悪魔の誘惑③

マタイの福音書4章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2024年3月10日

<聖書>

さて、イエスは、悪魔(あくま)(こころ)みを()けるため、御霊(みたま)(みちび)かれて荒野(あらの)に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食(だんじき)したあとで、空腹(くうふく)(おぼ)えられた。
すると、(こころ)みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、(めい)じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔(あくま)はイエスを(せい)なる(みやこ)()れて行き、神殿(しんでん)(いただき)に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使(みつか)いたちに(めい)じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である(しゅ)(こころ)みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔(あくま)は、イエスを非常に高い山に()れて行き、この世のすべての国々とその栄華(えいが)を見せて、
言った。「もしひれ()して私を(おが)むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である(しゅ)(おが)み、(しゅ)にだけ(つか)えよ』と書いてある。」
すると悪魔(あくま)はイエスを離れて行き、見よ、御使(みつか)いたちが近づいて来て(つか)えた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)4章1-11節)

<説教>

今度は悪魔(あくま)は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華(えいが)を見せて、言った。「もしひれ伏して私を(おが)むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

(マタイの福音書4:8-9

この世の栄華(えいが)とは、この世界のきらびやかさ、(はな)やかさに(かく)されている人間の堕落(だらく)した欲望(よくぼう)です。それは刺激的(しげきてき)であり、人をひきつけます。

そういったものは外側だけのものであり、人間のたましいの深い部分まで満たすことができません。必ず(むな)しさが待っています。その先にあるのは永遠の(ほろ)び、死です。

それは人間が悪魔(あくま)誘惑(ゆうわく)されて神から(はな)れた結果、この世は今、悪魔(あくま)支配(しはい)しているからです。

私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

(ヨハネの手紙第一5:19

しかし、この世界はすべて、神さまが造られたものです。聖書(せいしょ)に次のようにあります。

初めに、神が天と地を創造(そうぞう)した。(創世記1:1)

天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座(おうざ)主権(しゅけん)支配(しはい)権威(けんい)も、すべて御子(みこ)によって造られたのです。

(コロサイ人への手紙1:16)

この(つみ)()(らく)した人間、すべての被造物(ひぞうぶつ)、この世界のすべてを新しく造り変えるため、(あがな)われるために十字架(じゅうじか)に架かるために、イエス様はこの世に来て下さいました。

この悪魔(あくま)誘惑(ゆうわく)は、イエス様に十字架(じゅうじか)の苦しみを通らずに、今すぐこの世界を自分のものにしなさいという誘惑(ゆうわく)です。そのために悪魔(あくま)にひれ伏して、(おが)むだけでいいというのです。

これこそが最大の(つみ)だと、神のことば、聖書(せいしょ)は言います。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像(ぐうぞう)を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを(おが)んではならない。それらに(つか)えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを(にく)む者には、父の(とが)を子に(むく)い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで(ほどこ)すからである。あなたは、あなたの神、【主】の御名(みな)を、みだりに(とな)えてはならない。【主】は、御名(みな)をみだりに(とな)える者を、(ばっ)せずにはおかない。

(出エジプト記20:3-7

そして神であるイエス・キリストは、ご自分を神としたことで十字架刑(じゅうじかけい)(しょ)せられたのです。

そして、悪魔(あくま)は、すべての人間を誘惑(ゆうわく)して、この世を愛して、神から離れさせようとしているのです。

神さまを信じて神さまに従って生きるということは、この世で生きている間だけのことではありません。恐るべき(ほろ)びから救われて、永遠のいのちを与えられて、神の御国(みくに)に入ることです。

世と世の欲は(ほろ)び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。

(ヨハネの手紙第一2;17)

聖書(せいしょ)の神、キリストの父なる神さまは唯一(ゆいいつ)の神であり、この天地を創造され、この世を(つみ)から(あがな)われ、救い主キリストを世に(つか)わしてくださいました。

すべての栄光はこの神さまにのみ現されます。

人間は神を礼拝(れいはい)するために、神さまに似せて造られた存在なのです。

そこにだけ、まことの平安と愛といのちがあります。

聖書(せいしょ)一貫(いっかん)して、(つみ)の世にすべてを捧げて生き続けてはいけない、(つみ)()(あらた)めて、キリストを救い主として信じて、神を礼拝(れいはい)する生き方を選び取るようにと警告(けいこく)しています。

悪魔の誘惑②

マタイの福音書4章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2024年3月3日

<聖書>

さて、イエスは、悪魔(あくま)(こころ)みを()けるため、御霊(みたま)(みちび)かれて荒野(あらの)に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食(だんじき)したあとで、空腹(くうふく)(おぼ)えられた。
すると、(こころ)みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、(めい)じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔(あくま)はイエスを(せい)なる(みやこ)()れて行き、神殿(しんでん)(いただき)に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使(みつか)いたちに(めい)じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である(しゅ)(こころ)みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔(あくま)は、イエスを非常に高い山に()れて行き、この世のすべての国々とその栄華(えいが)を見せて、
言った。「もしひれ()して私を(おが)むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である(しゅ)(おが)み、(しゅ)にだけ(つか)えよ』と書いてある。」
すると悪魔(あくま)はイエスを離れて行き、見よ、御使(みつか)いたちが近づいて来て(つか)えた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)4章1-11節)

<説教>

すると、悪魔(あくま)はイエスを(せい)なる都に連れて行き、神殿(しんでん)(いただき)に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使(みつか)いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

(マタイ4:5-6

  1. 悪魔(あくま)もみことばを引用する。

悪魔(あくま)詩篇(しへん)91篇11-12節の御言葉(みことば)を使ってイエスを誘惑(ゆうわく)します。しかし、よく見ると御言葉(みことば)の内容が変えられています。悪魔(あくま)は自分に都合のいいように御言葉(みことば)を変えているのです(聖書の改ざん)。この世の言葉も正しそうであっても、人々を悪い思いや間違(まちが)った行動へと誘うことが多いのです。

そのような知恵(ちえ)は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊(あくれい)に属するものです。                                           (ヤコブの手紙3:15)

