救い主キリストはあなたと生きてくださる神の御子

ヨハネの手紙 第一4章13-15節より

土山みことばキリスト教会

2022年4月24日

聖書(せいしょ)(かみ)さまのことを「(かみ)(あい)です」と(おし)えています。(あい)はひとりで生きることではありません。だから(あい)(かみ)さまは世界(せかい)(つく)られました(創世記(そうせいき)1章)。(かみ)さまは、あなたを(あい)したいために、あなたに(いのち)(あた)えたのです。今、あなたが存在(そんざい)しているのは、あなたが(かみ)さまに(あい)されている証拠(しょうこ)です(イザヤ書43章4節)。

しかし、人間は(かみ)さまを信じないままでいると、(わる)いことを考えたり、(わる)こと)()を使ったり、(わる)い行いをする性質(せいしつ)があります。これを(つみ)と言います(マルコの福音書(ふくいんしょ)7章20-23節)。

(つみ)はあなたと(かみ)さまの関係(かんけい)(こわ)します。しかし、(あい)(かみ)さまは、あなたの(つみ)をそのままにして、あなたが(かみ)さまから(はな)れてひとりでいることを(かな)しまれます。(かみ)さまは、大きな(つみ)も小さな(つみ)もゆるしたいと思っています。それは、(かみ)さまがあなたを(あい)しているからです。

聖書(せいしょ)はすべての人は(つみ)性質(せいしつ)をもって()まると書いています。すべての人は(つみ)をゆるしてもらわなければなりません(コリント人への手紙(てがみ)第二5章20節)。

そのために、(かみ)さまは、ご自分のひとり子であるイエス様を十字架(じゅうじか)につけてくださいました。このイエス様だけが、(かみ)さまの(あい)とゆるしをあなたに(あた)えることができるのです。

あなたが(つみ)から(すく)い出されたいと(こころ)から(ねが)って、このイエス様をあなたの(すく)(ぬし)であることを(しん)じるなら、あなたのすべての(つみ)はゆるされます(ヨハネの手紙(てがみ)第一1章9節)。

これからは、どんな時もイエス様の(あい)(かん)じながら、(かみ)さまを(しん)じて生きていきましょう。

よみがえりのキリストが希望を約束する

ルカの福音書24章44-49節より

土山みことばキリスト教会

2022年4月17日

人間は生まれた瞬間から、死に向かって生きています。いかなる人も死を逃れることはできません。そして死の力は、生きている間も働いています。例えば、人を愛するよりも、無関心でいようとしますし、善を行うよりも、悪いことを考えてしまいますし、人がいる時と、ひとりの時では同じような正しさを行えなかったりしますし、人生の目標や夢に向かってすべきことはわかっていても、ついついさぼったりして思うようにいきません。

死とは病気や事故で死ぬことだけを意味するのではありません。聖書によると死とは罪の結果なのです。罪とは悪い行いや、法律違反をすることだけでなく、そのような結果につながる人の内側の悪い性質、罪深い汚れた思いでもあります。そして罪とは、その原因となる神さまと正しい関係にいない状態を言うのです。

人間の良心が働いて、善と悪の境界線が確かに存在するのです。人間の法律ではあらわせない正しさと間違いの境目があるのです。それは神様の存在が原因なのです。

神様の存在を無視して生きるとき、人間は罪の中に死んでいるのです。神様を信じないとき人は決して正しい歩みはできません。

すべての人は罪人として生まれてきます。それは最初の人アダムが悪魔の誘惑に負けて神に対して罪を犯した結果です。罪により世界に死が入ったのです。

キリストはこの神様との失われた関係を回復するために、人間の罪の身代わりに十字架で死なれました。けれども死からよみがえり、罪の力を無力にして、まことの命を与える希望をすべての人に明らかにしました。

キリストの十字架の死と復活があなたの罪の身代わりであると信じる者は、このキリストの復活の命をいただきます。あなたの古い罪の死の体はキリストの十字架とともに死に、キリストの復活とともに、新しく生まれるのです。この新生は神がキリストを死からよみがえらせた人間の限界を超えた超自然的な神の力によるのです。

この復活の命により、悪習慣、依存、過去のあやまち、恐れ、罪に打ち勝つ力が与えられ、神様との正しい生きた関係を生きることができるのです。それが死によって決して朽ちない永遠のいのちです。

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ人への手紙2章12節)

