キリストの十字架の奥義

コリント人への手紙第一2章6-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月13日

<聖書>

しかし私たちは、成人(せいじん)(あいだ)で、知恵(ちえ)を語ります。この知恵(ちえ)は、この()知恵(ちえ)でもなく、この()()()って行く支配者(しはいしゃ)たちの知恵(ちえ)でもありません。私たちの(かた)るのは、(かく)された奥義(おくぎ)としての(かみ)知恵(ちえ)であって、それは、(かみ)が、私たちの栄光(えいこう)のために、世界(せかい)(はじ)まる前から、あらかじめ(さだ)められたものです。この知恵(ちえ)を、この()支配者(しはいしゃ)たちは、だれひとりとして(さと)りませんでした。もし(さと)っていたら、栄光(えいこう)(しゅ)十字架(じゅうじか)につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書(せいしょ)に書いてあるとおりです。「()()たことのないもの、(みみ)()いたことのないもの、そして、人の(こころ)(おも)()かんだことのないもの。(かみ)(あい)する(もの)のために、(かみ)(そな)えてくださったものは、みなそうである。」(かみ)はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示(けいじ)されたのです。御霊(みたま)はすべてのことを探り、(かみ)(ふか)みにまで(およ)ばれるからです。いったい、人の(こころ)のことは、その人のうちにある(れい)のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、(かみ)のみこころのことは、(かみ)御霊(みたま)のほかにはだれも知りません。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章6-11節)

<説教>

(かみ)のみ言葉(ことば)(かみ)のご計画(けいかく)(かみ)御心(みこころ)は、生まれたままの人間にはわかりません。

キリストの福音(ふくいん)(あなたの(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)()なれたキリストを(しん)じるなら(すく)われる)は(かく)された奥義(おくぎ)なのです。

イザヤ書の40-66章は聖書中(せいしょちゅう)(もっと)卓越(たくえつ)したメッセージであると言えます。(つみ)からの解放(かいほう)新天(しんてん)新地(しんち)永遠(えいえん)希望(きぼう)(かた)られています。その中の重要(じゅうよう)箇所(かしょ)が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。

ここには、新約(しんやく)聖書(せいしょ)福音書(ふくいんしょ)以上(いじょう)に、苦難(くなん)のしもべのキリストの十字架(じゅうじか)受難(じゅなん)(しる)されています。そして、またキリストの十字架(じゅうじか)意味(いみ)は誰もわからないと書かれています。

「私たちの()いたことを、だれが(しん)じたか。

(しゅ)】の御腕(みうで)は、だれに(あらわ)れたのか。」  (イザヤ書53:1)

(しゅ)】の御腕(みうで)とは、(かみ)の力を(あら)わしています。この(かみ)の力によって、人は(かみ)言葉(ことば)(しん)じることができるのです。(かみ)啓示(けいじ)(かみ)がご自身(じしん)(あき)らかされる)によってのみ、人は回心(かいしん)して、(つみ)()(あらた)めて、(すく)われるのです。

聖書(せいしょ)によると人間の本質(ほんしつ)(あなたがあなたであること)は(れい)にあります。(れい)(たましい)をもち、(からだ)()んでいるのです。

(からだ)感覚(かんかく))や(たましい)感情(かんじょう))でなく、(れい)(かみ)()るのです。(れい)によって(かみ)との(まじ)わりを持つのです。(からだ)はこの地上(ちじょう)一時的(いちじてき)なものであり、やがて()ちていきます。(れい)こそが(いや)され、(やしな)われることを(おぼ)えなければならないのです。

(にく)によって()まれた者は(にく)です。御霊(みたま)によって()まれた(もの)(れい)です。」

(ヨハネ3:6

キリストを(しん)じるなら、霊的(れいてき)(あたら)しく()まれ()わることができます((からだ)()まれ()わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側(うちがわ)(なに)()こったかわかりません。しかし、(とき)()つとはっきり(あらわ)れてくるのです。

(かみ)(しん)じるとは(かみ)言葉(ことば)(しん)じることです。(かみ)言葉(ことば)(とお)して、(うち)なる(れい)の人は(つみ)からきよめられ、(いや)され、(あい)に生きる者へと()えられ(つづ)けます。イエス様を(しん)じるなら、いつしか(こころ)()えられていることに気付(きづ)くでしょう。また言葉(ことば)(やさ)しく()えられるでしょう。きっと、表情(ひょうじょう)笑顔(えがお)も。そして、自分のことを(あい)することができ、どんな小さなことも大切(たいせつ)(いと)おしく思え、人生(じんせい)はかけがえのない宝物(たからもの)とされます。イエス様はどんな時もあなたを(あい)されています。

あなたもイエス様を(むか)えいれて、この素晴(すば)らしい祝福(しゅくふく)()()ってください。

(かみ)は、(じつ)に、そのひとり()をお(あた)えになったほどに、()(あい)された。それは御子(みこ)(しん)じる(しゃ)が、ひとりとして(ほろ)びることなく、永遠(えいえん)のいのちを()つためである。」

(ヨハネ3:16)

くりかえせない人生(じんせい)だから
(かがや)瞬間(とき)(のが)さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば(あい)()べる(いえ)に住み
微笑(ほほえ)みながら
自由(じゆう)という(まち)(ある)
(いた)みと言う歩道(ほどう)(すわ)
(やさ)しさが(よわ)さではなくて
(つか)えることに(みち)(さが)
むやみに言葉(ことば)(なら)べず
(あい)することを(まな)びながら
ゆるせる(こころ)(そだ)てながら
言葉(ことば)(あそ)びにならぬように
真実(しんじつ)()ばれる小径(こみち)をずっと
(ある)いて()きたい
それが(ねが)
(「(ねが)い」岩渕(いわぶち)まこと)

