キリストの十字架の奥義
コリント人への手紙第一2章6-11節より
2022年11月13日
<聖書>
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
(コリント人への手紙 第一2章6-11節)
<説教>
神のみ言葉、神のご計画、神の御心は、生まれたままの人間にはわかりません。
キリストの福音(あなたの罪の身代わりに十字架で死なれたキリストを信じるなら救われる)は隠された奥義なのです。
イザヤ書の40-66章は聖書中、最も卓越したメッセージであると言えます。罪からの解放と新天新地の永遠の希望が語られています。その中の重要な箇所が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。
ここには、新約聖書の福音書以上に、苦難のしもべのキリストの十字架の受難が記されています。そして、またキリストの十字架の意味は誰もわからないと書かれています。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
【主】の御腕は、だれに現れたのか。」 (イザヤ書53:1)
【主】の御腕とは、神の力を表わしています。この神の力によって、人は神の言葉を信じることができるのです。神の啓示(神がご自身を明らかされる)によってのみ、人は回心して、罪を悔い改めて、救われるのです。
聖書によると人間の本質(あなたがあなたであること)は霊にあります。霊は魂をもち、体に住んでいるのです。
体(感覚)や魂(感情)でなく、霊で神を知るのです。霊によって神との交わりを持つのです。体はこの地上の一時的なものであり、やがて朽ちていきます。霊こそが癒され、養われることを覚えなければならないのです。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
(ヨハネ3:6)
キリストを信じるなら、霊的に新しく生まれ変わることができます(体の生まれ変わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側で何が起こったかわかりません。しかし、時が経つとはっきり現れてくるのです。
神を信じるとは神の言葉を信じることです。神の言葉を通して、内なる霊の人は罪からきよめられ、癒され、愛に生きる者へと変えられ続けます。イエス様を信じるなら、いつしか心が変えられていることに気付くでしょう。また言葉も優しく変えられるでしょう。きっと、表情や笑顔も。そして、自分のことを愛することができ、どんな小さなことも大切に愛おしく思え、人生はかけがえのない宝物とされます。イエス様はどんな時もあなたを愛されています。
あなたもイエス様を迎えいれて、この素晴らしい祝福を受け取ってください。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)
くりかえせない人生だから
輝く瞬間を逃さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば愛と呼べる家に住み
微笑みながら
自由という町を歩き
痛みと言う歩道に座り
優しさが弱さではなくて
仕えることに道を探し
むやみに言葉を並べず
愛することを学びながら
ゆるせる心育てながら
言葉遊びにならぬように
真実と呼ばれる小径をずっと
歩いて行きたい
それが願い
(「願い」岩渕まこと)
信仰により神と共に生きる
コリント人への手紙第一2章1-5節より
2022年11月6日
<聖書>
さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
(コリント人への手紙 第一2章1-5節)
<説教>
パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教しましたが、そこでは、ギリシャ哲学に対して、哲学的にイエスの救いを伝えようとしました。その結果、失敗し、弱さと恐れを覚えていました。パウロは、説得力のある知恵や知識によらず、まっすぐに十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに立ち返ったのです。
神さまが用意された福音(イエスの十字架を信じるなら救われる)が語られる時、聞く者に神さまが働かれて、人は救われます。
救われた者は、神に与えられた信仰によって生きていきます。信仰とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的に自分を神さまにお任せしていくことが必要です。自分の信念だけでは足りないのです。
聖書が言う罪とは、悪い行いや、邪悪な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質が罪深く汚れている状態を言います。また、この世は人を罪に誘惑する罪の力が働いています。
この罪の治療方法には人間の本質を造り変える力が必要です。その力は人間の内側にはなく、神の力によるのです。誘惑の力に立ち向かう神の助けが必要です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この神の力と助けが必要です。
バルーン(熱気球)は空高く、遠くまで人を運ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから垂れ下がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上から徐々に浮き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第に高く地上から5m、10mと上昇したら、もうあなたは怖くて、もう地上に戻ってくれ!と叫ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら下がった安全なカゴに乗るとしたら、高く舞い上がっても恐怖はないでしょう。あなたは人間の力では不可能な高さから地上の景色を楽しむことでしょう。
信仰もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、神の力を受けて、自分の力では到達できない人生を生きることができます。自我や自己中心、罪深い欲望が、キリストの十字架の愛と赦しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に変えられて生きるのです。永遠に残る価値ある悔いなき人生です。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙1章16-17節)