わざわざ自分を危険な状態にして、神が助けてくれるか(ため)す必要はないのです。人間は神の愛とみわざを疑うとき、自分の納得(なっとく)できる証拠(しょうこ)を求めてしまいます。自分の方法で解決(かいけつ)しようとします。いつも神の御言葉(みことば)に立ち返り、御言葉(みことば)による信仰(しんこう)の歩みが必要です。

詩篇(しへん)91篇は神の保護(ほご)(守り)について書かれています。それは、特別な時だけでなく、どんな時も神様を信頼するべきであり、人間のいのちと存在そのものが、神の御手(みて)にある完全な守りだというのです。神さまへの愛と信頼が、信仰(しんこう)の歩みに必要なのです。

2.悪魔(あくま)誘惑(ゆうわく)は長所や賜物(たまもの)に働く

悪魔(あくま)はイエス様の神の全能(ぜんのう)の力、奇蹟(きせき)を行う力を間違(まちが)った目的で使わせようと誘惑(ゆうわく)しました。悪魔(あくま)は、人間の長所や賜物(たまもの)にも誘惑(ゆうわく)してきます。その人の能力(のうりょく)を人のためではなく、自分のためや悪い目的に使わせようと誘惑(ゆうわく)します。悪魔(あくま)に利用され、その手足となるのは、人の心の奥にひそむ思いや願いなのです。

しかし、悪魔(あくま)(こころ)みを受けたイエス様は、(こころ)みを受ける信仰者を必ず助けてくださいます。人間のどうしようもない弱さもご存知(ぞんじ)なのです。

主は、ご自身が(こころ)みを受けて苦しまれたので、(こころ)みられている者たちを助けることがおできになるのです。

(ヘブル人への手紙2:18)

私たちの大祭司(だいさいし)は、私たちの弱さに同情(どうじょう)できない方ではありません。(つみ)は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、(こころ)みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆(だいたん)に恵みの御座(おんざ)に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:15-16)

イエス様が神殿(しんでん)(いただき)から飛び降りて御使(みつか)いが助けたら、多くの人はイエス様を神の子と信じるでしょう。

しかし、奇蹟(きせき)やしるしに(たよ)る信仰は本当の信仰ではありません。人々が(おどろ)くことをして注目を集めても長続きはしません。

神さまはいつも、普段の生活の中で、共にいてくださるのです。信仰に歩む者に対して、誘惑(ゆうわく)に打ち勝つ力、よみがえりのいのちによる新しい生き方へと進ませてくださいます。

それはただ、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)(あがな)いのみわざによってのみ実現されたのです。

正しさとは愛から生まれる仕える自由

マタイの福音書3章13-17節より

土山みことばキリスト教会

2024年2月18日

<聖書>

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを()けるために、ガリラヤからヨルダンにお()きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを()けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行(じっこう)するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知(しょうち)した。
こうして、イエスはバプテスマを()けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、(かみ)御霊(みたま)(はと)のように下って、自分の上に来られるのをご(らん)になった。
また、天からこう()げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを(よろこ)ぶ。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)3章13-17節)

<説教>

バプテスマのヨハネがユダヤの荒野(あらの)(つみ)()(あらた)めを語り、(つみ)に苦しむ大勢(おおぜい)の人たちにヨルダン川で洗礼(せんれい)(さず)けました。

そして、イエス様がヨハネから洗礼(せんれい)()けるためにヨルダンに来られました。なぜ、(つみ)なきイエス様が洗礼(せんれい)()けられたのでしょうか。

しかし(さだ)めの時が来たので、神はご自分の御子(みこ)(つか)わし、この方を、女から生まれた者、また律法(りっぽう)の下にある者となさいました。これは律法(りっぽう)の下にある者を(あがな)()すためで、その結果、私たちが子としての身分(みぶん)()けるようになるためです。

(ガラテヤ人への手紙4:4-5

イエス様はユダヤ人として、八日目の割礼(かつれい)や、モーセの律法(りっぽう)を守り、正しく生きることに(つと)められました。そして、律法(りっぽう)を守るだけでなく、律法(りっぽう)刑罰(けいばつ)までもお()けになったのです。律法(りっぽう)(やぶ)った者が()けるべき刑罰(けいばつ)を、イエス様は身代(みが)わりとなられて十字架(じゅうじか)の上で命を(ささ)げられました。

神は、(つみ)を知らない方を、私たちの()わりに(つみ)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の()となるためです。

(コリント人への手紙第二5:21

唯一(ゆいいつ)まことの神を信じていたユダヤ人にとって正しいこととは、神の律法(りっぽう)を守ることでした。

そんな彼らに、神さまは、(むく)いを(もと)めず、すすんで行う心からの愛をもって(あた)えなさいと言われました。またイエス様の弟子(でし)パウロも次のように書いています。

キリスト・イエスにあっては、割礼(かつれい)()ける()けないは大事なことではなく、愛によって(はたら)信仰(しんこう)だけが大事なのです。

(ガラテヤ人への手紙5:6

ユダヤ人として生きるための割礼(かつれい)律法(りっぽう)を守ること、洗礼(せんれい)さえ、人を新しく(つく)()えることはできません。

最初(さいしょ)の人アダムの(つみ)によってすべての人間は(つみ)をもって生まれてきます。人間は神に(したが)うべき善悪(ぜんあく)基準(きじゅん)()てて、善悪(ぜんあく)自分勝手(じぶんかって)に決めて生きていると聖書(せいしょ)は言っています。

神の前に正しく生きるためにはイエス・キリストを(しん)じることだけが必要なのです。

こうして、イエスはバプテスマを()けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊(みたま)(はと)のように下って、自分の上に来られるのをご(らん)になった。また、天からこう()げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを(よろこ)ぶ。」

(マタイの福音書3:16-17

すべての人の(つみ)のために十字架(じゅうじか)に向かわれるイエス様の(おおやけ)生涯(しょうがい)が始まりました。父なる神さま、聖霊(せいれい)なる神さまが、イエス様と共にいてくださいます(三位(さんみ)一体(いったい)の神さま)。正しく生きようとするイエス様を愛して(よろこ)ばれるのです。

