人生を支える2本の柱~あなたのすべてを知るお方が必要

詩篇139篇1-16節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月17日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)

(しゅ)】よ。あなたは私を(さぐ)り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを(とお)くから()()られます。あなたは私の(あゆ)みと私の()すのを見守(みまも)り、私の(みち)をことごとく知っておられます。ことばが私の(した)にのぼる前に、なんと【(しゅ)】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を()(かこ)み、御手(みて)を私の上に()かれました。そのような知識(ちしき)は私にとってあまりにも不思議(ふしぎ)、あまりにも高くて、(およ)びもつきません。

私はあなたの御霊(みたま)から(はな)れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前(みまえ)(はな)れて、どこへのがれましょう。たとい、私が(てん)(のぼ)っても、そこにあなたはおられ、私がよみに(とこ)(もう)けても、そこにあなたはおられます。私が(あかつき)(つばさ)をかって、(うみ)()てに()んでも、そこでも、あなたの御手(みて)が私を(みちび)き、あなたの右の手が私を()らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の(まわ)りの(ひかり)よ。(よる)となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも(くら)くなく(よる)(ひる)のように(あか)るいのです。(くら)やみも(ひかり)も同じことです。

それはあなたが私の内臓(ないぞう)(づく)り、母の(たい)のうちで私を()()てられたからです。私は感謝(かんしゃ)します。あなたは私に、(くす)しいことをなさって(おそ)ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに(づく)られ、()(ふか)(ところ)仕組(しく)まれたとき、私の骨組(ほねぐ)みはあなたに(かく)れてはいませんでした。あなたの目は胎児(たいじ)の私を見られ、あなたの書物(しょもつ)にすべてが、書きしるされました。私のために(つく)られた日々(ひび)が、しかも、その一日(いちにち)もないうちに。

詩篇(しへん)139篇1-16節)

<説教>

150(へん)ある詩篇(しへん)半数(はんすう)は神さまに(たす)けを(もと)める(いの)りです。その大半(たいはん)はダビデが書いた詩篇(しへん)です。彼は名もない羊飼(ひつじか)いからイスラエルの王となりました。詩篇(しへん)にはひとりの人間としてのダビデの正直(しょうじき)告白(こくはく)があります。

あなたはどこにいても何をしていても、自分から(はな)れることはできません。もうひとりあなたと一緒(いっしょ)にいる(かた)、それが神さまです。神さまはあなたのことを(すべ)てご存知(ぞんじ)です。

神さまは、あなたが話す前にその言葉(ことば)を知っています。あなたが何かをする時、その動機(どうき)さえも知っています。あなたの(こころ)(ふか)内面(ないめん)をご存知(ぞんじ)なのです。

(つく)られたもので、神の前で(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(へブル人への手紙4章13節)

あなたは、ひとりで(さみ)しく、偶然(ぐうぜん)に生まれたのではありません。あなたが両親(りょうしん)から生まれる前から、神さまはあなたをご存知(ぞんじ)でした。聖書(せいしょ)によると、この世界(せかい)(つく)られる前からあなたの人生(じんせい)は神さまによって(さだ)められていました。神さまはあなたの存在(そんざい)を愛しておられるのです。

あなたの人生(じんせい)にはふたつの(はしら)があります。ひとつはあなたの意志(いし)です。もうひとつは神さまの御心(みこころ)(おもい)です。あなたの人生(じんせい)という家がしっかりと()つには、このふたつの(はしら)必要(ひつよう)です。

あなたがどんなに努力(どりょく)して頑張(がんば)っても、本当に(ゆた)かな人生(じんせい)には到達(とうたつ)できません。神さまの御心(みこころ)()り、自分の人生(じんせい)が神さまによって()()げられなければなりません。神さまはあなたに使命(しめい)を与え、あなたの人生(じんせい)にご計画(けいかく)をお()ちなのです。それはあなたが(かんが)える人生(じんせい)とはまったく(ちが)うかも()れません。しかし、神さまには完全(かんぜん)なご計画(けいかく)です。

人は(こころ)に自分の(みち)(おも)(めぐ)らす。しかし、その人の(あゆ)みを(たし)かなものにするのは【(しゅ)】である                                 

箴言(しんげん)16章9節)

ダビデは王さまになるまでに、試練(しれん)屈辱(くつじょく)経験(けいけん)しました。それは神さまがダビデを訓練(くんれん)して信仰(しんこう)の人とするためでした。神さまにひざまずき、神さまに信頼(しんらい)する(もの)となるためでした。

また、ダビデは自分の(つみ)(けが)れに(くる)しみました。しかし、神さまの御心(みこころ)はそのことを()めるのではなく、ダビデが正直(しょうじき)に自分の(つみ)やあやまちやを神さまに告白(こくはく)するなら、(つみ)をゆるし、けがれをきよめることでした。

