良い忠実なしもべと悪いなまけ者のしもべ

マタイの福音書25章14節-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月17日

<聖書>

天の御国(みくに)は、しもべたちを()んで、自分の財産(ざいさん)(あず)け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力(のうりょく)(おう)じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを(わた)し、それから旅に出かけた。
五タラント(あず)かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント(あず)かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント(あず)かった者は、出て行くと、地を()って、その主人の金を(かく)した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算(せいさん)をした。
すると、五タラント(あず)かった者が来て、もう五タラント()()して言った。『ご主人さま。私に五タラント(あず)けてくださいましたが、ご(らん)ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実(ちゅうじつ)なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を(まか)せよう。主人の(よろこ)びをともに(よろこ)んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント(あず)かりましたが、ご(らん)ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実(ちゅうじつ)なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を(まか)せよう。主人の(よろこ)びをともに(よろこ)んでくれ。』
ところが、一タラント(あず)かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、()かない所から()()り、()らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に(かく)しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が()かない所から()()り、()らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に(あず)けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息(りそく)がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から()()げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、(あた)えられて(ゆた)かになり、持たない者は、持っているものまでも()()げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに()()しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

(マタイの福音書25章14節-30節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)24、25章は終末(しゅうまつ)に関するイエス様の教えです。

24章1-44節は、エルサレムの滅亡(めつぼう)終末(しゅうまつ)前兆(ぜんちょう)、イエス様の再臨(さいりん)(世の終わりにイエス様がこの世に来られること)です。24章45節から25章は、イエス様の再臨(さいりん)に、どのように(そな)えるかの3つのたとえです。

イエス様を信じる者は、神さまから必ず何らかの賜物(たまもの)が与えられています。

ひ とりひとりにふさわしい神さまによって定められた賜物(たまもの)です。ある人は5タラント、ある人は2タラント、別の人は1タラントといった具合(ぐあい)にです。

1タラントは労働者(ろうどうしゃ)の6000日分の給料です。1タラントの賜物(たまもの)と言っても、決して小さなものではありません。

イエス様がもう一度この世に来られる再臨(さいりん)は、いつかは誰にもわかりません。しかし、再臨(さいりん)までのときは無意味ではなく、それぞれが、任された与えられた賜物(たまもの)を、活用して生かす時なのです。

しかし、1タラント(あず)かった者は、それを活用して、失敗(しっぱい)することを(おそ)れて、使わずに(かく)していまいます。あるいは自分に与えられた賜物をちっぽけなものと考えたのかも知れません。

やがて私たちは、終わりの日に清算(せいさん)のときを迎えます。大切なのは、いくら(もう)けたかではなく、それを実際(じっさい)に活用したかどうかが問われる清算(せいさん)です。

このたとえの中心は、私たちが、「忠実(ちゅうじつ)」であったかどうかです。与えられた賜物(たまもの)を神さまのために活用したかどうかです。そして、忠実(ちゅうじつ)賜物(たまもの)を用いた者は、天の御国(おんくに)での賜物(たまもの)を任されるのです。それはこの世では大きな富である5タラントのお金とは比べられない、莫大(ばくだい)な神の資産(しさん)です。

小さい事に忠実(ちゅうじつ)な人は、大きい事にも忠実(ちゅうじつ)であり、小さい事に()忠実(ちゅうじつ)な人は、大きい事にも()忠実(ちゅうじつ)です。

(ルカ16:10

このたとえは、良い忠実(ちゅうじつ)なしもべと、悪いなまけ者のしもべとして比べられています。

良いしもべは、神さまが喜ばれることを、自分の喜びとして、忠実(ちゅうじつ)に仕えた者です。それに対して、悪いなまけ者のしもべとは、自分が神様のしもべであることを不平に思って、神さまに対して間違った考えをして、神さまに(したが)えないことを言い訳するしもべです。

あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

(マタイ25:21

これが、人間が神様に造られた目的です。神さまは、私たちが神様とともに喜んで生きるために、命を与えてくださったのです。人間は、神さまが与えてくださる恵みと愛を受けて感謝して、神さまに(ささ)げ、(したが)うとき、一番幸せなのです。

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

(マタイ25:29

これは、不変(ふへん)法則(ほうそく)真理(しんり)です。

与えられた(賜物(たまもの)能力(のうりょく)は、使わないと、失われてしまうのです。どんな素晴らしい道具も使わないと(さび)ついてしまうのです。しかし、能力、才能は使うならば、どんどん磨かれてさらに用いられていきます。

神さまがあなたに与えてくださった素晴らしい賜物(たまもの)は、誰かと比べることではありません。それを、自分のためだけでなく、神さまのために、誰かのために、喜んで活用しましょう。それは、何よりも必ず、あなたの喜びとなります。

正しさにまさる愛~十字架の赦し

ヨハネの福音書7章53節-8章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月10日

<聖書>

〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度(みや)に入られた。民衆(みんしゅう)はみな、みもとに()って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法(りっぽう)学者(がくしゃ)とパリサイ人が、姦淫(かんいん)の場で()らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に()いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫(かんいん)現場(げんば)でつかまえられたのです。
モーセは律法(りっぽう)の中で、こういう女を(いし)()ちにするように(めい)じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発(こくはつ)する理由(りゆう)()るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで(つみ)のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、(ねん)長者(ちょうしゃ)たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり(のこ)された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを(つみ)に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを(つみ)に定めない。行きなさい。今からは決して(つみ)(おか)してはなりません。」〕

(ヨハネの福音書7章53節-8章11節)

<説教>

律法(りっぽう)学者(がくしゃ)とパリサイ人が、姦淫(かんいん)の場で()らえられたひとりの女を連れて来て(ヨハネ8:3)

当時のユダヤ社会では、殺人と偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)、そして、この姦淫(かんいん)刑罰(けいばつ)死刑(しけい)です(石打ち)。

この女を(つみ)に定めるのか、どうするかによって彼らはイエスを(わな)にかけて、議会(ぎかい)告発(こくはつ)して、(ほうむ)()ろうとします。

律法(りっぽう)学者(がくしゃ)らは、姦淫(かんいん)の女をイエスや群衆(ぐんしゅう)の真ん中に置きます。彼らは、もはや(つみ)(おか)した女を、まるでもののように(あつか)いました。イエスを(おとしい)れるための道具のように。