十字架(じゅうじか)であなたのために死んでくださったイエス様を心から感謝(かんしゃ)して生きるとき、あなたは決してひとりではないことがわかるでしょう。神の目から見たあなたの(とうと)価値(かち)を知るでしょう。愛と力が(あた)えられ、(よろこ)びがあふれてきます。

ユダヤ教の(いち)分派(ぶんぱ)であったキリスト教がなぜ世界(せかい)宗教(しゅうきょう)(ひろ)がったのでしょうか。

それは(たん)に神の律法(りっぽう)(まも)る正しい生き方以上の、神の(めぐ)みが明らかにされたからです。キリストの十字架(じゅうじか)代償(だいしょう)の死とよみがえりが、本物の愛だからです。

ただ、よい行いをすることが人生の最高(さいこう)の目的ではなくなったのです。イエス様を愛することが、すべての理由(りゆう)(みなもと)となったからなのです。

(いつわ)りの自由、罪深(つみぶか)い生活から、イエス様を(しん)じたら、(つみ)から自由にされ、神さまに(したが)って生きていきたいと変えられます。これ以上の奇蹟(きせき)があるでしょうか。しかし、(しん)じるならば(だれ)もがこの素晴(すば)らしい奇蹟(きせき)()()れるのです。

悔い改め~涙と笑顔の真実な姿

マタイの福音書3章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2024年2月11日

<聖書>

しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを()けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒(みいか)りをのがれるように教えたのか。
それなら、()(あらた)めにふさわしい()(むす)びなさい。
『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫(しそん)()こすことがおできになるのです。
(おの)もすでに木の根元(ねもと)()かれています。だから、良い()(むす)ばない木は、みな()(たお)されて、火に投げ()まれます。
私は、あなたがたが()(あらた)めるために、水のバプテスマを(さず)けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを()がせてあげる()うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊(せいれい)と火とのバプテスマをお(さず)けになります。
手に()を持っておられ、ご自分の脱穀場(だっこくじょう)をすみずみまできよめられます。(むぎ)(くら)(おさ)め、(から)を消えない火で()()くされます。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)3章7-12節)

<説教>

人さて、エルサレム、ユダヤ全土(ぜんど)、ヨルダン川沿いの全地域(ぜんちいき)の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の(つみ)告白(こくはく)して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

(マタイの福音書3:5-6

当時の宗教家(しゅうきょうか)であり指導者(しどうしゃ)であったパリサイ人やサドカイ人たちも、洗礼(せんれい)(さず)けていたヨハネのもとに(つみ)(ゆる)しのバプテスマ(洗礼(せんれい))を受けに来ました。

彼らは、ユダヤ教の中心的存在(そんざい)でした。神に選ばれた特別な存在(そんざい)、アブラハムの子孫でもありました。パリサイ人やサドカイ人は、聖書(せいしょ)律法(りっぽう)を守る宗教には熱心でしたが、外面は立派(りっぱ)()()っても、内面は神ではなく自分の力や権力(けんりょく)(たよ)っていたのです。

そんな彼らに、バプテスマのヨハネは終わりの日には神のさばきは必ずくだること、すべての人が神に対して罪人(つみびと)であり、()(あらた)めが必要であると()きます。人間の(ほこ)るどんなものによっても人間の(つみ)(ゆる)されないのです。

多くの人は、自分は大丈夫(だいじょうぶ)(すく)いが必要とは考えません。内面にこそ問題がある罪人(つみびと)であることが(みと)められず、姿形や外見といった見た目を大切にします。しかし、ヨハネは「()(あらた)めの()」を(むす)びなさいと言いました。それは、神に()を向けた罪深(つみぶか)い生き方を止めて、神に心を向けて新しく生きることです。(つみ)(ゆる)されて、愛と正しさに生きることです。

そのために聖書(せいしょ)は、外面ではなく、内面が新しく()えられなさいと言うのです。内面が()えられないなら、外面を()えることは意味がないのです。問題は何も解決(かいけつ)されないのです。

しかし、生まれ持っての人間は自分の努力(どりょく)頑張(がんば)りで、人間は自分の内面を()えることなどできません。その方法はただ一つ、イエス・キリストを(つみ)からの(すく)(ぬし)と信じる者は、霊的(れいてき)誕生(たんじょう)経験(けいけん)して、新しく(つく)()えられるのです。

その方は、あなたがたに聖霊(せいれい)と火とのバプテスマをお(さず)けになります。

(マタイの福音書3:11

その奥義(おくぎ)()(あらた)めなのです。宗教(しゅうきょう)基本(きほん)、神との関係は「()(あらた)め」にあります。この世界は、神のあわれみと、罪人(つみびと)()(あらた)めによって(たも)たれているのです。

すべての生きている人に、いつでもどこでも()(あらた)めのとびらが開かれています。自分の(つみ)を神の前で、(みと)め、かなしみ、告白(こくはく)して謙遜(けんそん)になることです。

その時、聖霊(せいれい)によるいのちと力により、新しい創造(そうぞう)のみわざがなされるのです。

先のパリサイ人、サドカイ人は、宗教(しゅうきょう)には熱心でしたが、この神の力による、この世界の常識(じょうしき)ではありえない、超自然的(ちょうしぜんてき)な力による、人間が新しくされる~()(あらた)めによる(つみ)(ゆる)し~を受け取ることができなかったのです。

人間の理解(りかい)できる宗教(しゅうきょう)では、人は(すく)われません。人知(じんち)()えた神の力を信じる者、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死と三日目のよみがえりにより、人は(つみ)(ゆる)され(すく)われるのです。()(あらた)める者は、キリストと(むす)ばれます。

<追記>

ある賛美(さんび)で、罪深(つみぶか)い自分に(かな)しんで、イエス様に心から(ゆる)しを求める場面が歌われていました。その人は、冷え切った体のまま、神の前にうなだれて、その時、(あたた)かい(なみだ)が冷たい手の上にこぼれ落ちたのです。