神さまの御心(みこころ)()り、神さまとともに生きるためには、まずイエス様を(しん)じることから(はじ)まります。このお(かた)が人間のすべての(くる)しみをご存知(ぞんじ)で、人間の(つみ)をゆるすために、十字架(じゅうじか)()んでよみがえられたのです。

あなたはひとりぼっちではありません。イエス様があなたを()っておられ、いつも(とも)におられます。

ダビデの賛歌(さんか)


(しゅ)】は私の羊飼(ひつじか)い。私は、(とぼ)しいことがありません。
(しゅ)は私を(みどり)牧場(ぼくじょう)()させ、いこいの水のほとりに(ともな)われます。
(しゅ)は私のたましいを生き返らせ、御名(みな)のために、私を()(みち)(みちび)かれます。
たとい、()(かげ)(たに)を歩くことがあっても、私はわざわいを(おそ)れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの(つえ)、それが私の(なぐさ)めです。
私の(てき)の前で、あなたは私のために食事(しょくじ)をととのえ、私の頭に(あぶら)をそそいでくださいます。私の(さかずき)は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の(かぎ)り、いつくしみと(めぐ)みとが、私を()って()るでしょう。私は、いつまでも、【(しゅ)】の家に()まいましょう。

(詩篇23篇)

過去にとらわれない。赦されて生きる

ヨハネの福音書21章14-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月10日

<聖書>

イエスが、死人(しにん)の中からよみがえってから、弟子(でし)たちにご自分を(あらわ)されたのは、すでにこれで三度目である。
彼らが食事(しょくじ)()ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私があなたを(あい)することは、あなたがご(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊(こひつじ)()いなさい。」
イエスは(ふたた)び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私があなたを(あい)することは、あなたがご(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの(ひつじ)を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを(あい)しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを(あい)しますか」と言われたので、心を(いた)めてイエスに言った。「(しゅ)よ。あなたはいっさいのことをご(ぞん)じです。あなたは、私があなたを(あい)することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの(ひつじ)()いなさい。
まことに、まことに、あなたに()げます。あなたは(わか)かった時には、自分で(おび)()めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を()ばし、ほかの人があなたに(おび)をさせて、あなたの行きたくない所に()れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を(あらわ)すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに(したが)いなさい。」
ペテロは()()いて、イエスが(あい)された弟子(でし)があとについて来るのを見た。この弟子(でし)はあの晩餐(ばんさん)のとき、イエスの右側(みぎがわ)にいて、「(しゅ)よ。あなたを裏切(うらぎ)る者はだれですか」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「(しゅ)よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが(のぞ)むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに(したが)いなさい。」

(ヨハネの福音書21章14-22節)

<説教>

人間にはどうしても()えられないことがあります。人生に「もしも…」はないと言われますが、過去(かこ)失敗(しっぱい)(あやま)ちをやり(なお)すことはできません。
ペテロはイエス様が十字架(じゅうじか)()けられる前に、自分(じぶん)可愛(かわい)さにイエス様を裏切(うらぎ)って見捨(みす)てました。彼はそれから故郷(ふるさと)のガリラヤへ帰り、もとの漁師(りょうし)仕事(しごと)(もど)りました。しかし、何か大切(たいせつ)なものを(うしな)ったようでした。

人は過去(かこ)(つみ)をいくら()やんでも()めても元に(もど)りません。何かに没頭(ぼっとう)して過去(かこ)(わす)れようとしたり、()いことをして、自分を満足(まんぞく)させようとしても、それは一時的(いちじてき)根本的(こんぽんてき)解決(かいけつ)にはならないのです。ましてや、(くる)しみ、(かな)しみ、不安(ふあん)(おそ)れから()げるために死を(えら)ぶことは、解決(かいけつ)どころか、もっとも大きな(つみ)(おか)すことになるのです。聖書(せいしょ)は言います。

わたしは、だれが死ぬのも(よろこ)ばないからだ。──神である(しゅ)御告(みつ)げ──だから、()(あらた)めて、()きよ。

(エゼキエル書18:32)

もし、あなたがもう今までの罪深(つみぶか)()(かた)をやめたい。私は人間らしく正しく、真実(しんじつ)()きていきたいと(ねが)っても、具体的(ぐたいてき)にどうすればいいのかわからないかもしれません。
あなたの過去(かこ)(あやま)ちを()める人がいても、また自分で自分を()めて、過去(かこ)から新しく始めることができないとしても、神さまはあなたの(つみ)()めることはありません。あなたの(つみ)(ゆる)したいと、ひとり子のイエス様を十字架(じゅうじか)につけてくださったのです。