最も小さき者が、偉大な存在につながるなら
コリント人への手紙第一1章26-31節より
2022年10月23日
<聖書>
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
(コリント人への手紙 第一1章26-31節)
<説教>
神はこの世では価値のないような者を選んで、信仰を与えられます。イエスを信じた者は取税人や遊女のような罪人でした。天国で一番偉い者とは、幼い子どもだとイエスは言われました。
この世と天国では価値観はまったく違うのです。自分が無力で価値のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を低くして、弱い者を受け入れるへりくだった者です。
神は自分の価値を世の中にアピールする者ではなく、小さな弱き者を用いて、神の存在を現されるのです。
人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙の広さと比べるときでしょうか。愛する人を守れないときかも知れません。しかし人は罪深い自分の姿を見たとき、自分の小ささを知ります。無に等しいような自分に絶望します。罪とは神から離れて自分を損ない失っている状態のことです。神の前にすべての人は罪人です。神の前に自分の小ささを知る者は幸いです。
神に造られた人間は有限である被造物です。有限ですから、不完全で誤りがあり、誘惑に弱く、失敗もします。しかし聖書は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと教えてくれます。それを隠したり、諦めたり、無理に大きく見せようとしないでいいのです。
自分の罪深さ、汚れ、弱さを認めていいのです。自分には何の価値もなくていいのです。人間はそれを認められず、また恐ろしくもありましょう。それは決して人生の敗北ではないのです。かえって勝利の人生のスタートです。
誰よりも、自分を小さく、貧しく、むなしくしてくださった方がおられます。神のイエス・キリストです。
最も偉大な存在である神はすべての所有者で、宇宙と世界と歴史と命を支配しておられます。そのすべてに豊かな神が、もっとも小さい者の姿になられたのです。神であるキリストが人間の罪のために人となって十字架で死んでくださいました。あなたの罪の身代わりの犠牲となられました。あなたに愛を示してくださいました。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 (ピリ2:6-8)
あなたは、取るに足りないさき者です。しかし大切なことは最も偉大な神につながることが出来るということです。自分の罪を神の前に正直に言い表すならすべての罪は赦されます。このとき、小さい人間が偉大な神とひとつとされる人の理解を超える奇跡が起こります。そのとき無に等しい者が、永遠に価値ある者に変えられます。
これからは罪に背を向け、神に向いて生きるのです。イエス・キリストを通して、神さまの大きな愛と恵みを受けて、いつもあなたは、しっかりと存在して、自分の価値を喜んで生きるのです。
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
(詩篇8:3-5)
かつて、天の無数の星を見上げては
私は誰にも知られることのない
いてもいなくてもよい小さい存在だと
言い聞かせていた。
しかし今は、小さい無のような私を
完全に知ってくださる方がいることを信じている。
私の存在を覚えて、愛して下さるお方を。
それは星を造られ、私を造られたお方。
十字架で私のために死なれたキリスト。
(作者不詳)
十字架は神の愛と命のメッセージ
コリント人への手紙第一1章18-25節より
2022年10月16日
<聖書>
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
(コリント人への手紙第一1章18-25節)
<説教>
十字架刑とは、裸で手首と足首を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛と出血多量と呼吸困難の末に心臓破裂で死に至ります。その期間は数日から一週間以上と言われます。人々の前で辱められ、人間の尊厳を奪われる残酷な死刑の方法です。
イエスは神を名のった刑罰で、むち打たれ、十字架刑により処刑されました。救い主キリストを待ち望んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨で弱々しい死に方をしたイエスが神の救い主キリストであるとは絶対に信じられませんでした。
ギリシャ人にとっても神とは人間とはかけ離れた崇高な存在でした。人間としてこの世に来られ、よりによって汚らわしい十字架と関わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生したことも死んで三日後の復活も愚かな話でした。
今もキリストの十字架の話を聞くと、いやな思いを持つ人がいます。暗い不吉な話に思うかも知れません。あなたの罪やけがれの身代わりにキリストは十字架で死なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。
人間の罪とはとんでもなく邪悪な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では決して罪の現実から救い出されない姿を言っているのです。
人は自分の知恵によって神のことはわかりません。それが神の知恵だと聖書は言います。そうです。キリストの十字架を信じるなら罪深い生き方から救われるということは人間の努力では決してわからないのです。
十字架は人間の罪の赦しをあらわすにふさわしいシンボルです。
十字架はあなたの罪を表わしています。同時に十字架はあなたの罪の赦しをあらわしています。
また十字架はあなたの罪の刑罰をあらわしており、同時にその刑罰を身代わりに受けてくださる神の愛をあらわすのです。
キリストの十字架によってしかあなたの罪は赦されません。神に対して犯した人間の罪はそれほど重いものなのです。罪のない聖いキリストの命だけが人間の罪の身代わりとなることができるのです。
このことをただ信じて受け取るなら、あなたは救われます。それ以外の方法はどこにもないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
そしてどうしてありえようか、私が
救い主の血潮の益を得るということが?