人間の(なみだ)、それは、ただ目から流れた液体などではなく、心が()(うご)かされるような姿です。

人間でも、自分の(ゆる)せない人が、そのように心から謝罪(しゃざい)して、(なみだ)を流すのを見たら、多くの場合(ゆる)すのではないでしょうか。

(つみ)(みと)め、(ゆる)しを()う姿も、その姿にあわれみを(おぼ)え、(ゆる)す思いも、神が与えた真実な人間の姿です。

人間の心を完全にご存知(ぞんじ)の神なら、なおさらです。そうです、人が神の前に心から、自分の(つみ)(みと)め、(かな)しみ、()(あらた)めるなら神は(ゆる)してくださるのです。

そして素晴(すば)らしいことに(なみだ)とは、(よろこ)んだ時も流れるのです。自分の(つみ)が神に(ゆる)された者は、心から笑顔で(よろこ)ぶことができるのです。

神もまた(なみだ)されます。神のひとり子キリストが人間の(つみ)の身代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことは、神が流された(なみだ)です。(かな)しみをこえた(よろこ)びの(なみだ)です。

このイエス様の十字架(じゅうじか)を自分の(つみ)のためと信じる時、本当の(なみだ)と笑顔の素晴(すば)らしいいのちの歩みがあります。

  小さな手~♪
 RYLE(リラ)
  
 ひときわ(かがや)く星の光が 小さな馬屋(うまや)()らした
 冷たい風 心まで (つらぬ)くこの世界に
 (つみ)の重さを知った私は 心(ふる)わせて向かった
 小さな(あか)(とも)る あなたのいるその部屋へ
  
 ※    あなたは今 この中に ()()おけで(ねむ)っている
 そっと()れた小さな手は 私のため(きず)つくこと 知っているのに
 (やさ)しく(にぎ)り返した 私に微笑(ほほえ)みながら
  
 冷たさに (こご)えた手のひらに (あたた)かな(なみだ)落ちてく
 変わらないものを求めては (きず)ついた日々の中で
 (いた)む心 (かか)えた私は 声を(ふる)わせて泣いた
 ありのままの姿を (つつ)()む愛の中で
 ※ 

いのちを守る悔い改め

マタイの福音書3章1-6節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月28日

<聖書>

そのころ、バプテスマのヨハネが(あらわ)れ、ユダヤの荒野(あらの)で教えを()べて、言った。
()(あらた)めなさい。(てん)御国(みくに)が近づいたから。」
この人は預言者(よげんしゃ)イザヤによって、「荒野(あらの)で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の(つみ)を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)3章1-6節)

<説教>

人間にとって大切なものはいろいろとあります。家族(かぞく)健康(けんこう)友人(ゆうじん)目標(もくひょう)仕事(しごと)、食べ物、住宅(じゅうたく)衣服(いふく)金銭(きんせん)教育(きょういく)

そういったものとは別に、多くの人が知らないけれど、実はとても大切なものがあると、神のことばである聖書(せいしょ)は教えています。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

(マタイの福音書4章4節)

そうです。人間は神のことばが必要(ひつよう)なのです。

しかし、歴史(れきし)(はじ)まって以来(いらい)、人間に神のことばが(あた)えられない沈黙(ちんもく)期間(きかん)がありました。およそ西暦(せいれき)0年より前の400年間、人間の歴史(れきし)から神の記録(きろく)がなくなります(旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)最後(さいご)預言者(よげんしゃ)マラキから、バプテスマのヨハネの間)。

皇帝(こうてい)テベリオの治世(ちせい)の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督(そうとく)、ヘロデがガリラヤの国主(こくしゅ)、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主(こくしゅ)、ルサニヤがアビレネの国主(こくしゅ)であり、アンナスとカヤパが大祭司(だいさいし)であったころ、神のことばが、荒野(あらの)でザカリヤの子ヨハネに下った。

(ルカの福音書3章1-2節)

突如(とつじょ)として、ユダヤの荒野(あらの)にバプテスマのヨハネが(あらわ)れ、神のことばが語られました。その使()(しん)

()(あらた)めなさい。(てん)御国(みくに)が近づいたから。

(マタイの福音書3章2節)

(てん)御国(みくに)が近づいたというのです。(てん)御国(みくに)とはいったいどういうことでしょうか。

実は今、私たちが生きている世界は、(つみ)(あく)支配(しはい)しています。人間の心の中も(あく)()原則(げんそく)支配(しはい)しています(本来の姿(すがた)は、愛といのちによって心が支配(しはい)されるべき)。しかし、それらはすべて(ほろ)()り、神が支配(しはい)する愛と正義(せいぎ)による世界、(てん)御国(みくに)到来(とうらい)するのです。

そのために、ヨハネは次のような教えを人々に()(つた)えたのです。

①神はおられます。預言(よげん)されたキリストは来られました。

②神によって悪は明らかにされました。罪深(つみぶか)い、自己(じこ)中心(ちゅうしん)の生活をやめなさい。

③神に心を向けて、心を変えて、正しい生活をしなさい。

これが、()(あらた)めて、信仰(しんこう)によって生きるということです。

そのために、神であるイエス・キリストがこの世界に人として来られたのです。

バプテスマのヨハネは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)登場(とうじょう)する代表的(だいひょうてき)預言者(よげんしゃ)エリヤの到来(とうらい)です(マラキ書4章5節)。エリヤはイスラエルの(たみ)偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)から(すく)い出して、まことの神への信仰(しんこう)に立ち返らせました。

今の時代も同じです。ヨハネは(まよ)いさまよう人々をキリストへと(みちび)いています。キリストを信じることによって、まことの神の(たみ)(教会によって生まれる新しいイエスラエル)を(つみ)支配(しはい)から(すく)い出して、神の支配(しはい)である(てん)御国(みくに)に置いてくださるのです。

この世はいつまでも続きません。やがて(ほろ)()ります。その終わりの日は、(てん)御国(みくに)に入る(すく)いの日です。しかしまた、神のさばきの日でもあるのです。

それは今、この神の(まね)きにどう答えるか、その決断(けつだん)によって決定(けってい)するのです。

心の(よく)を第一にする、(つみ)の生き方をやめて、神へと心を向けて、神のことばに(したが)う正しい生活をしようではありませんか。それは窮屈(きゅうくつ)束縛(そくばく)ではなく、そこにだけ自由と平安があります。