信仰により神と共に生きる

コリント人への手紙第一2章1-5節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月6日

<聖書>

さて兄弟(きょうだい)たち。(わたし)があなたがたのところへ()ったとき、(わたし)は、すぐれたことば、すぐれた知恵(ちえ)(もち)いて、(かみ)のあかしを()(つた)えることはしませんでした。なぜなら(わたし)は、あなたがたの(あいだ)で、イエス・キリスト、すなわち十字架(じゅうじか)につけられた(かた)のほかは、(なに)()らないことに決心(けっしん)したからです。あなたがたといっしょにいたときの(わたし)は、(よわ)く、(おそ)れおののいていました。そして、(わたし)のことばと(わたし)宣教(せんきょう)とは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)のことばによって(おこな)われたものではなく、御霊(みたま)御力(みちから)(あらわ)れでした。それは、あなたがたの()信仰(しんこう)が、人間(にんげん)知恵(ちえ)にささえられず、(かみ)(ちから)にささえられるためでした。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章1-5節)

<説教>

パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教(せんきょう)しましたが、そこでは、ギリシャ哲学(てつがく)に対して、哲学(てつがく)(てき)にイエスの(すく)いを(つた)えようとしました。その結果(けっか)失敗(しっぱい)し、(よわ)さと(おそ)れを(おぼ)えていました。パウロは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)知識(ちしき)によらず、まっすぐに十字架(じゅうじか)につけられたキリストを()(つた)えることに立ち返ったのです。

(かみ)さまが用意(ようい)された福音(ふくいん)(イエスの十字架(じゅうじか)を信じるなら(すく)われる)が語られる時、聞く者に(かみ)さまが(はたら)かれて、人は(すく)われます。

(すく)われた者は、(かみ)に与えられた信仰(しんこう)によって生きていきます。信仰(しんこう)とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的(せっきょくてき)に自分を(かみ)さまにお(まか)せしていくことが必要(ひつよう)です。自分の信念(しんねん)だけでは()りないのです。

聖書(せいしょ)が言う(つみ)とは、(わる)い行いや、邪悪(じゃあく)な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質(ほんしつ)(つみ)(ぶか)(けが)れている状態(じょうたい)を言います。また、この()は人を(つみ)誘惑(ゆうわく)する(つみ)の力が(はたら)いています。

この(つみ)治療(ちりょう)方法(ほうほう)には人間の本質(ほんしつ)(つく)()える力が必要(ひつよう)です。その力は人間の内側(うちがわ)にはなく、(かみ)の力によるのです。誘惑(ゆうわく)の力に()()かう(かみ)(だす)けが必要(ひつよう)です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この(かみ)の力と(だす)けが必要(ひつよう)です。

バルーン(熱気球(ねつききゅう))は空高く、(とお)くまで人を(はこ)ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから()()がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上(ちじょう)から徐々(じょじょ)()き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第(しだい)に高く地上(ちじょう)から5m、10mと上昇(じょうしょう)したら、もうあなたは(こわ)くて、もう地上(ちじょう)(もど)ってくれ!と(さけ)ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら()がった安全(あんぜん)なカゴに()るとしたら、高く()い上がっても恐怖(きょうふ)はないでしょう。あなたは人間の力では不可能(ふかのう)な高さから地上(ちじょう)景色(けしき)を楽しむことでしょう。

信仰(しんこう)もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、(かみ)の力を()けて、自分の力では到達(とうたつ)できない人生を生きることができます。自我(じが)自己(じこ)中心(ちゅうしん)罪深(つみぶか)欲望(よくぼう)が、キリストの十字架(じゅうじか)(あい)(ゆる)しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に()えられて生きるのです。永遠(えいえん)(のこ)価値(かち)ある()いなき人生です。

「私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを()させる(かみ)の力です。なぜなら、福音(ふくいん)のうちには(かみ)()(けい)()されていて、その()は、信仰(しんこう)(はじ)まり信仰(しんこう)(すす)ませるからです。『義人(ぎじん)信仰(しんこう)によって()きる』と()いてあるとおりです。」

(ローマ人への手紙1章16-17節)

最も小さき者が、偉大な存在につながるなら

コリント人への手紙第一1章26-31節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月23日

<聖書>

兄弟(きょうだい)たち、あなたがたの()しのことを考えてごらんなさい。この()知者(ちしゃ)は多くはなく、権力者(けんりょくしゃ)も多くはなく、身分(みぶん)の高い者も多くはありません。しかし(かみ)は、知恵(ちえ)ある者をはずかしめるために、この()(おろ)かな者を(えら)び、(つよ)い者をはずかしめるために、この()(よわ)い者を(えら)ばれたのです。また、この()()るに()りない者や見下(みくだ)されている者を、(かみ)(えら)ばれました。すなわち、()るものをない者のようにするため、()(ひと)しいものを(えら)ばれたのです。これは、(かみ)御前(みまえ)でだれをも(ほこ)らせないためです。しかしあなたがたは、(かみ)によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、(かみ)知恵(ちえ)となり、また、()(きよ)めと、(あがな)いとになられました。まさしく、「(ほこ)る者は(しゅ)(ほこ)れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)1章26-31節)

<説教>

(かみ)はこの()では価値(かち)のないような者を(えら)んで、信仰(しんこう)(あた)えられます。イエスを(しん)じた者は(しゅ)税人(ぜいにん)遊女(ゆうじょ)のような罪人(つみびと)でした。天国で一番(えら)い者とは、(おさな)い子どもだとイエスは言われました。

この()と天国では価値観(かちかん)はまったく(ちが)うのです。自分が無力(むりょく)価値(かち)のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を(ひく)くして、(よわ)い者を()け入れるへりくだった者です。

(かみ)は自分の価値(かち)()の中にアピールする者ではなく、小さな(よわ)き者を用いて、(かみ)存在(そんざい)(あらわ)されるのです。

人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙(うちゅう)(ひろ)さと(くら)べるときでしょうか。(あい)する人を(まも)れないときかも知れません。しかし人は罪深(つみぶか)い自分の姿(すがた)を見たとき、自分の小ささを知ります。()(ひと)しいような自分に絶望(ぜつぼう)します。(つみ)とは(かみ)から(はな)れて自分を(そこ)ない(うしな)っている状態(じょうたい)のことです。(かみ)の前にすべての人は罪人(つみびと)です。(かみ)の前に自分の小ささを()る者は(さいわ)いです。