あなたは今まで(だれ)(したが)ってきましたか。ペテロは十字架(じゅうじか)で死なれよみがえられたイエス様を愛しているか問われます。(だれ)よりもペテロは自分を愛し、自分に(したが)ってきたのです。

次の聖書(せいしょ)のみことばを(しん)じて、あなたの(つみ)身代(みが)わりのためにイエス様が十字架(じゅうじか)で死なれたことを(しん)じるなら、あなたの(つみ)はすべて(ゆる)されます。神さまとの正しい関係(かんけい)()きる者に新しく変えられます。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの(つみ)をその()()われました。それは、私たちが(つみ)(はな)れ、()のために()きるためです。キリストの()(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、(ひつじ)のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である(かた)のもとに(かえ)ったのです。

(ペテロの手紙第一2:24-25

あなたの人生(じんせい)はみじめで、どうでもいい偶然(ぐうぜん)なものではありません。どうか(だれ)かの人生(じんせい)(くら)べないでください。神さまが用意(ようい)された、かけがえのないあなたのための祝福(しゅくふく)人生(じんせい)なのです。

あなたが過去(かこ)(つみ)(くる)しみで人生(じんせい)をあきらめないために、イエス様はあなたを愛し、十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。その愛の意味(いみ)(しん)じるなら、(だれ)とも(くら)べられないあなたの人生(じんせい)の大切な意味(いみ)が必ずわかります。

あなたは生まれてから死ぬまでの間に、イエス様を(しん)じて、神さまと和解(わかい)して、(つみ)(ゆる)された者として新しく()きてゆけるのです。

ただ一つわかること。今、私は見える

ヨハネの福音書9章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月3日

またイエスは(みち)途中(とちゅう)で、()まれつきの盲人(もうじん)()られた。

弟子(でし)たちは(かれ)についてイエスに質問(しつもん)して()った。「先生(せんせい)(かれ)盲目(もうもく)()まれついたのは、だれが(つみ)を犯したからですか。この人ですか。その両親(りょうしん)ですか。」

イエスは答えられた。「この人が(つみ)(おか)したのでもなく、両親(りょうしん)でもありません。(かみ)のわざがこの(ひと)(あらわ)れるためです。

わたしたちは、わたしを(つか)わした(かた)のわざを、(ひる)(あいだ)(おこな)わなければなりません。だれも(はたら)くことのできない(よる)()ます。

わたしが()にいる(あいだ)、わたしは()(ひかり)です。」

イエスは、こう()ってから、地面(じめん)につばきをして、そのつばきで(どろ)(つく)られた。そしてその(どろ)盲人(もうじん)()()って()われた。

()って、シロアム((やく)して()えば、(つか)わされた(もの))の(いけ)(あら)いなさい。」そこで、(かれ)()って、(あら)った。すると、()えるようになって、帰って()った。

(ヨハネの福音書9章1-7節)

【説教】

【生まれつきという人間の運命(うんめい)

私は盲目(もうもく)であったのに、今は見えるということです。

(ヨハネの福音書9:25

この生まれつきの盲人(もうじん)はイエス様によって目が開かれました。彼は生きとし生けるものや自然(しぜん)風景(ふうけい)が見えるようになりました。信仰(しんこう)(あた)えられ、見えないものを信じる者になったのです。イエス様が神さまだとわかって、また自分の以前(aいぜん)罪深(つみぶか)い姿を知ったのです。イエス様を信じる前の古い自分と、信じた後、新しく変えられた自分がわかったのです。

この反対(はんたい)記事(きじ)聖書(せいしょ)創世記(そうせいき)3章の人間に(つみ)が入った出来事です。

それ以来(いらい)すべての人間は(つみ)(びと)として生まれてきます。見えない神がわからず、自分の(つみ)がわからない状態(じょうたい)で生まれます。

生まれつきの盲人(もうじん)がイエス様の()った(どろ)で目がふさがれ、池まで歩いている姿は人から見れば(おろ)かで(わら)われるかも知れません。しかし、信仰(しんこう)とは一見(いっけん)(おろ)かに見えるのです。しかし、人からどう見られようとも、心から(うたが)わずにまっすぐに信じなければなりません。

キリストが十字架(じゅうじか)にかけられて(ころ)されるときもそうでした。しかし、(つみ)の生き方から(すく)い出され、生まれ変わり、目が見えるようになるには、この(おろ)かにも思われるキリストの十字架(じゅうじか)事実(じじつ)(しん)じる()(がい)ないのです。多くの人が十字架(じゅうじか)など何の意味もない、今の進化(しんか)した科学(かがく)万能(ばんのう)時代(じだい)に何の力もない、ただの聖書(せいしょ)のお話しだと終わらせている、この十字架(じゅうじか)にこそ唯一の(すく)いがあるのです。