いかなる(つみ)であっても神に対して(つみ)()(あらた)める者は(ゆる)され生きることができます。あなたの(つみ)の身代わりにキリストが十字架(じゅうじか)で死なれました。

神のあわれみ、神のことばによって人は生きるのです。

御子(みこ)を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名(みな)を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を(にく)み、その行いが明るみに出されることを(おそ)れて、光のほうに来ない。しかし、真理(しんり)を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

(ヨハネの福音書3章18-21節)

キリストの系図は神の愛の証明

マタイの福音書1章1-17節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月21日

<聖書>

アブラハムの子孫(しそん)、ダビデの子孫(しそん)、イエス・キリストの系図(けいず)
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの(つま)によってソロモンが生まれ、
ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
ヨシヤに、バビロン移住(いじゅう)のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
バビロン移住(いじゅう)(のち)、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
ヤコブにマリヤの(おっと)ヨセフが生まれた。キリストと()ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
それで、アブラハムからダビデまでの(だい)が全部で十四(だい)、ダビデからバビロン移住(いじゅう)までが十四(だい)、バビロン移住(いじゅう)からキリストまでが十四(だい)になる。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)1章1-17節)

<説教>

①イエス・キリストはアブラハムの子

ユダヤ人は()系図(けいず)に非常に関心を持ちました。それは出来る限り民族の血統(けっとう)を保とうとすることを大切にしたからです。わずかでもユダヤ人以外の血が入ると、ユダヤ人であり、神の(たみ)資格(しかく)が失われたのです。
例えば、祭司(さいし)はモーセの兄のアロンにまでさかのぼる系図(けいず)(てい)(しゅつ)する義務(ぎむ)がありました。
私たちには退屈(たいくつ)に思える系図(けいず)も、ユダヤ人にとっては、キリストの系図(けいず)が、ユダヤ人の祖先(そせん)であるアブラハムまでさかのぼることは非常に感銘(かんめい)(ぶか)いものなのです。

②イエス・キリストはダビデの子

また、この系図(けいず)はキリストがダビデの子であることを証明(しょうめい)するものです。この大切な事実を新約(しんやく)聖書(せいしょ)はくり返し強調(きょうちょう)します。

「私の福音(ふくいん)に言うとおり、ダビデの子孫(しそん)として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」

(Ⅱテモテ2:8

盲人(もうじん)たちもイエスに(さけ)びました。神がわからなくなった人生の迷子(まいご)である私たちもイエス様に(さけ)び求めるなら、神さまがわかるように心の目を開かせてくださいます。

「彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆(ぐんしゅう)がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人(もうじん)が、イエスが通られると聞いて、(さけ)んで言った。『(しゅ)よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』」

(マタイ20:29-30

十字架(じゅうじか)に向かわれるイエス様が最後のエルサレムに入城(にゅうじょう)されるときも、群衆(ぐんしゅう)はイエスをダビデの子として歓迎(かんげい)しました。
ところでイエスをダビデの子と()んだのは、群衆(ぐんしゅう)庶民(しょみん)一般(いっぱん)の人たちでした。彼らは熱心(ねっしん)に待ち(のぞ)む人々でした。目の前は、いかなる現実(げんじつ)に見えようとも、いつか必ずダビデの子孫(しそん)が現れるのを信じたのです。そのとき、神の栄光(えいこう)によって、彼らが神に(むく)われることを(ゆめ)見たのです。
(たし)かに、今はイエス・キリストに同意(どうい)できない人たちもいます。そんな彼らの(ゆめ)実現(じつげん)の形は、力と(とみ)物質的(ぶっしつてき)繁栄(はんえい)野望(やぼう)実現(じつげん)です。
しかし、すべての人類の最初の(ゆめ)、平和と愛の完成という(ゆめ)実現(じつげん)するとすれば、イエス・キリストによってのみ可能なのです。
人として来られたイエス・キリストの中に預言(よげん)成就(じょうじゅ)したのです。旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)で昔の預言者(よげんしゃ)のことばは実現(じつげん)したのです。預言(よげん)を軽く見てはいけません。預言(よげん)偉大(いだい)な神の真理(しんり)(ふく)まれているのです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)、この世界のすべて、もちろん一人一人のあなたという人間の存在(そんざい)も、神の目的と計画によって起こったのです。
この歴史(れきし)終着点(しゅうちゃくてん)のない道ではありません。すべての命と世界はあてどもなく移り変わるのではなく、神の(たし)かな目的地に向かって進んでいるのです。

③ 神のあわれみの福音(ふくいん)はすべての人ために

この系図(けいず)(おどろ)くべきことは女性の名前が(ふく)まれていることです。ユダヤの系図(けいず)は普通、女性の名前は(しる)されません。しかも、この系図(けいず)の4人の女性の身分や行為(こうい)を知る時、さらに(おどろ)かされます。
ラハブはエリコの遊女(ゆうじょ)でした。ルツはモアブ人。(あく)名高(みょうだか)いモアブ人でした(民数記23:3)。タマルは(しゅうと)のユダをあざむき姦淫(かんいん)を犯しました。ダビデ王が姦淫(かんいん)と殺人の(つみ)によって部下のウリヤから(うば)()ったバテシュア。
ユダヤ人と異邦人(いほうじん)差別(さべつ)。男女の差別(さべつ)も、そして罪深(つみぶか)い人間と神との(へだ)ての(かべ)である(つみ)を神は()(のぞ)かれました。
それこそが、この系図(けいず)の目的であり、イエス・キリストによる神の福音(ふくいん)神髄(しんずい)を示すものなのです。
このような問題ある罪人(つみびと)がイエス・キリストの系図(けいず)にあること自体が、けっして変わることのない神の愛が現されているのです。
神は不思議(ふしぎ)にも、大きな(つみ)を犯した人たちをご自分の目的のために用い、ご自分の計画の中に取り入れられるのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、(へだ)ての(かべ)を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意(てきい)廃棄(はいき)された方です。敵意(てきい)とは、さまざまの規定(きてい)から成り立っている(いまし)めの律法(りっぽう)なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現(じつげん)するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架(じゅうじか)によって神と和解(わかい)させるためなのです。敵意(てきい)十字架(じゅうじか)によって(ほうむ)()られました。」