主の苦痛を引き起こした私のために死なれたのか
主を死に至るまで悩ました私のために?
驚くべき愛!どうしてありえようか
わが神よ、なんじがわがために死にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)
福音は信じる者に優しく働く
コリント人への手紙第一1章10-17節より
2022年10月9日
<聖書>
さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
(コリント人への手紙第一1章10-17節)
<説教>
使徒パウロは福音を世界に伝える者として神様に召されました。福音は人種、社会、経済、教育の壁を越えます。
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)
福音とは、イエス・キリストの十字架の死が、あなたの罪の刑罰の身代わりであると信じるなら罪が赦されて神の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。
この世界にはまことの希望はありません。しかし教会には唯一の救いの道、まことの希望の福音があります。これは世にはないキリストの教会だけがもっている希望です。
キリストが生まれる500年も前の黄金時代のギリシャの哲学者は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと説きました。もうずっと昔に神は死んだと言われて、それを人々は信じています。神を捨て去り、すべての善も真理も人間にあるという思想はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然生まれたと唱える進化論はすべての存在には意味も目的も価値もない、すべてはむなしいという絶望の虚無の人生に追い込みます。
ジャンクフード(冷凍食品、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価はあまりありません。これを食べ続けると体を害し、精神や心の成長にも悪い影響が出ると言われています。
この世の哲学、思想はとても難しく、喜びも希望もがなく、たんに頭の知識、理論であり、霊的に成長することはできません。
しかし、福音~イエス・キリストの十字架の救いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望を与えるよい知らせです。子どもでも理解して信じて救われるのです。国も年齢も習慣も関係なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇にある人にも、求める人の心に福音は届きます。誰であっても信じるなら救われます。
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、 (Ⅰコリント15:1-4)
これが聖書にある福音です。福音は、知識や理論でなく、実際にあなたに関わるよい知らせです。それを信じた者には希望と平安が現実のものとなります。キリストはあなたの罪のために十字架で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(初穂)としてキリストは三日目によみがえられました。死後にすべての人は神のさばきを受けますが、あなたが、この福音にどう答えて生きたかによって神の子どもとされるか、そうでないかが決定します。
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)
自分の言葉や行いのいかなることも、福音をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学であり思想でした。キリストを信じた者はこの福音をそのように宝のように愛する者です。あなたもイエス様の福音を信じてみませんか。
シジフォスは死んで黄泉に行った。ところが地上に戻されたのであった。黄泉に呼び返されたとき、彼は帰ることを拒んだ。人生の快楽を満喫したからである。罰として彼は連れ戻され、丘のいただきまで大きな岩を押し上げる刑を宣告された。しかし岩をそこまで押し上げると、転げ落ちてしまう。彼はふもとまで苦労して降りていき、もう一度岩を押し上げるが、再び転げ落ちるだけであった。 『シジフォスの神話』アルベール・カミュ
シジフォスはこの工程を果てしなく繰り返すように運命づけられた。
彼の努力は、意味ある結果をまったく生み出さない。
存在するものに意味も目的も価値もないという実存主義、虚無主義、神は死んだ思想を代表する文学の一つ。
わたしの行く手は平安だ。 死へのあらゆる働きかけに対しても、ひそかなる守護がなされている。 すべての安定性が失われても、なお平安だ。たおされても平安だ。 たとえ、このあわれな肢体が滅んでも、なおまさって平安だ。 『平安』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇の恐ろしい雲海に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは神の灯を胸に抱く。
その輝きは早晩、暗闇を貫く。
わたしはいつしか脱出する。
『パラサルサス』ブラウニング
イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。
キリストとの関係が、あなたを最後の日から守る
コリント人への手紙第一1章4-9節より