運命(うんめい)、血のつながり、弱さやハンディキャップからの解放(かいほう)

先祖(せんぞ)(のろ)いで生まれつきの盲人(もうじん)として生まれ、乞食(こじき)以外(いがい)生きる道はなく、彼はその人生を受け入れていたかもしれません。その自分の運命(うんめい)(だれ)にも変えられないとなかばあきらめていたかも知れません。

しかし、イエス様は言います。「あなたの、どうしようもない運命(うんめい)は、あなたの(つみ)でも、両親の(つみ)のせいでもない。神さまの栄光(えいこう)奇蹟(きせき)(あらわ)れるためだ」と。

またイエスは道の途中(とちゅう)で、生まれつきの盲人(もうじん)を見られた。

(ヨハネの福音書9:1

目が見えない盲人(もうじん)にはこのイエス様のまなざしは気付きません。しかし、私たちにはわからなくても、全知全能(ぜんちぜんのう)のイエス様はあなたを見ておられます。

いかなる運命(うんめい)があなたを(しば)っていたとしても、あなたの血筋(ちすじ)がどうであろうと、(だれ)もあなたの価値(かち)を認めてくれなくても、自分の力ではどうしても暗闇(くらやみ)の中からどうして光の()す場所へ出ることができないとしても、そのあなたの運命(うんめい)に神さまは働かれるのです。奇蹟(きせき)を起こされるのです。

生まれつきの盲人(もうじん)の目を開くことなど聞いたことがない。前代(ぜんだい)未聞(みもん)でありえない奇蹟(きせき)を彼は体験したのです。本当の奇蹟(きせき)は今、彼が神を信じて礼拝(れいはい)していることです。

これは説明(せつめい)のつかない根拠(こんきょ)のない奇蹟(きせき)ではありません。キリストが2000年前にカルバリの十字架(じゅうじか)で死んでよみがえり、あなたの運命(うんめい)を変えてくださったのです。

神さまから遠く(はな)れて、(やみ)の中を(つみ)(ぶか)く生きて、やがて死んでしまう運命(うんめい)から、キリストを信じて生まれ変わり、イエスのふところに帰り、光の中に生きる者に変えてくださったのです。

まことに、まことに、あなたがたに()げます。わたしのことばを聞いて、わたしを(つか)わした方を信じる者は、永遠(えいえん)のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書5:24

放蕩息子のたとえ話~罪人を愛する子として迎えてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月26日

この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話は、神さまから(はな)れた罪人(つみびと)である人間の姿(すがた)です。そして神さまのもとに愛する子どもとして帰ることができる希望(きぼう)です。

息子(むすこ)は生きている父に相続(そうぞく)財産(ざいさん)の分け前をもらい、荷物(にもつ)をまとめて遠い国に旅立ちました。父の手の届かない外国で遊女(ゆうじょ)におぼれ、放蕩(ほうとう)の結果、一文(いちもん)()しになります。また予想(よそう)しない大ききんが起こり、食べるのに(こま)りますが、誰も彼を助けることはありません。ひとりぼっちの彼は、彼の故郷(ふるさと)ユダヤでは()ずべき()(きら)(ぶた)世話(せわ)をすることになりました。すべては彼が父にとった態度(たいど)姿勢(しせい)こそが、彼の悲惨(ひさん)運命(うんめい)(はじ)まりでした。 そんな中で彼は(やさ)しい父のもとで()らした平和で幸せな愛の生活を身をもって思い出します。今の自分は父の息子(むすこ)ではなく、(ぶた)世話(せわ)をする奴隷(どれい)です。このまま、父と二度と会うことなく、関係が(こわ)れたままで、永遠に(はな)(ばな)れになってしまうかも知れません。

その時、彼はふと(われ)(かえ)ります。父から遠く(はな)れ、堕落(だらく)した自分の姿(すがた)気付(きづ)いたのです。そして父のもとに(かえ)ろうと決めます。やりたい放題(ほうだい)してもう(かえ)ることなどできないとは思わなかったのです。なぜでしょうか。それは彼が父の(あい)を完全に(わす)れなかったからです。決して()わらない父の(あい)を心に信じたからです。

もう人生(じんせい)は終わりだ。もうどうにでもなれ。絶望(ぜつぼう)だ。自殺(じさつ)しかないと彼は考えずに彼はカッコつけないで(なさ)けない自分を生きようとしたのです。正直(しょうじき)に父に(あやま)ろうと思ったのです。自分の正しさで責任(せきにん)()らなくていいのです。彼はただ、父の家に(かえ)ろうとしました。もう父の息子(むすこ)として(あま)えるのではなく、父に(つか)えようとしました。これが()(あらた)めなのです。