(エペソ2:14-16

知恵のことば、イエス様こそ日々の宝

箴言3章1-18節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月7日

<聖書>

自分を知恵(ちえ)のある者と思うな。【(しゅ)】を(おそ)れて、(あく)から(はな)れよ。それはあなたのからだを健康(けんこう)にし、あなたの(ほね)に元気をつける。あなたの財産(ざいさん)とすべての収穫(しゅうかく)初物(はつもの)で、【(しゅ)】をあがめよ。そうすれば、あなたの(くら)(ゆた)かに()たされ、あなたの(さか)ぶねは新しいぶどう(しゅ)であふれる。わが子よ。【(しゅ)】の()らしめをないがしろにするな。その叱責(しっせき)をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、【(しゅ)】は愛する者をしかる。(さいわ)いなことよ。知恵(ちえ)を見いだす人、英知(えいち)をいただく人は。それの(もう)けは(ぎん)(もう)けにまさり、その収穫(しゅうかく)黄金(おうごん)にまさるからだ。知恵(ちえ)真珠(しんじゅ)よりも(たっと)く、あなたの(のぞ)むどんなものも、これとは(くら)べられない。その右の手には長寿(ちょうじゅ)があり、その左の手には(とみ)(ほま)れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵(ちえ)は、これを(かた)(にぎ)る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は(さいわ)いである。

箴言(しんげん)3章1-18節)

<説教>

箴言(しんげん)は、古今(ここん)東西(とうざい)、最大の知者(ちしゃ)ソロモンによって書かれました。いろいろな国でも箴言(しんげん)のように、ことわざを集めた(じっ)生活(せいかつ)知恵(ちえ)や人生の教訓は存在します。しかし、箴言(しんげん)は神を(おそ)れ、神を礼拝(れいはい)する者が、神のおしえに(したが)って、どのように日常(にちじょう)生活(せいかつ)を歩むかという訓練(くんれん)の書です。

箴言(しんげん)を読むときのひとつの参考(さんこう)を以下にご紹介します。

知恵(ちえ)

生活の知恵(ちえ)という意味ではなく、神との関係から教えられることで、神を(おそ)れることが知恵(ちえ)の始まりです。

(おろ)かな者】

知恵(ちえ)のある者の反対として(おろ)かなもの、なまけ者のことが書かれています。(はたら)(もの)(あり)から学びなさいと言われます。

【友】

箴言(しんげん)では友、隣人(となりびと)についてもよく出てきます。友とは、どんな時にも愛するものである。自分に敵対(てきたい)するような人に対しても、よき隣人(となりびと)として()()いなさいと書かれています。
本当の友を得るようにとの教えや、本当の友の()たす役割(やくわり)などについての教えもあります。

【ことば】

ことばを正しく使うことの重要(じゅうよう)さも教えています。最上(さいじょう)のことばは、正しい(もの)の心から発するのだと、(ふか)く心の問題をあらわしています。
イエス様は、人は心にあることをことばにすると言われます。

【おしえ】

子どもについておしえが大切であることも書いています。正しい道への方向を教え、正しいいのちの道を自分で(えら)ぶことができるように(みちび)くのがおしえです。

しかし、箴言(しんげん)全体についても言えることですが、どんなによい教育(きょういく)訓練(くんれん)であっても、知恵(ちえ)(おし)()むことはできないということです。それらは、知恵(ちえ)を求める道を(えら)ぶようにと心を向けさせるものに()ぎません。

わたしの叱責(しっせき)に心を()めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの(れい)(そそ)ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。

箴言(しんげん)1:23)

【いのちの木】

神を(おそ)れ、悪から(はな)れ、神との正しい関係にある者に(あた)えられる祝福(しゅくふく)長寿(ちょうじゅ)平安(へいあん)(新約では(すく)いの意味)、いのちです。これは、霊的(れいてき)な永遠のいのちに(いた)祝福(しゅくふく)です。地上の、物質の、一時的な祝福(しゅくふく)ではなく、天の、霊的(れいてき)な、永遠の祝福(しゅくふく)はまことの(すく)(ぬし)、イエス・キリストによって(あた)えられます。
箴言(しんげん)には、いのちの木のほかに、いのちの(いずみ)、いのちの道ともあります。いのちの道はいのちに(いた)る道という意味と、いのちに(ぞく)する道という意味でもあります。
その反対は、死への道、よみ、(ほろ)びの(ふち)、やみなど、悪者の運命として書かれています。これは神をあざける者がいく道と聖書は言います。

(しゅ)】を(おそ)れることは知識の初めである。(おろ)か者は知恵(ちえ)訓戒(くんかい)をさげすむ。

箴言(しんげん)1:7)

箴言(しんげん)中心(ちゅうしん)聖句(せいく)でもあります。

(しゅ)(おそ)れることは知恵(ちえ)であり、(しゅ)をあざける者は(おろ)か者です。そして(おろ)か者は、なまけ者でもあります。(しゅ)(おそ)れることなく、本当の友にも、隣人(となりびと)にもなることはできず、人の(とく)を高めることばを(はっ)することもできません。夫婦、親子、兄弟など家族間の関係もまた、神を(おそ)れることによって正しくされます。

神を(おそ)れることがいのちであり、神をあざけることが死なのです。

なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、【(しゅ)】から(めぐ)みをいただくからだ。わたしを見失(みうしな)う者は自分(じぶん)自身(じしん)をそこない、わたしを(にく)む者はみな、死を愛する。」

箴言(しんげん)8:35-36)

神のことばとして、イエス・キリストはこの世に来られました。

イエス・キリストを信じる者は、神の知恵(ちえ)のことば、箴言(しんげん)預言(よげん)された祝福(しゅくふく)をいただいて日々、生きることができます。

天の御国(みくに)は、畑に(かく)された(たから)のようなものです。人はその(たから)を見つけると、それを(かく)しておいて、大喜(おおよろこ)びで帰り、持ち物を全部()(はら)ってその畑を買います。

