捧げます。
町中の者が、この女の悪い噂を知っていました。おそらく遊女であったと思われます。この女自身が、自分の罪深い生き方をこれ以上続けられないどん底に苦しんでいました。そんな時、イエスの噂を聞きました。
イエスは多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、死人をよみがえらせ、貧しい者たちに罪の救いの福音を宣べ伝えていました(ルカ7:21-23)。
「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」
(マルコの福音書2:17)
もう女は、明日を生きる力もありませんでした。なぜこんな人生になってしまったのか。愛されたい。心から喜んで生きたい…すべての希望は消え去っていきました。
そんなときにイエス様のことを聞いたのです。そして、彼女はイエス様を信じて、心のありのままをイエス様に祈ったのです。
その瞬間でした。彼女の重い心が、傷が、罪責が取り去られたのです。
内から溢れる愛と感謝を押さえきれずに、彼女はイエス様に会いに行きます。
このパリサイ人のシモンはイエスを預言者かも知れないと思いました。今、あちこちで評判のイエスの人気にあやかろうと招きました。当時の客人をもてなす当たり前の、足を洗う水も、祝福の口づけも彼にはありませんでした。
罪深い女とシモンの違いは何でしょうか。それは自分の罪の自覚の違いです。
イエスが言われた、たとえの借金の金額のように、自分の罪を数量で測ることはできません。ただ自分の罪の自覚によるのです。そしてパリサイ人シモンと女の違いは、愛する生き方において明らかになるのです。
「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。
それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
(ルカの福音書7:47)
神はどんな罪も赦してくださるのでしょうか。そうです。赦されない罪はありあません。
人間ならば、償い切れない罪があるかも知れません。しかし、神の前では赦されない罪はないのです。それは、私たちが罪を償うのではなく、キリストが人間が負うべき罪の刑罰を身代わりに十字架でご自身のきよい命によって払ってくださったからです。
シモンはイエスが罪の赦しを宣言した事実が、わかりませんでした。
しかし、この罪深い女が、香油を塗り、涙でぬらして、髪の毛でぬぐった御足、そのお方は預言者どころか、この地上で唯一、人間の罪を赦すことが出来るお方、救い主だったのです(マルコ2:10、使徒4:12)。
すべての人は、神を見なければなりません。このキリストなる神さまによって罪を赦されなければなりません。その重荷はあなた一人で負うにはあまりにも重すぎるのです。
この女の姿こそが信仰に生きる者の姿です。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
(ヘブル人への手紙11:6)
「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」」
(ルカの福音書7:50)
この「安心して行きなさい」は平安に入りなさいという意味です。
そして、赦された者は、愛する者として生きるのです。
イエスを信じて罪の重荷をおろして、愛と平安と喜びの人生に生きていこうではありませんか。
コリント人への手紙第二3章16節-4章7節より
2023年11月19日
<聖書>
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(コリント人への手紙第二3章16節-4章7節)
<説教>
①人間の心は覆いが掛かっていて、自分の力で神を知ることができません。
この手紙を書いたパウロも、昔は神に逆らい、キリスト者を迫害していました。しかし、神の光がパウロの心を照らし、よみがえられたキリストと出会い、神を信じる者に変えられました。
②この世の神(悪魔)が人間の思いに覆いを掛けて、神を知ることを妨げています。
それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
(Ⅱコリント4:3-4)
では、人間は神を知り、信じることはできないのでしょうか。
いいえ。悪魔は人間の心に覆いを掛けても、神は、人間の心を光で照らしてくださいます。
人が自分の罪を認め、悔い改めるとき、神はそのように働いてくださいます。
③人間は神に心を照らしていただき、キリストを通して神を知ることができるのです。
パウロは、福音(キリストを信じるなら、人は救われるというよい知らせ)に仕える者とされました。しかし、パウロは言います。
私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
(Ⅱコリント4:5)
パウロは自分のことではなく、十字架に付けられたイエスを宣べ伝えました。キリスト者であっても弱く、愚かなものですが、自分のすべての罪を贖って(救って)くださったキリストにふさわしい生き方へ向かい、変えられていきます。
そのことをパウロは、次のみことばにたとえています。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(Ⅱコリント4:7)
古代ローマでは、土の器に金貨や銀貨をいれてしまっておく習慣がありました。凱旋将軍の行軍はこの土の器をもっていました。
キリストを信じた者も、神の子とされ、天国へいくことを約束された勝利者です。しかし、この世で苦難や悩みがあり、自分の弱さや愚かさが完全になくなることはありません。
しかし、それであってもキリスト者は偉大な勝利者なのです。しかし、その偉大さは、彼らの中にある福音、キリストの栄光によるのです。
神の偉大さとは、弱い私たちを用いて、偉大なことをしてくださることです。パウロはその神のあわれみによって人生が変えられました。神に造られた人間へと回復されたのです。