(かみ)(つく)られた人間は有限(ゆうげん)である被造物(ひぞうぶつ)です。有限(ゆうげん)ですから、不完全(ふかんぜん)(あやま)りがあり、誘惑(ゆうわく)(よわ)く、失敗(しっぱい)もします。しかし聖書(せいしょ)は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと(おし)えてくれます。それを(かく)したり、(あきら)めたり、無理(むり)に大きく見せようとしないでいいのです。

自分の罪深(つみぶか)さ、(けが)れ、(よわ)さを(みと)めていいのです。自分には何の価値(かち)もなくていいのです。人間はそれを(みと)められず、また(おそ)ろしくもありましょう。それは(けっ)して人生(じんせい)敗北(はいぼく)ではないのです。かえって勝利(しょうり)人生(じんせい)のスタートです。

(だれ)よりも、自分を小さく、(まず)しく、むなしくしてくださった方がおられます。(かみ)のイエス・キリストです。

(もっと)偉大(いだい)存在(そんざい)である(かみ)はすべての所有者(しょゆうしゃ)で、宇宙(うちゅう)世界(せかい)歴史(れきし)(いのち)支配(しはい)しておられます。そのすべてに(ゆた)かな(かみ)が、もっとも小さい者の姿(すがた)になられたのです。(かみ)であるキリストが人間の(つみ)のために人となって十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。あなたの(つみ)身代(みが)わりの犠牲(ぎせい)となられました。あなたに(あい)(しめ)してくださいました。

キリストは(かみ)御姿(みすがた)である(かた)なのに、(かみ)のあり(かた)()てられないとは(かんが)えず、ご自分(じぶん)()にして、(つか)える(しゃ)姿(すがた)をとり、人間と(おな)じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって(あらわ)れ、自分(じぶん)(いや)しくし、()にまで(したが)い、(じつ)十字架(じゅうじか)()にまでも(したが)われました。          (ピリ2:6-8)

あなたは、()るに()りないさき者です。しかし大切(たいせつ)なことは(もっと)偉大(いだい)(かみ)につながることが出来(でき)るということです。自分の(つみ)(かみ)の前に正直(しょうじき)()(あらわ)すならすべての(つみ)(ゆる)されます。このとき、小さい人間が偉大(いだい)(かみ)とひとつとされる人の理解(りかい)()える奇跡(きせき)()こります。そのとき()(ひと)しい者が、永遠(えいえん)価値(かち)ある者に()えられます。

これからは(つみ)()()け、(かみ)()いて生きるのです。イエス・キリストを通して、(かみ)さまの大きな(あい)(めぐ)みを()けて、いつもあなたは、しっかりと存在(そんざい)して、自分の価値(かち)(よろこ)んで生きるのです。

あなたの(ゆび)のわざである(てん)()、あなたが(ととの)えられた(つき)(ほし)()ますのに、人とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを(こころ)()められるとは。(ひと)()とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを(かえり)みられるとは。あなたは、(ひと)を、(かみ)よりいくらか(おと)るものとし、これに栄光(えいこう)(ほま)れの(かんむり)をかぶらせました。

詩篇(しへん)8:3-5)

かつて、(てん)無数(むすう)(ほし)見上(みあ)げては
(わたし)(だれ)にも()られることのない
いてもいなくてもよい(ちい)さい存在(そんざい)だと
()()かせていた。
しかし(いま)は、(ちい)さい()のような(わたし)
完全(かんぜん)()ってくださる(かた)がいることを(しん)じている。
(わたし)存在(そんざい)(おぼ)えて、(あい)して(くだ)さるお(かた)を。
それは(ほし)(つく)られ、私を(つく)られたお(かた)
十字架(じゅうじか)(わたし)のために()なれたキリスト。
(作者不詳)

十字架は神の愛と命のメッセージ

コリント人への手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月16日

<聖書>

十字架(じゅうじか)のことばは、(ほろ)びに(いた)る人々には(おろ)かであっても、(すく)いを()ける私たちには、(かみ)の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵(ちえ)ある者の知恵(ちえ)(ほろ)ぼし、(かしこ)い者の(かしこ)さをむなしくする。」知者(ちしゃ)はどこにいるのですか。学者(がくしゃ)はどこにいるのですか。この()議論家(ぎろんいえ)はどこにいるのですか。(かみ)は、この()知恵(ちえ)(おろ)かなものにされたではありませんか。事実、この()が自分の知恵(ちえ)によって(かみ)を知ることがないのは、(かみ)知恵(ちえ)によるのです。それゆえ、(かみ)はみこころによって、宣教(せんきょう)のことばの(おろ)かさを(とお)して、(しん)じる者を(すく)おうと(さだ)められたのです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)追求(ついきゅう)します。しかし、私たちは十字架(じゅうじか)につけられたキリストを()(つた)えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(いほうじん)にとっては(おろ)かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、()された者にとっては、キリストは(かみ)の力、(かみ)知恵(ちえ)なのです。なぜなら、(かみ)(おろ)かさは人よりも(かしこ)く、(かみ)(よわ)さは人よりも(つよ)いからです。

(コリント人への手紙第一1章18-25節)

<説教>

十字架(じゅうじか)(けい)とは、(はだか)手首(てくび)足首(あしくび)を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛(げきつう)出血(しゅっけつ)多量(たりょう)呼吸(こきゅう)困難(こんなん)(すえ)心臓(しんぞう)破裂(はれつ)()(いた)ります。その期間(きかん)数日(すうじつ)から一週間(いっしゅうかん)以上(いじょう)と言われます。人々の前で(はずかし)められ、人間の尊厳(そんげん)(うば)われる残酷(ざんこく)死刑(しけい)方法(ほうほう)です。