(マタイの福音書13:44

表裏のない生き方

ルカの福音書12章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月31日

<聖書>

そうこうしている(あいだ)に、おびただしい(かず)群衆(ぐんしゅう)が集まって来て、(たが)いに足を()み合うほどになった。イエスはまず弟子(でし)たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン(だね)に気をつけなさい。それは彼らの偽善(ぎぜん)のことです。
おおいかぶされているもので、(あらわ)されないものはなく、(かく)されているもので、知られずに()むものはありません。
ですから、あなたがたが(くら)やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上(おくじょう)で言い広められます。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを(おそ)れてはいけません。
(おそ)れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに()()権威(けんい)を持っておられる方を(おそ)れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を(おそ)れなさい。
五羽(ごわ)(すずめ)は二アサリオンで売っているでしょう。そんな(すずめ)一羽(いちわ)でも、神の御前(みまえ)には(わす)れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな(かぞ)えられています。(おそ)れることはありません。あなたがたは、たくさんの(すずめ)よりもすぐれた者です。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で(みと)める者は、人の子もまた、その人を神の御使(みつか)いたちの前で(みと)めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使(みつか)いたちの前で知らないと言われます。

(ルカの福音書12章1-9節)

<説教>

あなたの生き方は表裏(おもてうら)があるでしょうか。

今日の聖書(せいしょ)箇所(かしょ)でイエス様が言われる「偽善(ぎぜん)」とは、もともとは役を(えん)じる意味でした。そかから、仮面をかぶって、()い人を(えん)じる意味になりました。

(つく)られたもので、神の前で(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(ヘブル人への手紙4:13

神さまはすべてのことをご存知(ぞんじ)です。そのことを信じられない人間は、秘密(ひみつ)(かく)しおおせると高ぶり、(つみ)(おか)すのです。(だれ)にも見つからなければ大丈夫(だいじょうぶ)だと思い込んでいます。

人生に表裏(おもてうら)があってはならないのです。()い人間を(えん)じる必要はないのです。神さまと自分を(いつわ)って生きて幸せになることなどできません。

神さまは、()い人間を(よそお)うのが上手(じょうず)な人より、(おろ)かであっても正直な罪人(つみびと)(えら)ばれます。ありのままで神様を信じていいのです。

神さまの教えに熱心(ねっしん)であったパリサイ人と言われる人たちは、見た目は立派(りっぱ)でしたが、内面の心は、(わる)(よく)でいっぱいでした。信仰(しんこう)形式(けいしき)は守っていましたが、一番大切な神さまを愛することが()けていました。

何よりも彼らは、神さまの言葉を(つた)える預言者(よげんしゃ)たちを()(ばら)い、神さまの言葉に()(したが)いませんでした。そして、預言者(よげんしゃ)によって語られた(すく)(ぬし)イエス・キリストを信じずに、十字架(じゅうじか)に付けてしまいました。

イエス・キリストを信じることなしに、まことの神さまを知ることはできません。神さまを人生の中に(むか)えることなしに、生き方が変わることは決してありません。

イエス様を信じる者は(つみ)(ゆる)されるのです。神の前に()(正しい者)とされ、その(れい)(たましい)は決して(ほろ)ぶことはありません。しかし、生まれたままの罪人(つみびと)のままで死を(むか)えるなら、肉体も(たましい)もゲヘナと言われる(ほろ)びの(ふち)へ投げ込まれてしまいます。人間はこの権威(けんい)を持つ神さまこそを恐れなければならないのです。

値段(ねだん)が付かない価値(かち)のない(すずめ)さえも神さまはご存知(ぞんじ)です。まして、あなたは(すずめ)よりもはるかに価値(かち)のある存在(そんざい)です。あなたの(かみ)()もみな数えられる神さまを、あなたの人生にお(むか)えするなら、もう表裏(おもてうら)のある人生、()い人を(えん)じる人生から解放(かいほう)されます。神さまの前に真実に生きることができるように日々、あなたに関わってくださいます。

イエス様が十字架(じゅうじか)で死んでくださったのは、あなたというかけがえのない存在(そんざい)のためなのです。神さまはあなたを(あい)されています。これが聖書の一番大切なメッセージ(福音(ふくいん))です。

新しい年をイエス様とともに、(あい)平安(へいあん)感謝(かんしゃ)()(あふ)れますようにお祈りします。

約束のメシヤは罪からの救い主

マタイの福音書1章16節-23節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月24日クリスマス礼拝

<聖書>

ヤコブにマリヤの(おっと)ヨセフが生まれた。キリストと()ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの(だい)が全部で十四(だい)、ダビデからバビロン移住(いじゅう)までが十四(だい)、バビロン移住(いじゅう)からキリストまでが十四(だい)になる。
イエス・キリストの誕生(たんじょう)は次のようであった。その母マリヤはヨセフの(つま)と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊(せいれい)によって身重(みおも)になったことがわかった。
おっと)のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密(ないみつ)に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い(めぐ)らしていたとき、(しゅ)使(づか)いが(ゆめ)(あらわ)れて言った。「ダビデの子ヨセフ。(おそ)れないであなたの(つま)マリヤを(むか)えなさい。その(たい)宿(やど)っているものは聖霊(せいれい)によるのです。マリヤは男の子を()みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の(たみ)をその(つみ)から(すく)ってくださる方です。」
このすべての出来事(できごと)は、(しゅ)預言者(よげんしゃ)(とお)して言われた事が成就(じょうじゅ)するためであった。
「見よ、処女(しょじょ)がみごもっている。そして男の子を()む。その名はインマヌエルと()ばれる。」((やく)すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

(マタイの福音書1章17節-23節)

<説教>

神は天地(てんち)万物(ばんぶつ)創造(そうぞう)され、イスラエルの歴史(れきし)支配(しはい)され、今も生きて働いて万物(ばんぶつ)(ささ)えておられます。

しかし、人は力ある神よりも、見えるものや権力(けんりょく)(たよ)ってしまいます。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)には、BC700頃、ユダの王アハズが、敵国(てきこく)に攻められ、恐れの中で神に信頼(しんらい)することができなくなったとき、神が預言(よげん)のことばによりご自身を現されました。