神は愛なり。この愛にまさるものなし

ヨハネの手紙 第一4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2022年4月10日

この世界で一番重要なキーワードは「愛」です。人は愛を求め、愛に疲れ、愛したいと願っています。愛はすべての人の希望です。もし、世界から愛が絶えてしまえば、人は決して生きることはできません。

「神は愛なり」これは聖書により、神様が人間に示された偉大な真理です。神様の本性、ご性質は愛です。誰かを愛する時、人は神様を知ることができます。愛することによって人は最も神様に似た者となり、神様に近づくことができます。

神様は人間を愛しています。しかし人にはその愛がわかりません。愛を知るにも、冷えた愛の心の回復が必要です。まず最初に神様が人を愛されました。

神のひとり子、キリストが人間の罪の身代わりに十字架で死なれたことによって、神様の愛がすべての人に明らかにされたのです(ローマ5:8)。

この神様の愛を個人的に受け取ることが必要です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

その時、今まであなたの内になかった愛が生まれます。神様の愛を知るとき、人は家族や友だけでなく、隣人を愛したい気持ちが生まれるのです。感情を超えた神の愛です。

神様の愛は天地創造の時から現されています。神様の愛によって人は創造されました。神様を愛するロボットとしてではなく、自分の自由意志によって神様を愛する存在としてです。神様の愛に似せて人間は造られました。

神様の愛は、契約に基づく永遠に変わることのない愛です。旧い契約(旧約聖書)の神様の愛はヘセドゥ(ヘブル語)の愛に代表され、誠実、真実を尽くす意味です。新しい契約(新訳聖書)はイエス・キリストの十字架で流された血潮によるアガペー(ギリシャ語)の愛です。

神様に逆らい無視し、自分勝手に生きる罪人のために命を捨てる愛です。それを恵み‐価値なき、受けるに値しない者に与える行為‐と言います。

罪を犯した人間の刑罰をそのままにする冷酷なさばき主ではなく、その罪から救い出そうとされる愛の神さまなのです。

キリストの十字架であらわされた愛を受けることによってのみ、人は心に愛の命が与えられ、罪の生き方から離れ、神の愛が回復されます。そして、神様との正しい関係を取り戻し、自分の意思により神様を愛し、積極的に隣人を愛する者に変えられるのです。感情ではなく、言葉、行い、態度、姿勢の愛

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリ13:4-8)

今週はキリストが十字架で死なれた受難週です。キリストの愛を深く知り、悔い改め、恵みに感謝を捧げましょう。

偽りから真理へと導くキリスト

ヨハネの手紙 第一4章1-6節より

土山みことばキリスト教会

2022年4月3日

この宇宙や地球は神さまの一部という考えがあります(汎神論と言います)。また神さまはこの世界を造ったあとは、この世界に関わらず、地球が自然の法則で動き続け、生き物はそれぞれが子孫を残しているのだという考えもあります(理神論と言います)。

しかし、聖書によると、この天地万物は神さまが創造され、この世界には神さまと被造物だけが存在します。そして、神さまは今も生きて働かれ、罪をさばかれ、人に語りかけられ、この世界を存続させておられるのです。

真理とは、いくつもあるものではありません。真理はただ一つです。真理とは人間が努力して得ることはできません。この地球のどこを探しても見つけることはできないのです。真理とは神さまの中に存在するのです。

人間の側からは決して、神さまに近づくことはできません。それは人間に罪があるからです。人間が神さまを知ることができるのは、①人間の姿になられたキリスト ②神さまの言葉である聖書 ③聖霊である神さまが人間に働きかけることによってです。

キリストが救い主であると信じることは、この①②③の神さまの恵みによるのです。神さまを信じようとする者に、ご自身を現され、関係が与えられます。

神さまの奥義である真理、それは神のひとり子イエス・キリストが罪なき人間として、あなたの罪の身代わりに十字架で死んで三日目によみがえられたことです(Ⅰコリント2:7-11)。

この福音(キリストの十字架による罪のゆるし)は神さまが人間に与えてくださいましたが、人間は聞きたいことだけを聞くことができます。この罪の世にある者は、福音を聞いても偽りと取り換えてしまいます(ローマ1:25)。このキリストの真理に逆らい、耳をそむけます(Ⅱテモテ3-4)

しかし、神さまはすべての人が救われ、真理を知ることを望んでおられます(Ⅰテモテ2:4)。キリストはすべての人の救い主です。真理だけが人間を罪の生き方から自由にします。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