しかし、イエスは(おどろ)くべきことを言われます。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで(つみ)のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

(ヨハネ8:7)

それは、姦淫(かんいん)(つみ)(おか)しただけでなく、心の中で(みだ)らなことを一度も考えたことのないものだけが、この女に石を投げることができるという意味でした。

姦淫(かんいん)(つみ)()(ざい)です。婚姻(こんいん)関係(かんけい)のない者が性的な行為(こうい)を行うことは()(ざい)です。

しかし、イエスは女を(つみ)に定めるのではなく、女を連れてきた連中(れんちゅう)や、好奇(こうき)な目で女を冷たく見る群衆(ぐんしゅう)たちの(つみ)指摘(してき)したのです。

自分が正しいと考えることは、多くの場合、(つみ)根本的(こんぽんてき)姿勢(しせい)と言えます。イエスの前では、(だれ)も自分に(つみ)がないと言って、女に石を投げることはできないのです。

(だれ)も人の(つみ)はもとより、些細(ささい)なことを人間的な判断(はんだん)でさばいてはいけないと聖書(せいしょ)は教えます。それよりも自分の(つみ)をよく吟味(ぎんみ)すべきです。

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の(はり)には気がつかないのですか。

(マタイ7:3)

ひとり、またひとり()っていき、イエスと女だけが(のこ)りました。イエスに女を非難(ひなん)する姿勢(しせい)は見られません。

そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを(つみ)(さだ)めない。行きなさい。今からは決して(つみ)(おか)してはなりません。」

(ヨハネ8:11)

いかなる権威(けんい)ある律法(りっぽう)法律(ほうりつ))もその正しさだけで、いかなる人もさばいてはいけないのです。どんな(つみ)(おか)した者にも、その人格(じんかく)(みと)め、(つみ)(さだ)めることが最終的(さいしゅうてき)目標(もくひょう)ではなく、その人を(ぜん)に向かわせることが目的なのです。

イエスは、その人の過去(かこ)をご(らん)になるでしょう。しかし、その人の未来をもご(らん)になるのです。その人のこれからの生き方を信じて、その(つみ)(ゆる)されようとします。かつての(つみ)(びと)が、イエスを信じることにより、善人(ぜんにん)(あい)の人に変えられることをイエスは何より信じているのです。

この「イエスと姦淫(かんいん)の女」の記事は、姦淫(かんいん)(つみ)が軽くあしらわれることを恐れて、写本(しゃほん)によっては(はぶ)かれています。

しかし、イエスは姦淫(かんいん)(つみ)をいとも簡単に(ゆる)されたのではありません。この女性だけでなく、彼女を告発(こくはつ)した律法(りっぽう)学者(がくしゃ)やパリサイ人たち、いえ、すべての人間の(つみ)十字架(じゅうじか)の上で、ご自身の(つみ)として受けようとされるお方の(つみ)(ゆる)しの宣言(せんげん)です。

今からは決して(つみ)(おか)してはなりません。(ヨハネ8:11)

(ゆる)された者としての、(つみ)との戦いがあるでしょう。しかし、イエス様は私たちをどこまでも信じてくださいます。また(つみ)()()つ力も(あた)えてくださいます。

(つみ)人は(つみ)(さだ)められて当然(とうぜん)と考えるかも知れません。しかし神さまの道は人間とはまったく(ちが)うのです。

(しゅ)】を(もと)めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、()(もと)めよ。

悪者(わるもの)はおのれの道を()て、不法者(ふほうしゃ)はおのれのはかりごとを()()れ。【(しゅ)】に帰れ。そうすれば、(しゅ)はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。(ゆた)かに(ゆる)してくださるから。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと(こと)なり、わたしの道は、あなたがたの道と(こと)なるからだ。──【(しゅ)】の御告(みつ)げ──

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

(イザヤ55:6-9

神さまは、罪人である人間を(つみ)(さだ)めることより、その(つみ)をご自身のひとり子であるイエス・キリストによって(つみ)刑罰(けいばつ)を受けてくださいました。なぜなら神は(あい)だからです。

人として来られたイエス様は、罪人(つみびと)をさばきません。神さまはイエス様にさばく権威(けんい)(あた)えられていることも事実です。しかし、神さまはイエス様の十字架(じゅうじか)によって(つみ)(ゆる)しを用意してくださいました。

その(すく)いに対して、その人がどのように応答(おうとう)するか、その態度(たいど)姿勢(しせい)(これを信仰(しんこう)と言います)によって(つみ)(さだ)められるのです。

罪赦された者として愛に生きる

ルカの福音書7章36-50節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月26日

<聖書>

さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを(まね)いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓(しょくたく)()かれた。
すると、その町にひとりの罪深(つみぶか)い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓(しょくたく)()いておられることを知り、香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足(みあし)のそばに立ち、(なみだ)御足(みあし)をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足(みあし)に口づけして、香油(こうゆ)()った。
イエスを(まね)いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者(よげんしゃ)なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深(つみぶか)い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸(かねか)しから、ふたりの者が金を()りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ()りていた。
彼らは(かえ)すことができなかったので、金貸(かねか)しはふたりとも(ゆる)してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸(かねか)しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに(ゆる)してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断(はんだん)は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を(あら)う水をくれなかったが、この女は、(なみだ)でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に(あぶら)()ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油(こうゆ)()ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの(つみ)(ゆる)されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの(つみ)(ゆる)されています」と言われた。
すると、いっしょに食卓(しょくたく)にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「(つみ)(ゆる)したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰(しんこう)が、あなたを(すく)ったのです。安心して行きなさい。」

(ルカの福音書7章36-50節)

<説教>

パリサイ人のシモンはイエスを食事に(まね)きました。

そこに(まね)かざる、ひとりの罪深(つみぶか)い女がイエスのために自分のできる最高の愛を(ささ)げます。

町中の者が、この女の悪い(うわさ)を知っていました。おそらく遊女(ゆうじょ)であったと思われます。この女自身が、自分の罪深(つみぶか)い生き方をこれ以上続けられないどん(ぞこ)(くる)しんでいました。そんな時、イエスの(うわさ)を聞きました。