イエスは(かみ)を名のった刑罰(けいばつ)で、むち打たれ、十字架(じゅうじか)(けい)により処刑(しょけい)されました。(すく)(ぬし)キリストを()(のぞ)んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨(ひさん)弱々(よわよわ)しい()に方をしたイエスが(かみ)(すく)(ぬし)キリストであるとは絶対(ぜったい)(しん)じられませんでした。

ギリシャ人にとっても(かみ)とは人間とはかけ(はな)れた崇高(すうこう)存在(そんざい)でした。人間としてこの()に来られ、よりによって(けが)らわしい十字架(じゅうじか)(かか)わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生(たんじょう)したことも()んで三日後の復活(ふっかつ)(おろ)かな話でした。

今もキリストの十字架(じゅうじか)の話を聞くと、いやな思いを()つ人がいます。(くら)不吉(ふきつ)な話に思うかも()れません。あなたの(つみ)やけがれの身代(みが)わりにキリストは十字架(じゅうじか)()なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。

人間の(つみ)とはとんでもなく邪悪(じゃあく)な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では(けっ)して(つみ)現実(げんじつ)から(すく)い出されない姿(すがた)を言っているのです。

人は自分の知恵(ちえ)によって(かみ)のことはわかりません。それが(かみ)知恵(ちえ)だと聖書(せいしょ)は言います。そうです。キリストの十字架(じゅうじか)(しん)じるなら(つみ)(ぶか)い生き方から(すく)われるということは人間の努力(どりょく)では(けっ)してわからないのです。

十字架(じゅうじか)は人間の(つみ)(ゆる)しをあらわすにふさわしいシンボルです。

十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)(あら)わしています。同時(どうじ)十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)(ゆる)しをあらわしています。

また十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)刑罰(けいばつ)をあらわしており、同時(どうじ)にその刑罰(けいばつ)身代(みが)わりに()けてくださる(かみ)(あい)をあらわすのです。

キリストの十字架(じゅうじか)によってしかあなたの(つみ)(ゆる)されません。(かみ)に対して(おか)した人間の(つみ)はそれほど(おも)いものなのです。(つみ)のない(きよ)いキリストの(いのち)だけが人間の(つみ)身代(みが)わりとなることができるのです。

このことをただ(しん)じて()()るなら、あなたは(すく)われます。それ以外(いがい)方法(ほうほう)はどこにもないのです。

十字架(じゅうじか)のことばは、(ほろ)びに(いた)人々(ひとびと)には(おろ)かであっても、
(すく)いを()ける(わたし)たちには、(かみ)の力です。(Ⅰコリント1:18)

そしてどうしてありえようか、(わたし)
(すく)(ぬし)血潮(ちしお)(えき)()るということが?
(しゅ)苦痛(くつう)()()こした(わたし)のために()なれたのか
(しゅ)()(いた)るまで(なや)ました(わたし)のために?
(おどろ)くべき(あい)!どうしてありえようか
わが(かみ)よ、なんじがわがために()にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)

福音は信じる者に優しく働く

コリント人への手紙第一1章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月9日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たち。私は、私たちの(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)によって、あなたがたにお(ねが)いします。どうか、みなが一致(いっち)して、仲間割(なかまわ)れすることなく、同じ心、同じ判断(はんだん)完全(かんぜん)(たも)ってください。(じつ)はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟(きょうだい)たち。あなたがたの間には(あらそ)いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割(ぶんかつ)されたのですか。あなたがたのために十字架(じゅうじか)につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを()けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを(さず)けたことがないことを感謝(かんしゃ)しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを()けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを(さず)けましたが、そのほかはだれにも(さず)けた(おぼ)えはありません。キリストが私をお(つか)わしになったのは、バプテスマを(さず)けさせるためではなく、福音(ふくいん)()(つた)えさせるためです。それも、キリストの十字架(じゅうじか)がむなしくならないために、ことばの知恵(ちえ)によってはならないのです。

(コリント人への手紙第一1章10-17節)

<説教>

使徒(しと)パウロは福音(ふくいん)を世界に(つた)える者として神様(かみさま)()されました。福音(ふくいん)人種(じんしゅ)社会(しゃかい)経済(けいざい)教育(きょういく)(かべ)()えます。

私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを()させる(かみ)の力です。(ローマ1:16)

福音(ふくいん)とは、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死が、あなたの(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりであると(しん)じるなら(つみ)が赦されて(かみ)の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。

この世界にはまことの希望(きぼう)はありません。しかし教会(きょうかい)には唯一の(すく)いの道、まことの希望(きぼう)福音(ふくいん)があります。これは世にはないキリストの教会(きょうかい)だけがもっている希望(きぼう)です。

キリストが生まれる500年も前の黄金(おうごん)時代(じだい)のギリシャの哲学者(てつがくしゃ)は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと()きました。もうずっと(むかし)(かみ)は死んだと言われて、それを人々は(しん)じています。(かみ)()()り、すべての(ぜん)真理(しんり)も人間にあるという思想(しそう)はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然(ぐうぜん)生まれたと(とな)える進化論(しんかろん)はすべての存在(そんざい)には意味(いみ)目的(もくてき)価値(かち)もない、すべてはむなしいという絶望(ぜつぼう)虚無(きょむ)の人生に()()みます。

ジャンクフード(冷凍(れいとう)食品(しょくひん)、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価(えいようか)はあまりありません。これを食べ(つづ)けると体を(がい)し、精神(せいしん)や心の成長(せいちょう)にも(わる)影響(えいきょう)が出ると言われています。

この世の哲学(てつがく)思想(しそう)はとても(むずか)しく、(よろこ)びも希望(きぼう)もがなく、たんに頭の知識(ちしき)理論(りろん)であり、(れい)(てき)成長(せいちょう)することはできません。