聖書は人間を、陶器師である神に造られた土の器にたとえています。弱くこわれやすい人間であるが、神に造られた尊い存在です。弱き小さい私の中に、比べることのできない測り知れない神の恵み、愛、力が生きているのです。
神は信じるわたしたちの覆いを取り除いて、キリストの輝きを、反射させるように私たちを輝かせてくださいます。そして、もはや反射でなく、私たちをキリストに似た者へと変え続けてくださるのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(Ⅱコリント3:16-18)
ヘブル人への手紙12章1-3節より
2023年11月12日
<聖書>
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
(へブル人への手紙12章1-3節)
<説教>
キリスト者として最後まで生きることは、決して簡単なことではないかも知れません。神さまに従って生きるキリスト者は日本でも1%未満と言われています。
聖書によるとイエス様の弟子として従うキリスト者の歩みは「競争」なのです。
しかし、ヘブル人への手紙11章にある旧約聖書の信仰者が証人として、私たちを励ましてくれます。ただの声援ではなく、最後まで信仰に生きた証人としてです。
そして、何より父なる神さまに従われたイエス様の信仰により、私たちもまた、このお方を目標として、また指導者として、同伴者として歩んでいくのです。
旧約の信仰者と同様に、今の時代も罪の世であり、キリスト者として生きやすい所ではありません。
しかし、キリスト者として生きる問題は自分自身にあり、罪と重荷を捨てて身軽にして、競争を走り続けることが大切です。
ここでの罪とは「不信仰」です。一般的な信仰ではなく、御言葉に従う信仰です。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 (ヘブル人への手紙11:6)
そのために、イエス様を見上げ続けることです。この方を見るならば、罪によって神さまとの関係を失うことはありません。疲れて座り込んでも、また希望と力が与えられます。愛が生まれます。イエス様に似た者へと造り変えてくださいます。
人間の罪によって、イエス様は十字架の苦しみとはずかしめを受けられましたが、よみがえりの先にある、神へつながる救いの道、信仰の栄冠を喜ばれました。
世の罪、また自分自身の罪により、苦難がありますが、イエス様の信仰によって、栄光の勝利が約束されています。信仰がそれを確実なものとしてくれるのです。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル人への手紙11:1)
私たちの本当の喜びとは、大切な人が喜んでいることでしょう。そこから喜びは始まります。イエス様は、あなたを愛されて喜んでおられます。喜んでイエス様を見続けましょう。人生のゴールで、必ずイエス様はあなたを迎えてくださいます。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(コリント人への手紙第一9:27)
ルカの福音書10章25-37節より
2023年11月5日
<聖書>
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
(ルカの福音書10章25-37節)
<説教>
この律法の専門家は、永遠のいのちを受けるために何を行えばいいのかイエスに質問しました。
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
(ルカの福音書10:27)
このみことばは、旧約聖書にある律法です。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)
隣人とは誰なのか、どのように愛するのか、その答えがイエスの語られた「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-37)の姿です。
律法の専門家で神に仕える祭司、レビ人は半殺しになった人を見て反対側を通り過ぎて行きます。律法では死人に触れると汚れ、神殿の奉仕ができなくなる。また、介抱する者が強盗に襲われる手口もよくあり、それを恐れた…
しかし、自分を正しいとするいかなる理由も、神の前では通用しません。
それに対してサマリヤ人は
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、(ルカ10:33)
サマリヤ人のこの「かわいそうに思」う心こそがすべてなのです。この強盗に襲われた人に対するあわれみの心によって、彼のすべての愛のわざが行なわれたのです。
祭司、レビ人もわずかでも同情があったはずなのです。私たちは、このあわれみを閉ざしてはなりません。あわれみによって隣人が生まれるのです。だれかがあなたの隣人なのではありません。大切なのは、あなたが誰かの隣人になれるということです。
この律法の専門家は、何を行えば永遠のいのちを得るのか、また誰がわたしの隣人なのかとイエスに聞きました。
人は良い行いによっては決して救われません。人は愛を行うものとして神の似姿に創造されたのです。良い行いをする神の似せて造られたのです。神さまがあなたに何を望んでおられるかを私たちは知っています。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ2:10)
もっとも大切なことは愛なのです。同情するだけではなく、具体的な行動が伴う愛です。聖書が言う愛は感情ではなく、態度、姿勢、行動、決断です。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。
(Ⅰコリント13:4-8)