イエスは多くの人々を病気と(くる)しみと悪霊(あくれい)からいやし、死人をよみがえらせ、(まず)しい者たちに(つみ)(すく)いの福音(ふくいん)()(つた)えていました(ルカ7:21-23)。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫(じょうぶ)な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を(まね)くためではなく、罪人(つみびと)(まね)くために来たのです。』」

(マルコの福音書2:17)

もう女は、明日を生きる力もありませんでした。なぜこんな人生になってしまったのか。愛されたい。心から(よろこ)んで生きたい…すべての希望(きぼう)は消え去っていきました。

そんなときにイエス様のことを聞いたのです。そして、彼女はイエス様を信じて、心のありのままをイエス様に祈ったのです。

その瞬間(しゅんかん)でした。彼女の重い心が、傷が、罪責(ざいせき)が取り去られたのです。

内から(あふ)れる愛と感謝を()さえきれずに、彼女はイエス様に会いに行きます。

このパリサイ人のシモンはイエスを預言者(よげんしゃ)かも知れないと思いました。今、あちこちで評判(ひょうばん)のイエスの人気にあやかろうと(まね)きました。当時の客人(きゃくじん)をもてなす当たり前の、足を洗う水も、祝福(しゅくふく)の口づけも彼にはありませんでした。

罪深(つみぶか)い女とシモンの(ちが)いは何でしょうか。それは自分の(つみ)自覚(じかく)(ちが)いです。

イエスが言われた、たとえの借金(しゃっきん)金額(きんがく)のように、自分の(つみ)数量(すうりょう)(はか)ることはできません。ただ自分の(つみ)自覚(じかく)によるのです。そしてパリサイ人シモンと女の(ちが)いは、愛する生き方において明らかになるのです。

「だから、わたしは『この女の多くの(つみ)(ゆる)されている』と言います。
それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」

(ルカの福音書7:47

神はどんな(つみ)(ゆる)してくださるのでしょうか。そうです。(ゆる)されない(つみ)はありあません。

人間ならば、償い切れない(つみ)があるかも知れません。しかし、神の前では(ゆる)されない(つみ)はないのです。それは、私たちが(つみ)を償うのではなく、キリストが人間が()うべき(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)でご自身のきよい命によって払ってくださったからです。

シモンはイエスが(つみ)(ゆる)しを宣言(せんげん)した事実(じじつ)が、わかりませんでした。

しかし、この罪深(つみぶか)い女が、香油(こうゆ)()り、(なみだ)でぬらして、髪の毛でぬぐった御足(みあし)、そのお方は預言者(よげんしゃ)どころか、この地上で唯一(ゆいいつ)、人間の(つみ)(ゆる)すことが出来るお方、(すく)(ぬし)だったのです(マルコ2:10、使徒4:12)。

すべての人は、神を見なければなりません。このキリストなる神さまによって(つみ)(ゆる)されなければなりません。その重荷(おもに)はあなた一人で()うにはあまりにも重すぎるのです。

この女の姿こそが信仰(しんこう)に生きる者の姿です。

信仰(しんこう)がなくては、神に(よろこ)ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

(ヘブル人への手紙11:6

「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰(しんこう)が、あなたを(すく)ったのです。安心して行きなさい。」」

(ルカの福音書7:50

この「安心して行きなさい」は平安に入りなさいという意味です。

そして、(ゆる)された者は、愛する者として生きるのです。

イエスを信じて(つみ)重荷(おもに)をおろして、愛と平安と(よろこ)びの人生に生きていこうではありませんか。

土の器~闇から光へ

コリント人への手紙第二3章16節-4章7節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月19日

<聖書>

しかし、人が(しゅ)に向くなら、そのおおいは()(のぞ)かれるのです。
(しゅ)御霊(みたま)です。そして、(しゅ)御霊(みたま)のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを()りのけられて、(かがみ)のように(しゅ)栄光(えいこう)反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、(しゅ)と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる(しゅ)の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、あわれみを()けてこの(つと)めに(にん)じられているのですから、勇気(ゆうき)(うしな)うことなく、
()ずべき(かく)された事を()て、悪巧(わるだく)みに歩まず、神のことばを()げず、真理を明らかにし、神の御前(みまえ)で自分自身をすべての人の良心(りょうしん)推薦(すいせん)しています。
それでもなお私たちの福音(ふくいん)におおいが()かっているとしたら、それは、(ほろ)びる人々の場合に、おおいが()かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光(えいこう)にかかわる福音(ふくいん)の光を(かがや)かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を()(つた)えるのではなく、(しゅ)なるキリスト・イエスを()(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに(つか)えるしもべなのです。
「光が、やみの中から(かがや)き出よ」と言われた神は、私たちの心を()らし、キリストの御顔(みかお)にある神の栄光(えいこう)を知る知識(ちしき)(かがや)かせてくださったのです。
私たちは、この(たから)を、(つち)(うつわ)の中に入れているのです。それは、この(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(コリント人への手紙第二3章16節-4章7節)

<説教>

①人間の心は(おお)いが()かっていて、自分の力で神を知ることができません。

この手紙を書いたパウロも、昔は神に(さか)らい、キリスト者を迫害(はくがい)していました。しかし、神の光がパウロの心を()らし、よみがえられたキリストと出会い、神を信じる者に変えられました。

②この世の神(悪魔(あくま))が人間の思いに(おお)いを()けて、神を知ることを(さまた)げています。

それは、(ほろ)びる人々の場合に、おおいが()かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音(ふくいん)の光を(かがや)かせないようにしているのです。

(Ⅱコリント4:3-4

では、人間は神を知り、信じることはできないのでしょうか。

いいえ。悪魔(あくま)は人間の心に(おお)いを()けても、神は、人間の心を光で()らしてくださいます。

人が自分の(つみ)を認め、()(あらた)めるとき、神はそのように働いてくださいます。

③人間は神に心を()らしていただき、キリストを通して神を知ることができるのです。

パウロは、福音(ふくいん)(キリストを信じるなら、人は(すく)われるというよい知らせ)に仕える者とされました。しかし、パウロは言います。

私たちは自分自身を()(つた)えるのではなく、主なるキリスト・イエスを()(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに(つか)えるしもべなのです。

(Ⅱコリント4:5)

パウロは自分のことではなく、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを()(つた)えました。キリスト者であっても(よわ)く、(おろ)かなものですが、自分のすべての(つみ)(あがな)って((すく)って)くださったキリストにふさわしい生き方へ向かい、変えられていきます。