しかし、福音(ふくいん)~イエス・キリストの十字架(じゅうじか)(すく)いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望(きぼう)(あた)えるよい知らせです。子どもでも理解(りかい)して(しん)じて(すく)われるのです。国も年齢(ねんれい)習慣(しゅうかん)関係(かんけい)なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇(きょうぐう)にある人にも、(もと)める人の心に福音(ふくいん)(とど)きます。(だれ)であっても(しん)じるなら(すく)われます。

兄弟(きょうだい)たち。私は今、あなたがたに福音(ふくいん)を知らせましょう。これは、私があなたがたに()(つた)えたもので、あなたがたが()()れ、また、それによって立っている福音(ふくいん)です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで(しん)じたのでないなら、私の()(つた)えたこの福音(ふくいん)のことばをしっかりと(たも)っていれば、この福音(ふくいん)によって(すく)われるのです。私があなたがたに(もっと)もたいせつなこととして(つた)えたのは、私も()けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(せいしょ)の示すとおりに、私たちの(つみ)のために死なれたこと、また、(ほうむ)られたこと、また、聖書(せいしょ)の示すとおりに、三日目(みっかめ)によみがえられたこと、           (Ⅰコリント15:1-4)

これが聖書(せいしょ)にある福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)は、知識(ちしき)理論(りろん)でなく、実際(じっさい)にあなたに関わるよい知らせです。それを(しん)じた者には希望(きぼう)平安(へいあん)現実(げんじつ)のものとなります。キリストはあなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(さいしょ)初穂(はつほ))としてキリストは三日目(みっかめ)によみがえられました。死後(しご)にすべての人は(かみ)のさばきを()けますが、あなたが、この福音(ふくいん)にどう(こた)えて生きたかによって(かみ)の子どもとされるか、そうでないかが決定(けってい)します。

(かみ)は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者(ししゃ)の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける(のぞ)みを()つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)

自分の言葉(ことば)(おこな)いのいかなることも、福音(ふくいん)をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学(てつがく)であり思想(しそう)でした。キリストを(しん)じた者はこの福音(ふくいん)をそのように(たから)のように(あい)する者です。あなたもイエス様の福音(ふくいん)(しん)じてみませんか。

シジフォスは死んで黄泉(よみ)に行った。ところが地上に(もど)されたのであった。黄泉(よみ)()(かえ)されたとき、彼は(かえ)ることを(こば)んだ。人生の快楽(かいらく)満喫(まんきつ)したからである。(ばつ)として彼は()(もど)され、(おか)のいただきまで大きな(いわ)()し上げる(けい)宣告(せんこく)された。しかし(いわ)をそこまで()し上げると、(ころ)()ちてしまう。彼はふもとまで苦労(くろう)して()りていき、もう一度(いわ)()し上げるが、(ふたた)(ころ)()ちるだけであった。
『シジフォスの神話(しんわ)』アルベール・カミュ

シジフォスはこの工程(こうてい)()てしなく()(かえ)すように(うん)(めい)づけられた。

彼の努力(どりょく)は、意味(いみ)ある結果(けっか)をまったく()み出さない。

存在(そんざい)するものに意味(いみ)目的(もくてき)価値(かち)もないという実存(じつぞん)主義(しゅぎ)虚無(きょむ)主義(しゅぎ)、神は死んだ思想(しそう)代表(だいひょう)する文学(ぶんがく)の一つ。

わたしの行く手は平安(へいあん)だ。
死へのあらゆる(はたら)きかけに対しても、ひそかなる守護(しゅご)がなされている。
すべての安定性(あんていせい)(うしな)われても、なお平安(へいあん)だ。たおされても平安(へいあん)だ。
たとえ、このあわれな肢体(したい)が滅んでも、なおまさって平安(へいあん)だ。
『平安(へいあん)』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇(くらやみ)(おそ)ろしい雲海(うんかい)に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは(かみ)(ともしび)(むね)()く。
その(かがや)きは早晩(そうばん)暗闇(くらやみ)(つらぬ)く。
わたしはいつしか脱出(だっしゅつ)する。
『パラサルサス』ブラウニング

イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。

キリストとの関係が、あなたを最後の日から守る

コリント人への手紙第一1章4-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月2日

<聖書>

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに(あた)えられた(かみ)(めぐ)みのゆえに、あなたがたのことをいつも(かみ)感謝(かんしゃ)しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識(ちしき)といい、すべてにおいて、キリストにあって(ゆた)かな(もの)とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で(たし)かになったからで、その結果(けっか)、あなたがたはどんな賜物(たまもの)にも()けるところがなく、また、熱心(ねっしん)に私たちの(しゅ)イエス・キリストの(あらわ)れを()っています。(しゅ)も、あなたがたを、私たちの(しゅ)イエス・キリストの日に()められるところのない(もの)として、最後(さいご)まで(かた)(たも)ってくださいます。(かみ)真実(しんじつ)であり、その(かた)のお()しによって、あなたがたは(かみ)御子(みこ)、私たちの(しゅ)イエス・キリストとの(まじ)わりに入れられました。

(コリント人への手紙第一1章4-9節)

<説教>

キリストを(しん)じて(すく)われた者は、(かみ)計画(けいかく)によって()されて((えら)ばれて()び出されて)応答(おうとう)した者です。(すく)いは聖霊(せいれい)(はたら)きによって(はじ)まります。聖霊(せいれい)によってまず(はじ)めに、自分の(つみ)(みと)め、キリストの十字架(じゅうじか)(すく)いがわかります。そして聖霊(せいれい)により、(つみ)()(あらた)めに(みちび)かれて、信仰(しんこう)(あた)えられます。