(かみ)のみこころに()った(かな)しみは、()いのない、(すく)いに(いた)()(あらた)めを(しょう)じさせますが、()(かな)しみは()をもたらします。

(コリント人への手紙(てがみ)第二7章10節)

どんなにあなたが、(かみ)さまから(はな)れて、自分勝手(じぶんかって)に生きて、ゆるされる資格(しかく)などないと思っても、どれだけ()わり()てて落ちぶれても、(つみ)(けが)れても、この()では何の価値(かち)がないと思っても、あなたが今までの生き方を()(あらた)めて、(かみ)さまに立ち(かえ)ろうとするなら、(かみ)さまはあなたを(さが)して見つけ出して、罪人(つみびと)としてではなく、(あい)する子どもとして歓迎(かんげい)してくださいます。(かみ)さまはあなたの(つみ)()めたてるのではなく、ゆるしたいのです。

どんなに生きるのが(くる)しくて、まったく希望(きぼう)(うしな)ったとしても、あなたには、(かえ)るべき場所があるのです。(よろこ)んで迎え入れてくれる(あい)(かみ)さまがいてくださるのです。

しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に()んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙(てがみ)2章4-5節)

徒労の中で~罪の深みから引き上げられ、信仰の深みへ漕ぎ出す

ルカの福音書5章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月12日

群衆(ぐんしゅう)がイエスに()(せま)るようにして(かみ)のことばを()いたとき、イエスはゲネサレ()(きし)べに()っておられたが、
(きし)べに小舟(こぶね)が二そうあるのをご(らん)になった。漁師(りょうし)たちは、その(ふね)から()りて(あみ)(あら)っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの()(ぶね)()り、(りく)から(すこ)()()すように(たの)まれた。そしてイエスはすわって、(ふね)から群衆(ぐんしゅう)(おし)えられた。
(はなし)()わると、シモンに、「(ふか)みに()()して、(あみ)をおろして(うお)をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生(せんせい)(わたし)たちは、夜通(よどお)(はたら)きましたが、何一(なにひと)つとれませんでした。でもおことばどおり、(あみ)をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの(うお)が入り、(あみ)(やぶ)れそうになった。
そこで(べつ)(ふね)にいた仲間(なかま)(もの)たちに合図(あいず)をして、(たす)けに()てくれるように(たの)んだ。(かれ)らがやって()て、そして(うお)両方(りょうほう)(ふね)いっぱいに上げたところ、二そうとも(しず)みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの(あし)もとにひれ()して、「(しゅ)よ。(わたし)のような(もの)から(はな)れてください。(わたし)は、罪深(つみぶか)人間(にんげん)ですから」と()った。
それは、大漁(たいりょう)のため、(かれ)もいっしょにいたみなの(もの)も、ひどく(おどろ)いたからである。
シモンの仲間(なかま)であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも(おな)じであった。イエスはシモンにこう()われた。「こわがらなくてもよい。これから(のち)、あなたは人間(にんげん)をとるようになるのです。」
(かれ)らは、(ふね)(りく)()けると、(なに)もかも()てて、イエスに(したが)った。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)5(しょう)1-11(せつ)

📖 メッセージ

【徒労の後で】
夜通しの漁で成果が上がらず、疲れ切っていたペテロたち。そんなペテロに主は深みへ漕ぎ出すように言われる。最悪の状況の中で網は魚で一杯になる。
なぜ、主は魚を与えたのか。失望していた弟子たちから元気を取り戻せるのは舟いっぱいの収穫であった。主は今、私たちに必要なものをご存知です。主はすべての人の労苦をご存知です。網を洗って次の漁のために備えていた弟子たちの姿を主はご存知だった。
また、主に従うかどうかをテストされた。ベテラン漁師が、どう考えても無理な状況で、神に従えるかどうか。ペテロは主に従った。

【罪の中で】
魚いっぱいの網を見てペテロは神を信じた。彼は同時に自分の罪を見た。人からは見えない深く隠れた罪汚れを見た。主が海の中を見透かされるように、ペテロの罪もすべてご存知であると思った(ヘブル4:13)。そう、自分の罪は、網いっぱいの魚そのものなのだ。それはひとりではどうすることもできない。だから、なすすべもなく、ただ罪の深みに失望していたのだ。主を恐れることが知恵の始まり、この世の知恵者にない知恵(箴言1:7)。
神はうわべではなく、人の心を見られる。しかし、主はペテロの罪を知ってそれを責めるお方ではない。神は愛なるお方です。
罪の深みから引き上げて、救い出される。そのときペテロの人生は変わった。
そのとき、網一杯の巨大な罪が、なんと莫大な恵み、救いに変わったのだ。