そのことをパウロは、次のみことばにたとえています。

私たちは、この(たから)を、(つち)(うつわ)の中に入れているのです。それは、この(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(Ⅱコリント4:7)

古代(こだい)ローマでは、(つち)(うつわ)金貨(きんか)銀貨(ぎんか)をいれてしまっておく習慣(しゅうかん)がありました。凱旋(がいせん)将軍(しょうぐん)行軍(こうぐん)はこの(つち)(うつわ)をもっていました。

キリストを信じた者も、神の子とされ、天国へいくことを約束された勝利者(しょうりしゃ)です。しかし、この世で苦難(くなん)(なや)みがあり、自分の(よわ)さや(おろ)かさが完全になくなることはありません。

しかし、それであってもキリスト者は偉大(いだい)勝利者(しょうりしゃ)なのです。しかし、その偉大(いだい)さは、彼らの中にある福音、キリストの栄光(えいこう)によるのです。

神の偉大(いだい)さとは、(よわ)い私たちを用いて、偉大(いだい)なことをしてくださることです。パウロはその神のあわれみによって人生が変えられました。神に(つく)られた人間へと回復(かいふく)されたのです。

聖書(せいしょ)は人間を、陶器師(とうきし)である神に(つく)られた(つち)(うつわ)にたとえています。(よわ)くこわれやすい人間であるが、神に(つく)られた(とうと)存在(そんざい)です。(よわ)き小さい私の中に、(くら)べることのできない(はか)り知れない神の(めぐ)み、愛、力が生きているのです。

神は信じるわたしたちの(おお)いを()(のぞ)いて、キリストの(かがや)きを、反射(はんしゃ)させるように私たちを(かがや)かせてくださいます。そして、もはや反射(はんしゃ)でなく、私たちをキリストに()た者へと変え続けてくださるのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは()(のぞ)かれるのです。主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊(みたま)のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを()りのけられて、(かがみ)のように主の栄光(えいこう)反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主の働きによるのです。

(Ⅱコリント3:16-18

イエス様と最後まで生きる

ヘブル人への手紙12章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月12日

<聖書>

こういうわけで、このように多くの証人(しょうにん)たちが、(くも)のように私たちを()()いているのですから、私たちも、いっさいの重荷(おもに)とまつわりつく(つみ)とを()てて、私たちの前に()かれている競走(きょうそう)忍耐(にんたい)をもって走り続けようではありませんか。
信仰(しんこう)創始者(そうししゃ)であり、完成者(かんせいしゃ)であるイエスから目を(はな)さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に()かれた(よろこ)びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架(じゅうじか)(しの)び、神の御座(みざ)の右に着座(ちゃくざ)されました。
あなたがたは、罪人(つみびと)たちのこのような反抗(はんこう)(しの)ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、(つか)()ててしまわないためです。

(へブル人への手紙12章1-3節)

<説教>

キリスト者として最後まで生きることは、決して簡単なことではないかも知れません。神さまに(したが)って生きるキリスト者は日本でも1%未満(みまん)と言われています。

聖書によるとイエス様の弟子として(したが)うキリスト者の歩みは「競争」なのです。

しかし、ヘブル人への手紙11章にある旧約聖書の信仰者が証人(しょうにん)として、私たちを(はげ)ましてくれます。ただの声援(せいえん)ではなく、最後まで信仰(しんこう)に生きた証人(しょうにん)としてです。

そして、何より父なる神さまに(したが)われたイエス様の信仰(しんこう)により、私たちもまた、このお方を目標として、また指導者(しどうしゃ)として、同伴者(どうはんしゃ)として歩んでいくのです。

旧約の信仰(しんこう)者と同様に、今の時代も罪の世であり、キリスト者として生きやすい所ではありません。

しかし、キリスト者として生きる問題は自分自身にあり、罪と重荷(おもに)を捨てて身軽(みがる)にして、競争を走り続けることが大切です。

ここでの罪とは「不信仰」です。一般的な信仰(しんこう)ではなく、御言葉(みことば)(したが)信仰(しんこう)です。

信仰(しんこう)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。                                                   (ヘブル人への手紙11:6)

そのために、イエス様を見上げ続けることです。この方を見るならば、罪によって神さまとの関係を失うことはありません。(つか)れて(すわ)()んでも、また希望(きぼう)と力が(あた)えられます。愛が生まれます。イエス様に()た者へと(つく)り変えてくださいます。

人間の罪によって、イエス様は十字架の苦しみとはずかしめを受けられましたが、よみがえりの先にある、神へつながる救いの道、信仰(しんこう)栄冠(えいかん)(よろこ)ばれました。

世の罪、また自分自身の罪により、苦難(くなん)がありますが、イエス様の信仰(しんこう)によって、栄光(えいこう)の勝利が約束されています。信仰(しんこう)がそれを確実(かくじつ)なものとしてくれるのです。

信仰(しんこう)は望んでいる事がらを保証(ほしょう)し、目に見えないものを確信(かくしん)させるものです。

(ヘブル人への手紙11:1

私たちの本当の(よろこ)びとは、大切な人が(よろこ)んでいることでしょう。そこから(よろこ)びは始まります。イエス様は、あなたを愛されて(よろこ)んでおられます。(よろこ)んでイエス様を見続けましょう。人生のゴールで、必ずイエス様はあなたを(むか)えてくださいます。

私は自分のからだを打ちたたいて(したが)わせます。それは、私がほかの人に()(つた)えておきながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)になるようなことのないためです。

(コリント人への手紙第一9:27

イエス様と共に愛に生きる

ルカの福音書10章25-37節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月5日

<聖書>

すると、ある律法(りっぽう)専門家(せんもんか)が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠(えいえん)のいのちを自分のものとして()けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法(りっぽう)には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『(こころ)()くし、(おも)いを()くし、(ちから)()くし、知性(ちせい)()くして、あなたの神である(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身(じしん)のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行(じっこう)しなさい。そうすれば、いのちを()ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人(となりびと)とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ(くだ)る道で、強盗(ごうとう)に襲われた。強盗(ごうとう)どもは、その人の着物(きもの)をはぎ取り、なぐりつけ、半殺(はんごろ)しにして()げて行った。
たまたま、祭司(さいし)がひとり、その道を(くだ)って来たが、彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り()ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り()ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、(たび)途中(とちゅう)、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄(ちかよ)って(きず)にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜(かちく)()せて宿屋(やどや)()れて行き、介抱(かいほう)してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋(やどや)の主人に(わた)して言った。『介抱(かいほう)してあげてください。もっと費用(ひよう)がかかったら、私が帰りに(はら)います。』
この三人の中でだれが、強盗(ごうとう)(おそ)われた者の隣人(となりびと)になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