「それゆえ、(しゅ)みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女(しょじょ)がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

(イザヤ書7:14)

「インマヌエル」それは、いかなる状況(じょうきょう)の中でも、すべての主権者(しゅけんしゃ)である神があなたと共におられるという真理(しんり)です。

このアハズ王に対する神の預言(よげん)は、究極的(きゅうきょくてき)にはそれから約700年後のキリストの誕生によって成就(じょうじゅ)しました。それが世界で最初のクリスマスです。

歴史(れきし)はキリスト誕生(たんじょう)から西暦(せいれき)が始まります。キリストは十字架(じゅうじか)()かり、ただ信じる者が(すく)われる新しい契約(けいやく)の時代になりました(旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)から新約(しんやく)聖書(せいしょ)へ)。

神の約束のことばによって、この世に来られたメシヤ、イエス・キリストは、信じる者に(つみ)(ゆる)しをくださる(すく)(ぬし)です。人間の問題はこの(つみ)にあるのです。

(つみ)による神と人間との(へだ)ての(かべ)()(こわ)して、いかなる時も、永遠に共にいてくださるインマヌエルの神さまです。そこにだけ、まことの平安があります。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

(マタイ28:20

良い忠実なしもべと悪いなまけ者のしもべ

マタイの福音書25章14節-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月17日

<聖書>

天の御国(みくに)は、しもべたちを()んで、自分の財産(ざいさん)(あず)け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力(のうりょく)(おう)じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを(わた)し、それから旅に出かけた。
五タラント(あず)かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント(あず)かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント(あず)かった者は、出て行くと、地を()って、その主人の金を(かく)した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算(せいさん)をした。
すると、五タラント(あず)かった者が来て、もう五タラント()()して言った。『ご主人さま。私に五タラント(あず)けてくださいましたが、ご(らん)ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実(ちゅうじつ)なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を(まか)せよう。主人の(よろこ)びをともに(よろこ)んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント(あず)かりましたが、ご(らん)ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実(ちゅうじつ)なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を(まか)せよう。主人の(よろこ)びをともに(よろこ)んでくれ。』
ところが、一タラント(あず)かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、()かない所から()()り、()らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に(かく)しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が()かない所から()()り、()らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に(あず)けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息(りそく)がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から()()げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、(あた)えられて(ゆた)かになり、持たない者は、持っているものまでも()()げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに()()しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

(マタイの福音書25章14節-30節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)24、25章は終末(しゅうまつ)に関するイエス様の教えです。

24章1-44節は、エルサレムの滅亡(めつぼう)終末(しゅうまつ)前兆(ぜんちょう)、イエス様の再臨(さいりん)(世の終わりにイエス様がこの世に来られること)です。24章45節から25章は、イエス様の再臨(さいりん)に、どのように(そな)えるかの3つのたとえです。

イエス様を信じる者は、神さまから必ず何らかの賜物(たまもの)が与えられています。

ひ とりひとりにふさわしい神さまによって定められた賜物(たまもの)です。ある人は5タラント、ある人は2タラント、別の人は1タラントといった具合(ぐあい)にです。

1タラントは労働者(ろうどうしゃ)の6000日分の給料です。1タラントの賜物(たまもの)と言っても、決して小さなものではありません。

イエス様がもう一度この世に来られる再臨(さいりん)は、いつかは誰にもわかりません。しかし、再臨(さいりん)までのときは無意味ではなく、それぞれが、任された与えられた賜物(たまもの)を、活用して生かす時なのです。

しかし、1タラント(あず)かった者は、それを活用して、失敗(しっぱい)することを(おそ)れて、使わずに(かく)していまいます。あるいは自分に与えられた賜物をちっぽけなものと考えたのかも知れません。

やがて私たちは、終わりの日に清算(せいさん)のときを迎えます。大切なのは、いくら(もう)けたかではなく、それを実際(じっさい)に活用したかどうかが問われる清算(せいさん)です。

このたとえの中心は、私たちが、「忠実(ちゅうじつ)」であったかどうかです。与えられた賜物(たまもの)を神さまのために活用したかどうかです。そして、忠実(ちゅうじつ)賜物(たまもの)を用いた者は、天の御国(おんくに)での賜物(たまもの)を任されるのです。それはこの世では大きな富である5タラントのお金とは比べられない、莫大(ばくだい)な神の資産(しさん)です。

小さい事に忠実(ちゅうじつ)な人は、大きい事にも忠実(ちゅうじつ)であり、小さい事に()忠実(ちゅうじつ)な人は、大きい事にも()忠実(ちゅうじつ)です。

(ルカ16:10

このたとえは、良い忠実(ちゅうじつ)なしもべと、悪いなまけ者のしもべとして比べられています。

良いしもべは、神さまが喜ばれることを、自分の喜びとして、忠実(ちゅうじつ)に仕えた者です。それに対して、悪いなまけ者のしもべとは、自分が神様のしもべであることを不平に思って、神さまに対して間違った考えをして、神さまに(したが)えないことを言い訳するしもべです。

あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

(マタイ25:21

これが、人間が神様に造られた目的です。神さまは、私たちが神様とともに喜んで生きるために、命を与えてくださったのです。人間は、神さまが与えてくださる恵みと愛を受けて感謝して、神さまに(ささ)げ、(したが)うとき、一番幸せなのです。

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

(マタイ25:29

これは、不変(ふへん)法則(ほうそく)真理(しんり)です。

与えられた(賜物(たまもの)能力(のうりょく)は、使わないと、失われてしまうのです。どんな素晴らしい道具も使わないと(さび)ついてしまうのです。しかし、能力、才能は使うならば、どんどん磨かれてさらに用いられていきます。

神さまがあなたに与えてくださった素晴らしい賜物(たまもの)は、誰かと比べることではありません。それを、自分のためだけでなく、神さまのために、誰かのために、喜んで活用しましょう。それは、何よりも必ず、あなたの喜びとなります。