【罪赦され、神のために生きる】
ペテロが素晴らしいから救われたのではない。聖書は言う。主はこの世では取るに足らない者、役に立たない者、弱い者を主は選ばれる。この世でうまく仕事ができなくても、主を賛美し救いを伝える。主のために働くことができる。
ペテロは依然として、罪人として生き続ける。しかし、いかなる時も、十字架の前に主を否んで大泣きしたときも、罪赦された者として、信仰の深みに進んでいくのだ。
すべてを捨てて、船を置いて、海から陸へと生き方を変えた。
まったく成果の上がらない世通しの漁。この世の徒労は、ずっしりと重く、疲れさせる。この世の徒労は欲、野望、見栄、忙しさ、人との比較、競争…心を失ってしまう。罪の世の中では、徒労に失望させられる。
しかし、主と共に負うくびき、主の十字架を負って生きることは、決して重くなく、あなたを休ませ、平安を与える。魂に安らぎがある。信仰があなたに希望を与え続ける。

私の救いの神

ミカ書7章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月5日

紀元前(きげんぜん)8世紀(せいき)前半(ぜんはん)、イスラエルの国は物質的(ぶっしつてき)にたいへん(ゆた)かでした。しかし、(かみ)さまの存在(そんざい)(わす)れて、自分たちの心の(よく)のままに生きます。その結果、道徳(どうとく)倫理(りんり)は乱れて社会の秩序(ちつじょ)は失われていきました。(かみ)さまは、外国のアッシリアの武力(ぶりょく)によってイスラエルを苦しめて(かみ)さまの刑罰(けいばつ)を与えました。

イスラエルの人々は、昔、エジプトで過酷(かこく)労働(ろうどう)に苦しめられていました。しかし、(かみ)さまは彼らを奇跡的(きせきてき)にそこから(すく)い出されました。それから間もなく、彼らは天地を(つく)られて、すべてを支配する(かみ)さまに(したが)わずに異国(いこく)(かみ)(したが)うようになりました。(かみ)さまから遣わされた預言者を迫害して、殺害しました。(かみ)さまの言葉がなくなり、イスラエルの人々は正しく生きるための光を失いました。その結果、性的(せいてき)()(らく)し、力あるものが弱い者を苦しめ、不正がはびこり、戦争が()こり、地は荒れ果て、食糧難になり、国は滅亡の危険に直面しました。(かみ)さまが愛したイスラエルの国は、他の国から、あざけられるようになりました。

イスラエルの国が滅亡しそうなとき、(かみ)刑罰(けいばつ)(てき)国にくだり、イスラエルは(すく)い出されます。それは、この世界が終るときに(かみ)さまがすべての人をさばかれることも表わしています。

正しい人も、善人(ぜんにん)(かみ)さまから()るとすべての人には(つみ)があります。その罪の刑罰(けいばつ)(かみ)さまから()て去られる永遠の苦しみです。しかし、キリストがあなたの(つみ)の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じる者は、「私の(かみ)さま」と呼べる(かみ)さまとの関係に生きることができます。

まことの(かみ)さまを信じない者は、大変な危険にあったときに助けられずに、そこに()て去られてしまいます。しかし、まことの(かみ)さまを信じる者は、苦しみの中で助け出されます。

いくら良いことをしても決して(つみ)から(すく)われません。(かみ)さまが(さだ)められた方法に(したが)い、キリストを信じることによってしか人は(すく)われないのです。その理由は、ただ、(かみ)さまのお(さだ)めになった契約(けいやく)があるからなのです。キリストが来られた新約(しんやく)聖書(せいしょ)がその契約書(けいやくしょ)です。

イエス様を信じる者の祈りはきかれる

ヨハネの手紙 第一5章14-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年5月29日

イエス様を(しん)じる(もの)素晴(すば)らしいプレゼントをたくさんもらえます。その一つは、(ちち)なる(かみ)さまにお(いの)りできることです。イエス様のお名前(なまえ)によって(いの)るなら、どんな小さな(いの)りも(かみ)さまは()いてくださいます。ぜひ、どんな時でもお(いの)りしましょう。(いの)りが()かれたことを感謝(かんしゃ)しましょう。

聖書(せいしょ)の中にある詩篇(しへん)は、(かみ)さまを(しん)じる人たちの(いの)(しゅう)です。イエス様の時代(じだい)の人たちもこの詩篇(しへん)(いの)り、詩篇(しへん)歌詞(かし)賛美(さんび)しました。(いま)(むかし)人間(にんげん)(なや)(くる)しみは()わりません。聖書(せいしょ)(いま)世界中(せかいじゅう)の人をはげまし、勇気(ゆうき)(あた)えています。