(ルカの福音書10章25-37節)

<説教>

この律法(りっぽう)専門家(せんもんか)は、永遠(えいえん)のいのちを受けるために何を行えばいいのかイエスに質問しました。

すると彼は答えて言った。「『心を()くし、思いを()くし、力を()くし、知性(ちせい)()くして、あなたの神である(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

(ルカの福音書10:27)

このみことばは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にある律法(りっぽう)です。

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)

隣人(となりびと)とは(だれ)なのか、どのように愛するのか、その答えがイエスの語られた「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-37)の姿です。

律法(りっぽう)専門家(せんもんか)で神に(つか)える祭司(さいし)、レビ人は半殺(はんごろ)しになった人を見て反対側を通り()ぎて行きます。律法(りっぽう)では死人に()れると(けが)れ、神殿(しんでん)奉仕(ほうし)ができなくなる。また、介抱(かいほう)する者が強盗(ごうとう)(おそ)われる手口(てぐち)もよくあり、それを(おそ)れた…

しかし、自分を正しいとするいかなる理由も、神の前では通用しません。

それに対してサマリヤ人は

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中(とちゅう)、そこに来合(きあ)わせ、彼を見てかわいそうに思い、(ルカ10:33)

サマリヤ人のこの「かわいそうに思」う心こそがすべてなのです。この強盗(ごうとう)に襲われた人に対するあわれみの心によって、彼のすべての愛のわざが行なわれたのです。

祭司(さいし)、レビ人もわずかでも同情(どうじょう)があったはずなのです。私たちは、このあわれみを()ざしてはなりません。あわれみによって隣人(となりびと)が生まれるのです。だれかがあなたの隣人(となりびと)なのではありません。大切なのは、あなたが(だれ)かの隣人(となりびと)になれるということです。

この律法(りっぽう)専門家(せんもんか)は、何を行えば永遠のいのちを()るのか、また(だれ)がわたしの隣人(となりびと)なのかとイエスに聞きました。

人は()い行いによっては決して(すく)われません。人は愛を行うものとして神の()姿(すがた)創造(そうぞう)されたのです。()い行いをする神の()せて(つく)られたのです。神さまがあなたに何を(のぞ)んでおられるかを私たちは知っています。

私たちは神の作品であって、()い行いをするためにキリスト・イエスにあって(つく)られたのです。神は、私たちが()い行いに歩むように、その()い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

(エペソ2:10)

もっとも大切なことは愛なのです。同情(どうじょう)するだけではなく、具体的(ぐたいてき)行動(こうどう)(ともな)う愛です。聖書が言う愛は感情(かんじょう)ではなく、態度(たいど)姿勢(しせい)行動(こうどう)決断(けつだん)です。

愛は寛容(かんよう)であり、愛は親切(しんせつ)です。また人をねたみません。愛は自慢(じまん)せず、高慢(こうまん)になりません。礼儀(れいぎ)に反することをせず、自分の利益(りえき)(もと)めず、(いか)らず、人のした悪を思わず、不正を(よろこ)ばずに真理(しんり)(よろこ)びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待(きたい)し、すべてを()(しの)びます。愛は決して()えることがありません。

(Ⅰコリント13:4-8)

心が変われば人は変わります。愛された者は愛します。多く(ゆる)された者は多く愛します。いかなる人もイエスの愛に()れられ罪(ゆる)されたなら、新しい心に変えられ、新しく生きられるのです。

永遠のいのちは、この愛をイエスとともにあらわして生きることです。

イエス様の「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」

あなたを新しい生き方に変えるみ言葉です。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法(ふほう)から(あがな)い出し、()いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

(テトス2:14)

キリストの十字架~本当に生きるために死ぬ

ローマ人への手紙6章4-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月29日

<聖書>

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(みちち)栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活(ふっかつ)とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架(じゅうじか)につけられたのは、(つみ)のからだが(ほろ)びて、私たちがもはやこれからは(つみ)奴隷(どれい)でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、(つみ)から解放(かいほう)されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配(しはい)しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度(つみ)に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は(つみ)に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを(つみ)支配(しはい)にゆだねて、その情欲(じょうよく)(したが)ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義(ふぎ)()として(つみ)にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身(じしん)とその手足を()()として神にささげなさい。
というのは、(つみ)はあなたがたを支配(しはい)することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法(りっぽう)の下にはなく、(めぐ)みの下にあるからです。

(ローマ人への手紙6章4-14節)

<説教>

イエス・キリストを(しん)じて(すく)われたクリスチャンには何が()こったのか?クリスチャンとは何者でしょうか。

人間の内面(うちめん)で次のような事実(じじつ)()こった人のことだと言えます。

①古い自分の葬式(そうしき)

(つみ)性質(せいしつ)支配(しはい)された古い人は死んでいる。

②キリストとの結婚式(けっこんしき)

キリストとつながって一つに結合(けつごう)されている。

①生きるために死ななければならない

夏から朝顔(あさがお)がきれいに()いています。しかし秋になると花の()時期(じき)を終えます。花は()れて死にますが、その後には(たね)が出来て、また来年の夏にはきれいな花を()かせます。人間も(かみ)の毛、()(ほね)、からだは死んで新しく生まれ変わっています。生きるためにどんどん古い細胞(さいぼう)は死んで新しく作られるのです。 生まれ持っての人間の(つみ)(ぶか)性質(せいしつ)は、勉強(べんきょう)道徳(どうとく)教育(きょういく)善行(ぜんこう)修行(しゅぎょう)をしても、わずかでも()()ることはできません。ただ、人間の(つみ)のために十字架(じゅうじか)で流されたキリストも()しおによってのみきよめられるのです。キリストを(しん)じる者は、キリストが十字架(じゅうじか)(つみ)(たい)して死なれたように、(ふる)(つみ)性質(せいしつ)に死にます。神の力によっていかなる人も変えられます。