心が変われば人は変わります。愛された者は愛します。多く赦された者は多く愛します。いかなる人もイエスの愛に触れられ罪赦されたなら、新しい心に変えられ、新しく生きられるのです。
永遠のいのちは、この愛をイエスとともにあらわして生きることです。
イエス様の「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」は
あなたを新しい生き方に変えるみ言葉です。
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
(テトス2:14)
ローマ人への手紙6章4-14節より
2023年10月29日
<聖書>
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
(ローマ人への手紙6章4-14節)
<説教>
イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンには何が起こったのか?クリスチャンとは何者でしょうか。
人間の内面で次のような事実が起こった人のことだと言えます。
①古い自分の葬式
罪の性質に支配された古い人は死んでいる。
②キリストとの結婚式
キリストとつながって一つに結合されている。
①生きるために死ななければならない
夏から朝顔がきれいに咲いています。しかし秋になると花の咲く時期を終えます。花は枯れて死にますが、その後には種が出来て、また来年の夏にはきれいな花を咲かせます。人間も髪の毛、血、骨、からだは死んで新しく生まれ変わっています。生きるためにどんどん古い細胞は死んで新しく作られるのです。 生まれ持っての人間の罪深い性質は、勉強や道徳教育、善行、修行をしても、わずかでも消し去ることはできません。ただ、人間の罪のために十字架で流されたキリストも血しおによってのみきよめられるのです。キリストを信じる者は、キリストが十字架で罪に対して死なれたように、古い罪の性質に死にます。神の力によっていかなる人も変えられます。
②主人が変わらなければならない
キリストを信じる前は、私たちは罪の奴隷状態でした。死のもう一つの意味は、分離することです。別れることです。キリストを信じた者は、罪の支配から離れて、神のご支配に移されます。これも人間の努力や頑張りでは不可能です。クリスチャンとは、すでに罪の支配から自由にされている者です。これが事実です。
だから、キリスト者は、このイエス様が十字架で罪に対して一度死なれ、神に対して永遠に生きることを、自分の人生で実際に生きる者であることを覚えなければなりません。
それは、あなたが罪と自我とこの世に対して死んだ者として、神さまの栄光(素晴らしさ)のために、神と共に生きることです。
しかしクリスチャンも古い性質がこの地上で生きる限り残っています。
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
(コロサイ人への手紙3:5)
また、現実に存在する罪の力が私たちに24時間365日、襲いかかってきます。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。
(Ⅰペテロ5:8-9)
「罪が滅ぶべき肉体を支配して、情欲に従わせることがないようにしなさい」
(ローマ6:12別訳)
人間のからだを罪の支配に任せてはいけません。不義の器(ローマ6:13)とは「鋭い不義の武器」の意味です。
しかし、罪はもはや絶対に私たちの主人になることはない(ローマ6:14)のです。だから、キリスト者はからだの各部を義の武器として神様に捧げるのです。自分のために使うのではなく、神さまのために用いるのです。
なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、イエス様を信じた者は、もう古い律法(よい行いをしなければ正しい人間でないという生き方)に生きる者ではないからです。
頑張りや、社会的地位、才能や仕事ができる・できない、人の評価がすべてであった生き方、
それらから解放されて、十字架のみわざによって、イエス様を信じて、神さまの恵みによって生かされた真の意味で自由な者だからです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(Ⅱコリント人への手紙5:17)
ヨナ書3章10節-4章11節より
2023年10月15日
<聖書>
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、
【主】に祈って言った。「ああ、【主】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。
【主】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
【主】は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」
ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。
神である【主】は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
【主】は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
(ヨナ書3章10節-4章11節)
<説教>
ヨナの宣教でニネベの人々は罪を悔い改めて、ニネベは滅びから救われました。ニネベはヨナたちの国をひどい目にあわせる敵国です。異邦の神を信じる邪悪な国でした。ヨナはこの神の大きな愛に怒ります。
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。
ヨナは怒って、【主】に祈って言った。
(ヨナ書4:1-2)
人間は偉大な神のあわれみ、いつくしみを完全に理解できません。