2022年10月2日
<聖書>
私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
(コリント人への手紙第一1章4-9節)
<説教>
キリストを信じて救われた者は、神の計画によって召されて(選ばれて呼び出されて)応答した者です。救いは聖霊の働きによって始まります。聖霊によってまず初めに、自分の罪を認め、キリストの十字架の救いがわかります。そして聖霊により、罪の悔い改めに導かれて、信仰が与えられます。
この瞬間に、義と認められ(罪の刑罰の放免)、神との和解が与えられ、神の子とされます。この救いの根底にあるのは、信じた者がキリストとひとつにされることです(キリストとの結合)。キリストがあなたの中に生きて働き、またあなたもキリストの中に入り、霊的、生命的な命を共にします。別々の人間だった夫婦が肉体的にも精神的にもひとつされ、時間をかけて理解し合い、理想も一つとされるように、信者はキリストとすべての営み(喜び、苦しみ、十字架、復活)を共有していきます。
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
(Ⅰコリント12:13)
キリスト者は聖霊により賜物(神に仕えるために与えられる能力)が与えられ、キリストの体である教会につながり、互いに仕えて、教会を建て上げ、聖霊のみわざにより、キリストに似た者に変えられていきます(聖化・きよめ)。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(Ⅰコリ12:25-27)
一度、キリストを信じて救われた者の救いは決して失われることはありません。信じた瞬間に神の子とされた身分と立場は永遠に変わることがなく、聖霊により、そのような者としてふさわしい生き方に生涯かけて変えられ続けます。
外面や表面でなく、すべてがキリストの似姿に作り変えられていくのです。キリスト者は見える現実はどうであっても、見えない希望の約束を聖書により信じるのです。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
(ピリピ1:6)
そして、地上生活が終わる死の後、神の臨在の中に入るときに、神の計画に始まった救いは、完全に完成します。あなたは完全に神の子となり、子が受ける財産を相続します。その素晴らしさは今は、ぼんやりとしかわかりませんが、やがて完全に知ることができます。神によって始まった救いのご計画は必ず完成します。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ3:21-22)
あなたにあって完全! 私のわざではなく。
親愛なる主よ、あなたの場所をお取りくださるように。
あなたの血潮が私に赦しをもたらしました。
そして今やあなたにあって完全な者です。
そうです、義とされている!祝福された思想よ!
そして聖化されている!救いがなされた!
あなたの血潮が私に赦しをもたらしました、
そして栄化される、私も!
(ジェイムズ・M・グレイ)
神の教会、召された聖徒
コリント人への手紙第一1章1-3節より
2022年9月25日
<聖書>
神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
(コリント人への手紙第一1章1-3節)
<説教>
コリントは大都市マケドニアとアテネの間にあり、エーゲ海とアドリヤ海を結ぶ貿易の要衝の地でもあり経済、文化がいちじるしく発達しました。いろんな人種の人が行き交い、宗教が多くあふれていました。その中でも、女神アフロディトを祭るアクロ・コリントの山頂の神殿には1千人の巫女が宮に仕えていましたが、彼女らは夜になると売春婦として町に下るのでした。コリントの町は経済的発展と宗教的混乱と不道徳のつるぼでした。その当時、コリント人というと「堕落した汚れた者」を意味しました。コリント人のようにふるまうとは、「みだらな行為を行うこと」を意味しました。
そのような中でパウロが精力的に伝道した結果、コリント教会が建て上げられました。彼らはたかぶり、敵対して分派をつくったり、不品行、みだらな行為が教会内にも見られました。
しかし、パウロはコリント教会を神の教会と呼びます。教会は神によって召し出された者の集まりです。コリントの教会がいかに不完全でどうしようもない者の集まりであっても、イエス・キリストの十字架のあがないによって、洗われ、きよめられ、神の義が与えられた者なのです。イエス・キリストを信じて生きるにふさわしい者へとキリストの復活の命が働くのです。
キリストは十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。十字架はもっともひどい罪を犯した罪人に課せられた刑罰です。あなたの罪がどれだけひどくても、その罪のためにキリストは十字架で死んでくださいました。
クリスチャンとは罪の中から神によって呼び出され、それに応答して、イエス・キリストを罪からの救い主と信じた者です。世の罪の現実から、選ばれて分離された者です。現実の姿はまだ未完成ですが、信じる者に働く聖霊により、日々、御子イエス・キリストに似た者に変えられ続けています。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」
(ローマ人への手紙8章28-29節)
失格者
コリント人への手紙第一10章8-13節より
2022年9月18日
<聖書>
また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