主人しゅじんが変わらなければならない

キリストを(しん)じる前は、私たちは(つみ)奴隷(どれい)状態(じょうたい)でした。死のもう一つの意味(いみ)は、分離(ぶんり)することです。(わか)れることです。キリストを(しん)じた者は、(つみ)支配(しはい)から(はな)れて、神のご支配(しはい)(うつ)されます。これも人間の努力(どりょく)頑張(がんば)りでは不可能(ふかのう)です。クリスチャンとは、すでに(つみ)支配(しはい)から自由にされている者です。これが事実(じじつ)です。

だから、キリスト者は、このイエス様が十字架(じゅうじか)(つみ)(たい)して一度死なれ、神に(たい)して永遠(えいえん)に生きることを、自分の人生で実際(じっさい)に生きる者であることを(おぼ)えなければなりません。

それは、あなたが(つみ)自我(じが)とこの()(たい)して死んだ者として、神さまの栄光(えいこう)素晴(すば)らしさ)のために、神と共に生きることです。

しかしクリスチャンも(ふる)性質(せいしつ)がこの地上(ちじょう)で生きる(かぎ)(のこ)っています。

ですから、地上(ちじょう)のからだの諸部分(しょぶぶん)、すなわち、不品行(ふひんこう)(けが)れ、情欲(じょうよく)(わる)(よく)、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)なのです。

(コロサイ人への手紙3:5)

また、現実(げんじつ)存在(そんざい)する(つみ)の力が私たちに24時間365日、(おそ)いかかってきます。

()(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、()()くすべきものを(さが)(もと)めながら、(ある)(まわ)っています。(かた)信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち(むか)かいなさい。

(Ⅰペテロ5:8-9)

(つみ)(ほろ)ぶべき肉体(にくたい)支配(しはい)して、情欲(じょうよく)(したが)わせることがないようにしなさい」

(ローマ6:12(べつ)(やく)

人間のからだを(つみ)支配(しはい)(まか)せてはいけません。不義(ふぎ)(うつわ)(ローマ6:13)とは「(するど)不義(ふぎ)武器(ぶき)」の意味(いみ)です。

しかし、(つみ)はもはや絶対(ぜったい)に私たちの主人(しゅじん)になることはない(ローマ6:14)のです。だから、キリスト者はからだの各部(かくぶ)()武器(ぶき)として神様に(ささ)げるのです。自分のために使うのではなく、神さまのために(もち)いるのです。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、イエス様を(しん)じた者は、もう(ふる)律法(りっぽう)(よい行いをしなければ正しい人間でないという生き方)に生きる者ではないからです。

頑張(がんば)りや、社会的(しゃかいてき)地位(ちい)才能(さいのう)仕事(しごと)ができる・できない、人の評価(ひょうか)がすべてであった生き方、

それらから解放(かいほう)されて、十字架(じゅうじか)のみわざによって、イエス様を(しん)じて、神さまの(めぐ)みによって生かされた(しん)意味(いみ)で自由な者だからです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は(あたら)しく(つく)られた者です。(ふる)いものは()()って、見よ、すべてが(あたら)しくなりました。

(Ⅱコリント人への手紙5:17

神がくださる最高の福音に、私も生きる

ヨナ書3章10節-4章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月15日

<聖書>

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力(どりょく)していることをご(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)不愉快(ふゆかい)にさせた。ヨナは(おこ)って、
(しゅ)】に祈って言った。「ああ、【(しゅ)】よ。私がまだ国にいたときに、このことを(もう)()げたではありませんか。それで、私は(はじ)めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが(なさ)(ぶか)くあわれみ(ぶか)い神であり、(おこ)るのにおそく、(めぐ)(ゆた)かであり、わざわいを思い(なお)されることを知っていたからです。
(しゅ)】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
(しゅ)】は(おお)せられた。「あなたは当然(とうぜん)のことのように(おこ)るのか。」
ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋(かりごや)を作り、町の中で何が()こるかを見きわめようと、その(かげ)の下にすわっていた。
神である【(しゅ)】は一本のとうごまを(そな)え、それをヨナの上をおおうように()えさせ、彼の頭の上の(かげ)として、ヨナの不きげんを(なお)そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常(ひじょう)(よろこ)んだ。
しかし、神は、翌日(よくじつ)夜明(よあ)けに、一匹の虫を(そな)えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは()れた。
太陽が上ったとき、神は()けつくような東風を(そな)えられた。太陽がヨナの頭に()りつけたので、彼は(おとろ)()て、自分の死を(ねが)って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
すると、神はヨナに(おお)せられた。「このとうごまのために、あなたは当然(とうぜん)のことのように(おこ)るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど(おこ)るのは当然(とうぜん)のことです。」
(しゅ)】は(おお)せられた。「あなたは、自分で骨折(ほねお)らず、(そだ)てもせず、一夜(いちや)()え、一夜(いちや)(ほろ)びたこのとうごまを()しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを()しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜(かちく)とがいるではないか。」

(ヨナ書3章10節-4章11節)

<説教>

ヨナの宣教(せんきょう)でニネベの人々は(つみ)()(あらた)めて、ニネベは(ほろ)びから(すく)われました。ニネベはヨナたちの国をひどい目にあわせる敵国(てきこく)です。異邦(いほう)の神を信じる邪悪(じゃあく)な国でした。ヨナはこの神の大きな愛に(いか)ります。

ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)不愉快(ふゆかい)にさせた。
ヨナは(いか)って、【主】に(いの)って言った。

(ヨナ書4:1-2)

人間は偉大(いだい)な神のあわれみ、いつくしみを完全に理解(りかい)できません。

しかし、神はそのひとり子のキリストを十字架(じゅうじか)につけて、私たちの(つみ)(ゆる)しを()()げてくださいました。ここに神の愛がすべての人に明らかにされました。

しかし私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身(じしん)の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙5:8)

神の愛に()れ、私たちの(こおり)の心が()かされ、愛を持つ者に変えられていきます。少しずつ、神がおられる交わりの中でキリストの愛を家族で知っていきます。

キリストの愛によって(すく)われ、新しく生まれた者の愛とは、このイエス様を(だれ)かに紹介(しょうかい)することです。

人生の中で、私たちの(もっと)も大きな出来事、それはイエス様と出会って素晴(すば)らしい人生に変えられたことなのですから。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界(ぜんせかい)に出て行き、すべての(つく)られた者に、福音(ふくいん)()(つた)えなさい。