イエス様は(ちち)なる(かみ)さまに、十字架(じゅうじか)()かる(ぜん)(くる)しい(おも)いを正直(しょうじき)にお(いの)りしました。しかし、(ちち)なる(かみ)さまがなさろうとしていることを、私が(おこな)えますようにと(いの)り、十字架(じゅうじか)()なれました。

また、イエス様は()んでよみがえられたあと天にのぼり、(ちち)なる(かみ)さまの右で、すべての人が(かみ)さまを(しん)じて(すく)われるように(いの)っています。

イエス様を(しん)じる(もの)は、(つみ)(おか)(つづ)けることができません。それは、(ちち)なる(かみ)さまのお(いの)りがわかるからです。たとえ(わる)いことをしてしまっても、(かみ)さまがそこから、(たす)()してくれます。イエス様を(しん)じて正直(しょうじき)(いの)るなら、どんな(つみ)もゆるされます。

聖書(せいしょ)()(つみ)とは(わる)(おこな)いだけではありません。(ちち)なる(かみ)さまの(ねが)いに従って()きないこと、自分(じぶん)のしたいように()きることが(つみ)なのです。

しかし、(かみ)さまを(しん)じる(もの)は、お(いの)りして、聖書(せいしょ)()んで(かみ)さまの(ねが)いがわかります。そのとき(かみ)さまはいつも(たす)けてくださり、あなたの(いの)りを(かみ)さまは()いて(くだ)さいます。

この世界の目的はイエス様をあらわすこと

ヨハネの手紙 第一5章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年5月22日

子どもが(わる)犯罪(はんざい)組織(そしき)()()られて、そこで間違(まちが)った(わる)いことを(おし)えられ、そこから(いっ)(しょう)()()せなくなったとします。そのとき、子どもの(おや)はどうするでしょうか。きっと自分(じぶん)危険(きけん)()にあっても、その(わる)組織(そしき)から子どもを(たす)()そうとします。

イエス様がこの世界(せかい)に人として()られて、十字架(じゅうじか)()なれたのも(おな)じです。(かみ)さまから(はな)れて、この()(わる)間違(まちが)った(おし)えを(しん)じて(つみ)の生き(かた)から人間を(すく)()すためなのです。

(かみ)さまを(しん)じないで、自分(じぶん)勝手(かって)()きることを(つみ)といいます。聖書(せいしょ)によると、(かみ)さまから(はな)れている人間(にんげん)は、(からだ)()きていても(たましい)()んでいます。

しかし、イエス様があなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)()なれたと(しん)じるなら、あなたは(かみ)さまの子どもとなり、いつまでも(とも)()きることができます。あなたが(なに)をしていても(かみ)さまのことがわかるようになるのです。それは、(かみ)さまがあなたに聖霊(せいれい)(さま)を与えてくださるからです。それが永遠(えいえん)のいのちです。

2000年前のイエス様の十字架(じゅうじか)歴史的(れきしてき)事実(じじつ)は、(いま)(つづ)いています。(はな)も、(とり)も、(いぬ)も、大きな宇宙(うちゅう)も、小さなアメーバ―も、そして人間(にんげん)も、このキリストが(いま)()きていることをあらわす存在(そんざい)なのです。(かみ)さまはそのためにこの世界(せかい)(つく)られたのです。

人間(にんげん)目的(もくてき)は、(かみ)さまの素晴(すば)らしさを、人生(じんせい)のすべてであらわして、永遠(えいえん)(かみ)さまを(よろこ)ぶことです。あなたの()(かた)(かみ)さまをあらわすのです。あなたの()(かた)を見て、(だれ)かが(かみ)さまを(しん)じるのです。アーメン。

信仰とはキリストによる愛の人生の勝利

ヨハネの手紙 第一5章1-5節より

土山みことばキリスト教会

2022年5月15日

子どもは(おや)(あい)します。(おや)も子どもを(あい)します。兄弟(きょうだい)はお(たが)いに(あい)します。それが家族(かぞく)本来(ほんらい)姿(すがた)です。(おや)と子の関係(かんけい)は生まれた時に(はじ)まります。誕生(たんじょう)(あい)(はじ)まりです。誕生(たんじょう)奇跡(きせき)であり、それだけで勝利(しょうり)なのです。

(かみ)さまに最初(さいしょ)(つく)られた人間(にんげん)アダムは(かみ)さまを(あい)していました。(かみ)さまとアダムはお(たが)いに(あい)()親子(おやこ)でした。(あく)()もなく、アダムは永遠(えいえん)(あい)世界(せかい)()きることができました。