しかし、神はそのひとり子のキリストを十字架につけて、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださいました。ここに神の愛がすべての人に明らかにされました。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人への手紙5:8)
神の愛に触れ、私たちの氷の心が溶かされ、愛を持つ者に変えられていきます。少しずつ、神がおられる交わりの中でキリストの愛を家族で知っていきます。
キリストの愛によって救われ、新しく生まれた者の愛とは、このイエス様を誰かに紹介することです。
人生の中で、私たちの最も大きな出来事、それはイエス様と出会って素晴らしい人生に変えられたことなのですから。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
(マルコの福音書16:15)
ヨナは神のことばを、ニネベの人々に伝えました。そこに神の力が働かれて、人も家畜も悔い改めて、救われたのです。
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
(ローマ人への手紙1:16)
神はご自分の子どもたちを選ばれています。しかし、福音を宣べ伝える人が遣わされ、その人々が福音を聞いて信じなければ救われません。
人々は目的がわからずさまよっています。何が正しいのか、どう生きるべきなのかを悩んでいます。
この世が提供する者は、真実な人生の問いから離れさせ、人を堕落させるようなものが多くあります。
この世界には、私たちを真理へ導くものはありません。
財産、健康、夢、肩書き、恋人、趣味娯楽、どれも大切です。しかし、どれも一番になり得ません。罪を犯した刑罰である死後の永遠の滅びには何の助けにもなりません。いえ、今現在の生き方がイエス様の豊かな命と愛に満たされます。
すべての人に福音が必要です。それは他のなにものにも比べることはできません。
福音を信じて与えられる永遠のいのちは神の与えてくれる賜物(プレゼント)です。お金では決して手に入れることはできません。
神の愛は大きすぎて、私たちの愛ではときに嫉妬するかも知れません。人間関係ではよくなくても、神への嫉妬は、神への愛です。
ヨナは、自分の預言者の立場や、自分の信仰がありました。
しかし、私たちの、どんな自己実現も、神のご計画された神実現にまさるものではありません。
誰かのために、誰かを愛するなら、福音を紹介することにまさる愛はないと気付きます。
イエス様を愛して、イエス様と共に生きることは、自分にとって素晴らしいだけでなく、あなたの愛する大切な人にとっても素晴らしいことなのです。
ヨナ書2章1-10節より
2023年10月8日
<聖書>
ヨナは魚の腹の中から、彼の神、【主】に祈って、
言った。「私が苦しみの中から【主】にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
【主】は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
(ヨナ書2章1-10節)
<説教>
暴風と荒れる海‐そこに投げ込まれるのをヨナは恐れていました。
ヨナは潮の流れに囲まれ、大きな波がヨナを飲みこみ、水で窒息しそうになり、暗い海の中の不気味な裂け目の中に深く沈んでいきます。海藻がヨナに絡み付き、海底近くまで沈み、そこでがんじがらめになります。
ヨナは死を恐れます。死の苦しみを恐れます。
しかし、死の寸前でヨナは死の苦しみより恐ろしいことに気付きました。それは、神から離れて死んでしまうことでした。永遠に神の愛から離れてしまうことでした。
私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです』と。
(ヨナ書2:4)
人間は誰も必ず死にます。その時、家族も友も、愛する誰も一緒に死ぬことはできません。正確には死後のさばきを一緒に受けてくれる人は誰もいません。しかし、イエス様は、あなたが死ぬ時も共にいていくださいます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
(詩篇23:4)
ヨナは苦しみの中で神に祈ります。神は祈りに答えてくださいます。大きな魚がヨナを飲みこみ、魚の腹の中で守ってくださったのです。そこで、かつて神の御顔から離れようとしたヨナは、死の苦しみの中で、神の御顔を求めて、救い出されるのです。ヨナは死の直前で、まことの神を思い出して祈ったのです。
死の前で、信頼して祈れる神は、イエス・キリストだけです。この方にまことのいのちがあります。
イエス・キリストを信じる者は、決して滅びの死に入ることはありません。
それは、この魚の中にヨナが三日三晩いたことは、実は十字架で死んで葬られ、三日目によみがえられたイエス・キリストの救いを表わしているからです。
イエス様は次のように言われました。
しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
(マタイの福音書12:39-40)
イエス様は十字架で死なれて三日間、罪の刑罰の死の支配の中にとどまられました。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。
(使徒2:24)
この苦しみとは「陣痛」の意味です。救いとは、三位一体の父の神の愛と、子なるキリストの犠牲と従順によって生み出されるのです。いのちを生み出す営みなのです。苦しみにまさる喜びがそこにあるのです。
人間が造った神と呼ばれるもの(偶像)には、そのような愛も命も存在しません。神から離れる永遠の死の苦しみから人間を救うことはできません。
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
(ヨナ書2:8-9)