(コリント人への手紙第一10章8-13節)
<説教>
パウロを通して、神さまが世の終わりに生きる私達への教訓が語られています。それは神の歴史の中で実際に起こった出来事です。
①姦淫(結婚以外のみだらな性行為)② 神を疑う事③ 神に不平不満を言う事
これはパウロが福音を宣べ伝えていながら、自分自身が失格者にならないために自分を打ちたたいて従わせていることです。
エジプトから救い出されたイスラエルはシティムの娘たちと、みだらな行為を行い、異国の神にいけにえを捧げ、拝むようになります。この手紙が書き送られたコリントの町(教会)は偶像礼拝はと不品行(結婚以外の性行為)が密接に関係していました。今の時代は、誰にでも性的な誘惑があります。神を認めないなら、簡単に罪意識さえ持たずに、性的な堕落に陥ります。性の問題は、道徳や倫理、安全衛生の問題ではなく信仰、宗教の問題なのです。
神の奇蹟により、紅海を渡ったイスラエルの民は、三日後に水が飲めず渇いて神を疑いつぶやきます。奇跡も肉の弱さに勝てません。
「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
ヤコブの手紙1:6-8
神を信じても人間は信仰と不信仰の間を行ったり来たりしています。自分も神も信じ切れない人間の弱さがあります。しかし、そのことさえも信仰の道の途中にある証拠です。信仰は知識だけではありません。「少しも疑わずに、信じて願う」ことを実践して行うことです。
神は人間を祝福されようとしています。その神の恵みを受けないなら、人は不平不満をつぶやきます。しかし、神の恵みを体験せずに、一生つぶやき続けてはいけないのです。
試練とは誘惑の意味でもあります。試練はそれを通して、信仰が成長して、さらに神に信頼して頼るようにしてくださいます。しかし誘惑は、神を疑い、自分の方法でその問題を解決させようとします。自分の力を誇り神からは離れさせます。
人間が弱く愚かな存在であるという自覚は大切です。神はそんな弱い私たちに同情してくださいます。あなたの試練がどのようなものでも、それは決してあなただけの特別な試練ではありません。その試練の苦しみによって自分は特別でおかしいのかも知れないと思わないでいいのです。誰かも同じ試練にあり、罪以外の試みはイエス様も体験されたのです。その試練は無意味ではなく、いつまでも続きません。神自身が脱出の道です。イエス様が神であり、このお方を信じる者は、最大の試練の死から勝利します。イエス様がよみがえられた命があなたにも働かれます。いかなる試練も神の愛からあなたを引き離すものはありません。
しかし、あなたは試練、誘惑に負けそうになるかもしれません。もう負けていると感じるかも知れません。けれども、そんな中にあってイエス様はあなたを愛されています。あなたに力を与え守ってくださいます。罪を悔い改めるように導いて下さいます。信仰の結果である自制を与えてくださいます。
「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」
Ⅰペテロの手紙1:5-7
福音があなたの人生を変える
ローマ人への手紙1章1-4節より
2022年9月11日
<聖書>
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
(ローマ人への手紙1章1-4節)
<説教>
使徒パウロは、ローマの領土であったキリキア州のタルソ(今のトルコあたり)でユダヤ人として生まれ、ギリシャ文化の影響を受け、教養と才能に恵まれました。彼は、ユダヤ教の中でも厳格な律法学者、宗教家として生きようと志します。やがて彼は、ユダヤ教から生まれたキリスト教の教えに激しく反対して、彼らを迫害しました。
けれども、神さまはパウロの人生に別のご計画をお持ちでした。それは、パウロがイエス・キリストを信じて、キリスト教を広く世界に宣べ伝えることでした。それは彼がぜったいに思いもしなかった人生です。
神さまは、イエス様を信じる前のパウロの人生を大いに用いられます。パウロは異国文化から広い国際感覚を養い、豊かな自然の中でギリシャ語や豊かな教養を身につけます。それらは後の世界宣教への必要な備えでした。
パウロの人生を変えたのは、キリスト教が伝えている最も大切なこと、福音です。福音とはキリストの十字架のあがない(もともとは奴隷が身代金を払って自由の身分に買い戻される意味)を信じるなら、罪の刑罰を赦されて、キリストに似た者に日々新しく変えられ、天国に入る者として希望が与えられることです。
その福音の中心はイエス・キリストです。キリストは聖書の預言のとおりに、ダビデの子孫として、2000年前にクリスマスに聖霊によってマリアから人間として生まれました。その目的は、十字架で死に、すべての人の罪の刑罰の身代わりとなることです。しかし、神の全能の力により、三日目によみがえられて、罪と死を解決された今も生きておられるまことの神さまです。
キリストを信じる者は、思いもしなかった人生に変えられます。寺の住職がキリスト教の牧師に、暴力団組員が愛を説く者に、死刑囚が他の受刑者にキリストの愛を伝える者に、大病や大けがをした人が絶望の中から、人々に希望を与える者に…数え上げたらいつまでも終わりません。
それは神さまが、準備していた思いもしない人生です。それを可能にするのは、あなたの内面(罪の性質)が変えられることから始まります。神さまはあなたの個性や特徴、才能などを豊かに用いて、さらに喜びと希望を与える人生に導こうと今日もあなたを招いておられます。