(マルコの福音書(ふくいんしょ)16:15)

ヨナは神のことばを、ニネベの人々に(つた)えました。そこに神の力が(はたら)かれて、人も家畜(かちく)()(あらた)めて、(すく)われたのです。

私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを(とく)させる神の力です。

(ローマ人への手紙1:16

神はご自分の子どもたちを(えら)ばれています。しかし、福音(ふくいん)()(つた)える人が(つか)わされ、その人々が福音(ふくいん)を聞いて(しん)じなければ(すく)われません。

人々は目的がわからずさまよっています。何が正しいのか、どう生きるべきなのかを(なや)んでいます。

この世が提供(ていきょう)する者は、真実(しんじつ)な人生の()いから(はな)れさせ、人を堕落(だらく)させるようなものが多くあります。

この世界には、私たちを真理(しんり)(みちび)くものはありません。

財産(ざいさん)健康(けんこう)(ゆめ)肩書(かたが)き、恋人、趣味(しゅみ)娯楽(ごらく)、どれも大切です。しかし、どれも一番になり(とく)ません。(つみ)(おか)した刑罰(けいばつ)である死後の永遠(えいえん)(ほろ)びには何の助けにもなりません。いえ、今現在の生き方がイエス様の豊かな命と愛に満たされます。

すべての人に福音(ふくいん)が必要です。それは他のなにものにも(くら)べることはできません。

福音(ふくいん)(しん)じて(あた)えられる永遠(えいえん)のいのちは神の(あた)えてくれる賜物(たまもの)(プレゼント)です。お金では決して手に入れることはできません。

神の愛は大きすぎて、私たちの愛ではときに嫉妬(しっと)するかも知れません。人間関係ではよくなくても、神への嫉妬(しっと)は、神への愛です。

ヨナは、自分の預言者(よげんしゃ)の立場や、自分の信仰(しんこう)がありました。

しかし、私たちの、どんな自己(じこ)実現(じつげん)も、神のご計画された(かみ)実現(じつげん)にまさるものではありません。

(だれ)かのために、(だれ)かを愛するなら、福音(ふくいん)紹介(しょうかい)することにまさる愛はないと気付きます。

イエス様を愛して、イエス様と共に生きることは、自分にとって素晴(すば)らしいだけでなく、あなたの愛する大切な人にとっても素晴(すば)らしいことなのです。

最後に祈れる神をもつ幸い

ヨナ書2章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月8日

<聖書>

ヨナは魚の(はら)の中から、彼の神、【主】に(いの)って、
言った。「私が(くる)しみの中から【主】にお(ねが)いすると、主は答えてくださいました。私がよみの(はら)の中から(さけ)ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真ん中の(ふか)みに投げ込まれました。(しお)(なが)れが私を(かこ)み、あなたの(なみ)大波(おおなみ)がみな、私の上を()えて行きました。
私は言った。『私はあなたの目の前から()われました。しかし、もう一度、私はあなたの(せい)なる(みや)(あお)ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを()めつけ、深淵(しんえん)は私を()(かこ)み、海草(かいそう)は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元(ねもと)まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに(おとろ)()てたとき、私は【主】を思い出しました。私の(いの)りはあなたに、あなたの(せい)なる(みや)(とど)きました。
むなしい偶像(ぐうぞう)に心を()める者は、自分への(めぐ)みを()てます。
しかし、私は、感謝(かんしゃ)の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の(ちか)いを()たしましょう。(すく)いは主のものです。」
【主】は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

(ヨナ書2章1-10節)

<説教>

暴風(ぼうふう)と荒れる海‐そこに投げ込まれるのをヨナは恐れていました。

ヨナは(しお)の流れに(かこ)まれ、大きな波がヨナを飲みこみ、水で窒息(ちっそく)しそうになり、暗い海の中の不気味(ぶきみ)()け目の中に深く(しず)んでいきます。海藻(かいそう)がヨナに(から)み付き、海底近くまで(しず)み、そこでがんじがらめになります。

ヨナは死を恐れます。死の苦しみを恐れます。

しかし、死の寸前でヨナは死の苦しみより恐ろしいことに気付きました。それは、神から(はな)れて死んでしまうことでした。永遠に神の愛から(はな)れてしまうことでした。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの(せい)なる宮を(あお)ぎ見たいのです』と。

(ヨナ書2:4

人間は誰も必ず死にます。その時、家族も友も、愛する誰も一緒に死ぬことはできません。正確には死後のさばきを一緒に受けてくれる人は誰もいません。しかし、イエス様は、あなたが死ぬ時も共にいていくださいます。

たとい、死の(かげ)の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

(詩篇23:4)

ヨナは苦しみの中で神に(いの)ります。神は(いの)りに答えてくださいます。大きな魚がヨナを飲みこみ、魚の腹の中で守ってくださったのです。そこで、かつて神の御顔(みかお)から(はな)れようとしたヨナは、死の苦しみの中で、神の御顔(みかお)を求めて、(すく)い出されるのです。ヨナは死の直前で、まことの神を思い出して(いの)ったのです。

死の前で、信頼(しんらい)して祈れる神は、イエス・キリストだけです。この方にまことのいのちがあります。

イエス・キリストを信じる者は、決して(ほろ)びの死に入ることはありません。

それは、この魚の中にヨナが三日(みっか)三晩(みばん)いたことは、実は十字架(じゅうじか)で死んで(ほうむ)られ、三日目によみがえられたイエス・キリストの(すく)いを表わしているからです。

イエス様は次のように言われました。

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫(かんいん)の時代はしるしを求めています。だが預言者(よげんしゃ)ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日(みっか)三晩(みばん)大魚(たいぎょ)の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日(みっか)三晩(みばん)、地の中にいるからです。

(マタイの福音書12:39-40)

イエス様は十字架(じゅうじか)で死なれて三日間、(つみ)刑罰(けいばつ)の死の支配(しはい)の中にとどまられました。

しかし神は、この方を死の苦しみから()(はな)って、よみがえらせました。

(使徒2:24

この苦しみとは「陣痛(じんつう)」の意味です。(すく)いとは、三位(さんみ)一体(いったい)の父の神の愛と、子なるキリストの犠牲(ぎせい)従順(じゅうじゅん)によって生み出されるのです。いのちを生み出す営みなのです。苦しみにまさる喜びがそこにあるのです。