この瞬間(しゅんかん)に、()(みと)められ((つみ)刑罰(けいばつ)放免(ほうめん))、(かみ)との和解(わかい)(あた)えられ、(かみ)の子とされます。この(すく)いの根底(こんてい)にあるのは、(しん)じた者がキリストとひとつにされることです(キリストとの結合(けつごう))。キリストがあなたの中に生きて(はたら)き、またあなたもキリストの中に入り、霊的(れいてき)生命的(せいめいてき)(いのち)を共にします。別々(べつべつ)の人間だった夫婦(ふうふ)肉体的(にくたいてき)にも精神的(せいしんてき)にもひとつされ、時間をかけて理解(りかい)し合い、理想(りそう)も一つとされるように、信者(しんじゃ)はキリストとすべての(いとな)み((よろこ)び、(くる)しみ、十字架(じゅうじか)復活(ふっかつ))を共有(きょうゆう)していきます。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷(どれい)自由人(じゆうじん)も、一つのからだとなるように、一つの御霊(みたま)によってバプテスマを()け、そしてすべての者が一つの御霊(みたま)()む者とされたからです。

(Ⅰコリント12:13

キリスト者は聖霊(せいれい)により賜物(たまもの)(かみ)(つか)えるために(あた)えられる能力(のうりょく))が(あた)えられ、キリストの体である教会(きょうかい)につながり、(たが)いに(つか)えて、教会(きょうかい)()て上げ、聖霊(せいれい)のみわざにより、キリストに()た者に()えられていきます(聖化(せいか)・きよめ)。

それは、からだの中に分裂(ぶんれつ)がなく、各部分(かくぶぶん)(たが)いにいたわり合うためです。もし一つの部分(ぶぶん)(くる)しめば、すべての部分(ぶぶん)がともに(くる)しみ、もし一つの部分(ぶぶん)(たっと)ばれれば、すべての部分(ぶぶん)がともに(よろこ)ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官(かくきかん)なのです。

(Ⅰコリ12:25-27

一度、キリストを(しん)じて(すく)われた者の(すく)いは(けっ)して(うしな)われることはありません。(しん)じた瞬間(しゅんかん)(かみ)の子とされた身分(みぶん)立場(たちば)永遠(えいえん)()わることがなく、聖霊(せいれい)により、そのような者としてふさわしい生き方に生涯(しょうがい)かけて()えられ(つづ)けます。

外面(がいめん)表面(ひょうめん)でなく、すべてがキリストの()姿(すがた)(つく)()えられていくのです。キリスト者は見える現実(げんじつ)はどうであっても、見えない希望(きぼう)約束(やくそく)聖書(せいしょ)により(しん)じるのです。

あなたがたのうちに()(はたら)きを(はじ)められた(かた)は、キリスト・イエスの日が()るまでにそれを完成(かんせい)させてくださることを私は(かた)(しん)じているのです。

(ピリピ1:6)

そして、地上(ちじょう)生活(せいかつ)()わる()の後、(かみ)臨在(りんざい)の中に入るときに、(かみ)計画(けいかく)(はじ)まった(すく)いは、完全(かんぜん)完成(かんせい)します。あなたは完全(かんぜん)(かみ)の子となり、子が()ける財産(ざいさん)相続(そうぞく)します。その素晴(すば)らしさは今は、ぼんやりとしかわかりませんが、やがて完全(かんぜん)に知ることができます。(かみ)によって(はじ)まった(すく)いのご計画(けいかく)(かなら)完成(かんせい)します。

けれども、私たちの国籍(こくせき)(てん)にあります。そこから(しゅ)イエス・キリストが(すく)(ぬし)としておいでになるのを、私たちは()(のぞ)んでいます。キリストは、万物(ばんぶつ)をご自身(じしん)(したが)わせることのできる御力(みちから)によって、私たちの(いや)しいからだを、ご自身(じしん)栄光(えいこう)のからだと(おな)姿(すがた)()えてくださるのです。

(ピリピ3:21-22)

あなたにあって完全(かんぜん)! (わたし)のわざではなく。
親愛(しんあい)なる(しゅ)よ、あなたの場所(ばしょ)をお()りくださるように。
あなたの血潮(ちしお)(わたし)(ゆる)しをもたらしました。
そして今やあなたにあって完全(かんぜん)な者です。
そうです、()とされている!祝福(しゅくふく)された思想(しそう)よ!
そして聖化(せいか)されている!(すく)いがなされた!
あなたの血潮(ちしお)(わたし)(ゆる)しをもたらしました、
そして栄化(えいか)される、(わたし)も!

(ジェイムズ・M・グレイ)

神の教会、召された聖徒

コリント人への手紙第一1章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月25日

<聖書>

(かみ)のみこころによってキリスト・イエスの使徒(しと)として()されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある(かみ)の教会へ。すなわち、私たちの(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)を、(いた)る所で()び求めているすべての人々とともに、聖徒(せいと)として()され、キリスト・イエスにあって(せい)なるものとされた方々へ。(しゅ)は私たちの(しゅ)であるとともに、そのすべての人々の(しゅ)です。私たちの父なる(かみ)(しゅ)イエス・キリストから、(めぐ)みと平安(へいあん)があなたがたの上にありますように。

(コリント人への手紙第一1章1-3節)

<説教>

コリントは大都市(だいとし)マケドニアとアテネの間にあり、エーゲ海とアドリヤ海を(むす)貿易(ぼうえき)要衝(ようしょう)の地でもあり経済(けいざい)文化(ぶんか)がいちじるしく発達(はったつ)しました。いろんな人種(じんしゅ)の人が()()い、宗教(しゅうきょう)が多くあふれていました。その中でも、女神(めがみ)アフロディトを(まつ)るアクロ・コリントの山頂の神殿(しんでん)には1千人の巫女(みこ)(みや)(つか)えていましたが、彼女らは夜になると売春婦(ばいしゅんふ)として町に下るのでした。コリントの町は経済(けいざい)(てき)発展(はってん)宗教(しゅうきょう)(てき)混乱(こんらん)不道徳(ふどうとく)のつるぼでした。その当時、コリント人というと「堕落(だらく)した(けが)れた者」を意味しました。コリント人のようにふるまうとは、「みだらな行為(こうい)を行うこと」を意味しました。