しかし、悪魔(あくま)誘惑(ゆうわく)()けてアダムは(かみ)に背き、(かみ)との関係(かんけい)(うしな)いました。その時から世界(せかい)(ざい)()が入りました。それ以来(いらい)、すべての人間(にんげん)(かみ)から(はな)れた罪人(つみびと)として()まれてきます。

本来(ほんらい)人間(にんげん)になるために、もう一度(いちど)()まれなければなりません。(かみ)さまから()まれる(もの)はイエスがキリスト(救い主)であり、(かみ)さまの子どもであると(しん)じます。信仰(しんこう)聖書(せいしょ)(しん)じること)によって(かみ)さまと親子(おやこ)(ただ)しい関係(かんけい)(もど)ることができるのです。

(かみ)さまから()まれた(もの)(おや)である(かみ)さまを(あい)して、人を(あい)します。(かみ)さまから()まれた(もの)(かみ)さまの言葉(ことば)である聖書(せいしょ)(しん)じて(まも)ります。

(かみ)さまを(しん)じて(あい)するとはどういう意味(いみ)でしょうか。それは、(こま)っている人を(たす)けること、(さみ)しい人の(とも)だちになること、人に親切(しんせつ)にすること、(やさ)しくしてあげることです。

(かみ)さまの言葉(ことば)聖書(せいしょ))を(まも)ろうとする(もの)(かみ)さまの(たす)けがいつもあります。イエス様があなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)()んでくださったことを感謝(かんしゃ)して()きる(もの)(かみ)さまは(けっ)して見放(みはな)しません。どんなことがあっても、(かみ)さまがともにいてくださいます。

この()勝者(しょうしゃ)とは自分(じぶん)()つことです。しかし、(かみ)さまから(かんむり)をもらう本当(ほんとう)勝者(しょうしゃ)とは、(よわ)(もの)(きら)われている人を(あい)して(たす)けてあげる(もの)です。(だれ)かのために()きる人です。なぜなら、イエス様もそのようにされたからです。イエス様はすべての人の(つみ)のために十字架(じゅうじか)()なれました。しかし(ちち)である(かみ)さまは三日目(みっかめ)にイエス様をよみがえらせました。イエス様を(しん)じて()きるなら、あなたもこの()(あく)(つみ)()()()ち、(ただ)しく()きることができます。

互いに愛し合う人生こそ人生

ヨハネの手紙 第一4章16-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年5月8日

これから社会(しゃかい)に出て(はたら)く人たちに書かれた本に次のように箇所(かしょ)がありました。

①      きらいな人は、相手も自分をきらっていると思い、礼儀(れいぎ)正しくして、距離(きょり)()いてつき合いなさい。

②      好きな友人でも、いつ裏切(うらぎ)られるかわからないと思いなさい。

③      上役(うわやく)相手(あいて)軽蔑(けいべつ)してもがまんしていなさい。

人間関係をこのように()()って考えるのは、とてもさみしいことです。けれども、これが人間の現実(げんじつ)姿(すがた)かも知れません。本当に人間はそんな風にしか生きることはできないのでしょうか。それは(ちが)います。それは自分を(まも)るためだけの、自分のためだけに生きるさみしい孤独(こどく)姿(すがた)です。

イエス様が十字架(じゅうじか)()なれたのは、そんな私たちに示された神さまの(あい)です。イエス様を(しん)じる者は神さまとの正しい関係(かんけい)()(もど)します。自己(じこ)中心(ちゅうしん)な私たちにイエス様の(あい)が与えられます。(だれ)に対しても(やさ)しく(あい)の人として生きる者に少しずつ()えられます。

人を(あい)さず、(にく)んだり、ゆるせないでいると、あなたは(だれ)も心から(あい)せない人になってしまいます。うわべだけで(あい)する人になってしまいます。それは(あい)のないうわべだけの人生(じんせい)です。なにも(のこ)らない人生(じんせい)です。

(あい)することは簡単(かんたん)ではありません。憎んだり、ゆるせないこともあるでしょう。ときには(おそ)れもあります。

(あい)せるように、ゆるせるようにお(いの)りしましょう。神さまがあなたの心を()えてくださいます。状況(じょうきょう)()えてくださいます。あとは神さまが完全(かんぜん)(ただ)しい判断(はんだん)をしてくださることを(しん)じて、おゆだねしましょう。

イエス様が()んでくださったのは、(おそ)れに負けず、あなたが人を(あい)して、本当の(よろこ)びを()って生きるためです。イエス様の(あい)にいつもとどまり(つづ)けましょう。