人間が造った神と呼ばれるもの(偶像(ぐうぞう))には、そのような愛も命も存在しません。神から(はな)れる永遠の死の苦しみから人間を(すく)うことはできません。

むなしい偶像(ぐうぞう)に心を()める者は、自分への(めぐ)みを()てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の(ちか)いを()たしましょう。(すく)いは(しゅ)のものです。」 

(ヨナ書2:8-9)

反逆する人間に呼びかける神

ヨナ書1章より

土山みことばキリスト教会

2023年10月1日

<聖書>

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
しかしヨナは、【主】の御顔(みかお)()けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃(ふなちん)(はら)ってそれに()り、【主】の御顔(みかお)()けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
さて、【主】は大風を海に()きつけられた。それで海に(はげ)しい暴風(ぼうふう)が起こり、船は難破(なんぱ)しそうになった。
水夫(すいふ)たちは(おそ)れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって(さけ)び、船を軽くしようと船の積荷(つみに)を海に投げ()てた。しかし、ヨナは船底(ふなぞこ)()りて行って横になり、ぐっすり寝込(ねこ)んでいた。
船長(せんちょう)が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込(ねこ)んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を()めてくださって、私たちは(ほろ)びないですむかもしれない。」

(ヨナ書1章1-6節)

<説教>

1.人間の(つみ)とは神への反逆(はんぎゃく)

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」                          (ヨナ書1:1-2)

まことの神は、人間に語られます。神を(おそ)れて(つみ)から(はな)れなさいと神は語られます。アッシリアの大都市ニネベの人間の(つみ)に対して神はさばきを下されようとします。

預言者(よげんしゃ)ヨナは、その神の言葉を(あず)かった(伝えるよう(たく)された)のです。

アッシリアは神を(おそ)れず、神を(あなど)り、(つみ)()(らく)して不道徳、殺戮(さつりく)略奪(りゃくだつ)が満ちて、ヨナの国イスラエルを攻め取ろうとしていました。

そんなアッシリアが神に()(あらた)めて、滅亡(めつぼう)から(すく)われることがヨナは我慢(がまん)できませんでした。

人間は自分の考えや都合(つごう)によって、神に素直(すなお)(したが)えないのです。

人間は神に対して(かたく)なで強情(ごうじょう)なのです。聖書によると人間の(つみ)の中心は神への反逆(はんぎゃく)です。

ヨナは神に(したが)わず、神から(はな)れようとします。主の御顔(みかお)を避けようとします。神が命じたニネベへ行かず、タルシシュへ(のが)れようとします。人間は何処へ(のが)れても、神から()げることなどできません。

神はいつも人間がどこにいるのかご存知(ぞんじ)です。

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に(おお)せられた。「あなたは、どこにいるのか。」  

(創世記3:9)

神から(はな)れようとすればするほど、人間の状況(じょうきょう)はますます最悪になっていきます。

大風と暴風(ぼうふう)がヨナの船を(おそ)い、ヨナは船の底に下って行き、寝てしまうのです。神から(はな)れるとき、人間は怠慢(たいまん)になり、神に与えられた本当の素晴らしい人生をなかなか生きられないのです。

2.神は人間の応答(おうとう)を求められる

大風や暴風(ぼうふう)で船が難破(なんぱ)しそうになり、人々は命の危険を感じます。そして死を前に、(つみ)を知り、神を恐れるのです。くじを通して、神はこの大嵐はヨナの(つみ)原因(げんいん)だと明らかにします。

(つみ)は単にひとりの悪では終わりません。人と人との関係に深刻(しんこく)影響(えいきょう)を与えます。そして神との関係を引き(はな)します。神から(はな)れるほど、人間にとって恐ろしいことはありません。

イエス様も、十字架に()かられる前に父なる神から(はな)れることに()えられず祈りました。

ヨナは天地を造られた神を信じて恐れていました。

ヨナが神に対して逃げようと反逆(はんぎゃく)した理由は、神の真実を知っていたからでもありました。

神は(つみ)()(あらた)めたニネベの人たちを(ゆる)されることをヨナは知っていたのです。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

(ヨナ書3:10)

この世界を創られた唯一(ゆいいつ)の神は、すべての国の人を愛して救うことがおできになります。そして、ヨナは神の前に、自己中心の愛を()(あらた)めます。

ヨナは彼らに言った。「私を()らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この(はげ)しい暴風(ぼうふう)は、私のためにあなたがたを(おそ)ったのです。」

(ヨナ書1:12)

人々は自分の国の神を信じていました。しかし、ヨナの信じる聖書の神は、ヨナの(つみ)を明らかにして、ヨナに苦難(くなん)を与え、ヨナに()(あらた)めを導き、まことの救いを与えられます。

無神論者(むしんろんしゃ)は大きく二つに分かれます。ひとつは、天地を造られた神、唯一(ゆいいつ)の神を否定(ひてい)する無神論者(むしんろんしゃ)です。もうひとつは、否定(ひてい)する神を持たない無神論者(むしんろんしゃ)です。

創造(そうぞう)(しゅ)であるただお一人の神を知っている無神論者(むしんろんしゃ)は、いつでも、まことの神に立ち返るべき神をもっています。

日本は特に、八百万(やおよろず)の神と言って、キツネや大木、石、お天道(てんとう)(さま)など何でも神にします。神道(しんとう)仏教(ぶっきょう)檀家(だんか)制度(せいど)など独特の風土(ふうど)があり、まことの神を知らない人が大勢います。聖書の神こそが、まことの唯一(ゆいいつ)の神です。天地を造られ、今生きて働いて、すべての命を(たも)っておられます。

父なる神は、そのひとり子のイエス・キリストを人間として、この地上に下し、十字架で人間の(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりとしてくださいました。

このキリストの十字架に対して、すべての人間はどう答えるかを神は問われています。

すべての人間は神の前に罪人(つみびと)です。しかし、キリストを信じて(つみ)()(あらた)めるなら、神はあなたの(つみ)(ゆる)して、神の子どもとしてくださいます。まことの神は、あなたの心からの祈りに必ず(こた)えてくださいます。