そのような中でパウロが精力的(せいりょくてき)伝道(でんどう)した結果(けっか)、コリント教会(きょうかい)が建て上げられました。彼らはたかぶり、敵対(てきたい)して分派(ぶんぱ)をつくったり、不品行(ふひんこう)、みだらな行為(こうい)教会(きょうかい)内にも見られました。

しかし、パウロはコリント教会(きょうかい)(かみ)教会(きょうかい)()びます。教会(きょうかい)(かみ)によって()し出された者の集まりです。コリントの教会(きょうかい)がいかに不完全でどうしようもない者の集まりであっても、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)のあがないによって、(あら)われ、きよめられ、(かみ)()(あた)えられた者なのです。イエス・キリストを(しん)じて生きるにふさわしい者へとキリストの復活(ふっかつ)の命が(はたら)くのです。

キリストは十字架(じゅうじか)で私たちの(つみ)のために死んでくださいました。十字架(じゅうじか)はもっともひどい(つみ)を犯した罪人に課せられた刑罰です。あなたの(つみ)がどれだけひどくても、その(つみ)のためにキリストは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

クリスチャンとは(つみ)の中から(かみ)によって()び出され、それに応答(おうとう)して、イエス・キリストを(つみ)からの(すく)(しゅ)(しん)じた者です。()(つみ)現実(げんじつ)から、(えら)ばれて分離(ぶんり)された者です。現実(げんじつ)の姿はまだ未完成(みかんせい)ですが、(しん)じる者に(はたら)聖霊(せいれい)により、日々、御子(みこ)イエス・キリストに()た者に変えられ(つづ)けています。

(かみ)を愛する人々、すなわち、(かみ)のご計画(けいかく)(したが)って()された人々のためには、(かみ)がすべてのことを(はたら)かせて(えき)としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、(かみ)は、あらかじめ知っておられる人々を、御子(みこ)のかたちと同じ姿にあらかじめ(さだ)められたからです。それは、御子(みこ)が多くの兄弟たちの中で長子(ちょうし)となられるためです。」

(ローマ人への手紙828-29節)

失格者

コリント人への手紙第一10章8-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月18日

<聖書>

また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫(かんいん)をしたのにならって姦淫(かんいん)をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫(かんいん)のゆえに一日に二万三千人()にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが(しゅ)(こころ)みたのにならって(しゅ)(こころ)みることはないようにしましょう。彼らは(へび)(ほろ)ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは(ほろ)ぼす者に(ほろ)ぼされました。これらのことが彼らに()こったのは、(いまし)めのためであり、それが書かれたのは、()の終わりに(のぞ)んでいる私たちへの教訓(きょうくん)とするためです。ですから、立っていると思う者は、(たお)れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練(しれん)はみな人の知らないものではありません。(かみ)真実(しんじつ)な方ですから、あなたがたを、()えられないほどの試練(しれん)に会わせることはなさいません。むしろ、()えられるように、試練(しれん)とともに脱出(だっしゅつ)(みち)(そな)えてくださいます。

(コリント人への手紙第一10章8-13節)

<説教>

パウロを通して、神さまが世の終わりに生きる私達への教訓(きょうくん)が語られています。それは神の歴史(れきし)の中で実際(じっさい)に起こった出来事です。

姦淫(かんいん)(結婚以外のみだらな性行(せいこう)())② 神を(うたが)う事③ 神に不平(ふへい)不満(ふまん)を言う事

これはパウロが福音(ふくいん)()べ伝えていながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)にならないために自分を打ちたたいて(したが)わせていることです。

エジプトから(すく)い出されたイスラエルはシティムの(むすめ)たちと、みだらな行為(こうい)を行い、異国(いこく)の神にいけにえを(ささ)げ、(おが)むようになります。この手紙が書き送られたコリントの町(教会)は偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)はと不品行(ふひんこう)(結婚以外の(せい)行為(こうい))が密接(みっせつ)に関係していました。今の時代は、誰にでも性的(せいてき)誘惑(ゆうわく)があります。神を(みと)めないなら、簡単に(つみ)意識(いしき)さえ持たずに、性的(せいてき)堕落(だらく)(おちい)ります。性の問題は、道徳(どうとく)倫理(りんり)安全(あんぜん)衛生(えいせい)の問題ではなく信仰(しんこう)宗教(しゅうきょう)の問題なのです。

神の奇蹟(きせき)により、紅海(こうかい)(わた)ったイスラエルの民は、三日後に水が飲めず(かわ)いて神を(うたが)いつぶやきます。奇跡(きせき)も肉の弱さに勝てません。

「ただし、少しも(うたが)わずに、信じて願いなさい。(うたが)う人は、風に吹かれて()(うご)く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心(ふたごころ)のある人で、その歩む道のすべてに安定を()いた人です。」

ヤコブの手紙1:6-8

神を信じても人間は信仰(しんこう)と不信仰(しんこう)の間を行ったり来たりしています。自分も神も信じ切れない人間の弱さがあります。しかし、そのことさえも信仰(しんこう)の道の途中(とちゅう)にある証拠(しょうこ)です。信仰(しんこう)知識(ちしき)だけではありません。「少しも(うたが)わずに、信じて願う」ことを実践(じっせん)して行うことです。

神は人間を祝福(しゅくふく)されようとしています。その神の(めぐ)みを受けないなら、人は不平(ふへい)不満(ふまん)をつぶやきます。しかし、神の(めぐ)みを体験せずに、一生つぶやき続けてはいけないのです。

試練(しれん)とは誘惑(ゆうわく)の意味でもあります。試練(しれん)はそれを通して、信仰(しんこう)が成長して、さらに神に信頼(しんらい)して(たよ)るようにしてくださいます。しかし誘惑(ゆうわく)は、神を(うたが)い、自分の方法でその問題を解決(かいけつ)させようとします。自分の力を(ほこ)り神からは(はな)れさせます。

人間が弱く(おろ)かな存在(そんざい)であるという自覚(じかく)は大切です。神はそんな弱い私たちに同情(どうじょう)してくださいます。あなたの試練(しれん)がどのようなものでも、それは決してあなただけの特別(とくべつ)試練(しれん)ではありません。その試練(しれん)の苦しみによって自分は特別(とくべつ)でおかしいのかも知れないと思わないでいいのです。誰かも同じ試練(しれん)にあり、(つみ)以外の(こころ)みはイエス様も体験されたのです。その試練(しれん)無意味(むいみ)ではなく、いつまでも続きません。神自身が脱出(だっしゅつ)の道です。イエス様が神であり、このお方を信じる者は、最大の試練(しれん)の死から勝利します。イエス様がよみがえられた命があなたにも働かれます。いかなる試練(しれん)も神の愛からあなたを引き(はな)すものはありません。

しかし、あなたは試練(しれん)誘惑(ゆうわく)に負けそうになるかもしれません。もう負けていると感じるかも知れません。けれども、そんな中にあってイエス様はあなたを愛されています。あなたに力を与え守ってくださいます。(つみ)()(あらた)めるように(みちび)いて下さいます。信仰(しんこう)の結果である自制(じせい)を与えてくださいます。

「あなたがたは、信仰(しんこう)により、神の御力(みちから)によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている(すく)いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに(よろこ)んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練(しれん)の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰(しんこう)試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(とうと)く、イエス・キリストの現れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。」

Ⅰペテロの手紙1:5-7

福音があなたの人生を変える

ローマ人への手紙1章1-4節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月11日

<聖書>

かみ)福音(ふくいん)のために(えら)び分けられ、使徒(しと)として()されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
──この福音(ふくいん)は、(かみ)がその預言者(よげんしゃ)たちを(とお)して、聖書(せいしょ)において(まえ)から約束(やくそく)されたもので、
御子(みこ)に関することです。御子(みこ)は、(にく)によればダビデの子孫(しそん)として()まれ、
(きよ)御霊(みたま)によれば、死者(ししゃ)(なか)からの復活(ふっかつ)により、大能(たいのう)によって(おおやけ)(かみ)御子(みこ)として(しめ)された(かた)、私たちの(しゅ)イエス・キリストです。

(ローマ人への手紙1章1-4節)

<説教>

使徒(しと)パウロは、ローマの領土(りょうど)であったキリキア(しゅう)のタルソ((いま)のトルコあたり)でユダヤ人として()まれ、ギリシャ文化(ぶんか)影響(えいきょう)()け、教養(きょうよう)才能(さいのう)(めぐ)まれました。(かれ)は、ユダヤ(きょう)の中でも厳格(げんかく)律法(りっぽう)学者(がくしゃ)宗教家(しゅうきょうか)として()きようと(こころざ)します。やがて(かれ)は、ユダヤ(きょう)から()まれたキリスト(きょう)(おし)えに(はげ)しく反対(はんたい)して、(かれ)らを(はく)(がい)しました。

けれども、(かみ)さまはパウロの人生(じんせい)(べつ)のご計画(けいかく)をお()ちでした。それは、パウロがイエス・キリストを(しん)じて、キリスト(きょう)(ひろ)世界(せかい)()(つた)えることでした。それは(かれ)がぜったいに(おも)いもしなかった人生(じんせい)です。

(かみ)さまは、イエス(さま)(しん)じる(まえ)のパウロの人生(じんせい)を大いに(もち)いられます。パウロは異国(いこく)文化(ぶんか)から(ひろ)国際(こくさい)感覚(かんかく)(やしな)い、(ゆた)かな自然(しぜん)の中でギリシャ()(ゆた)かな教養(きょうよう)()につけます。それらは後の世界(せかい)宣教(せんきょう)への必要(ひつよう)(そな)えでした。

パウロの人生(じんせい)を変えたのは、キリスト(きょう)(つた)えている(もっと)大切(たいせつ)なこと、福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)とはキリストの十字架(じゅうじか)のあがない(もともとは奴隷(どれい)身代金(みのしろきん)(はら)って自由(じゆう)身分(みぶん)()(もど)される意味(いみ))を(しん)じるなら、(つみ)刑罰(けいばつ)(ゆる)されて、キリストに()た者に日々(ひび)(あたら)しく変えられ、天国(てんごく)に入る者として希望(きぼう)(あた)えられることです。

その福音(ふくいん)中心(ちゅうしん)はイエス・キリストです。キリストは聖書(せいしょ)預言(よげん)のとおりに、ダビデの子孫(しそん)として、2000年(まえ)にクリスマスに聖霊(せいれい)によってマリアから人間として()まれました。その目的(もくてき)は、十字架(じゅうじか)()に、すべての人の(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりとなることです。しかし、(かみ)全能(ぜんのう)の力により、三日目(みっかめ)によみがえられて、(つみ)()(かい)(けつ)された(いま)()きておられるまことの(かみ)さまです。

キリストを(しん)じる者は、(おも)いもしなかった人生(じんせい)に変えられます。(てら)住職(じゅうしょく)がキリスト(きょう)牧師(ぼくし)に、暴力団(ぼうりょくだん)組員(くみいん)(あい)()く者に、死刑囚(しけいしゅう)()受刑者(じゅけいしゃ)にキリストの(あい)(つた)える者に、大病や大けがをした人が絶望の中から、人々に希望(きぼう)(あた)える者に…(かぞ)()げたらいつまでも()わりません。

それは(かみ)さまが、準備(じゅんび)していた(おも)いもしない人生(じんせい)です。それを可能(かのう)にするのは、あなたの内面(うちめん)(つみ)の性質)が変えられることから(はじ)まります。(かみ)さまはあなたの個性(こせい)特徴(とくちょう)才能(さいのう)などを(ゆた)かに(もち)いて、さらに(よろこ)びと希望(きぼう)(あた)える人生(じんせい)(みちび)こうと今日もあなたを(まね)いておられます。