真理のお方、キリストを思い起こし、守り従うことによってのみ罪に打ち勝ち生きることができます。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

愛に生きる。それだけが真理の道

ヨハネの手紙 第一3章19-24節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月27日

すべての人は幸せな価値ある人生を願っています。しかし、そうなるように息つく暇も忘れて頑張っても、うまくいかないのです。もちろん喜びもありますが、何か満たされずにむなしいのです。

今朝の聖書箇所では、そんなあなたが揺るぎない、真実な神さまとしっかりつながって生きることができると言うのです。

それは、どうすればいいのでしょうか。それは、①聖書に書かれているキリストをありのまま、そのまま信じること。②そして、神さまの命令である、互いに愛し合いなさいということを守ることです。その他の方法では無理なのです。人間が考えた方法では神さまの真理には到達しないのです。

愛すると言っても口先だけではいけません。真心から行いと言葉によって愛するのです。好きだという感情の愛ではなく、言葉、態度、行いで、自分にとって大切なものを与えるように人を愛することです。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント13:4-8)

それができたかどうか、結果は問題ではありません。何より心から愛そうとすることなのです。心から願うことです。

神さまはあなたの心の中のすべてをご存知です。あなたが何かを話す前に、あなたの心や動機をご存知です(詩篇139:4)。

愛そうとしたなら、あなたはもう自分の感情や思いがどうであったとしても、神さまの約束を信じなければなりません。自分には愛がない、口先だけだなどと自分を責めてはいけません。

神さまを信じる者は、まず、神さまがいつもあなたと共におられるお方であることを信じます。そして聖書のみことばは神様の真実であることを信じます。その後で、あなたの心の思いが生まれるのです。愛、喜び、平安です(ガラテヤ5:22-23)。

あなたが心から願うことは何ですか。神さまがあなたを愛して、キリストがあなたの人生がむなしいものとならないように、十字架で死んでくださったことを知ったとき、あなたが心から願う夢はなんでしょうか。希望はなんですか。

罪のことをいつも考えて悩んで苦しんでいたあなたが、キリストを信じて、愛することや家族や、友、関係の大切さを覚える者に変えられていくことに気づくでしょう。キリストを信じる者は罪への思いから、愛への思いへと変えられるのです。

そこには悩みも試練もあるでしょう。しかし、人とのかかわりの中で、苦しみもがき、キリストが十字架で通られたみ苦しみを体験していくのです。キリストを信じることは知識や頭の理解ではないのです。愛に生きることなのです。

愛の反対は憎しみではなく、人に無関心な生き方、自分のためだけに生きることです。そこには成長も喜びもありません。キリストを愛するとき人生は変えられます。これも神さまの方法により愛することが必要です。自分の大切なものを捧げる礼拝です。神さまと人との交わりです。そこにまことの喜びがあるのです。

最高に価値あるもの

ヨハネの手紙 第一3章12-18節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月20日

神さまの存在は悪人に罪の自覚を与えます。同じように神さまを信じる者の生き方が、罪人たちに反感をもたせます。クリスチャンは地の塩、世の光です。

悪魔は24時間365日、罪の中にいます。しかしキリストはいつも愛と正しさをお持ちです。憎しみは、自分の悪を隠すために人を殺します。愛は、人の罪のために命を捨てます。

人類最初の殺人は兄弟殺しでした。兄のカインは悪魔に属する者で、神さまに属する弟のアベルを殺害しました。

カインは殺人の罪の重荷を負いきれないと神さまに赦しを願います。神さまは、カインに赦しのしるしを与えられ、彼を救います。

この出来事は、罪人に対する神のあわれみを表わしています。神さまの罪に対する厳しさと同時に、神さまの愛による、ひとり子キリストの十字架の罪の身代わりによる赦しです。

愛とは一体何でしょうか。聖書には神は愛とあります(Ⅰヨハネの手紙4:8)。神さまはあなたの罪を赦すためにキリストを十字架につけてくださったことにより、私たちは神さまの愛を知ることができます(ローマ5:8)。

キリストはたましい(ギリシャ語のプシューケー:最高に価値ある命の意味)を十字架で捧げてくださいました。

あなたが罪から離れ、命を豊かにするために、ご自身の価値ある命を捧げてくださいました。カルバリの十字架の上で死なれたキリストを知るとき、すべての人は神の愛がわかるのです。

罪赦された者は、日々、自分のもてる最高のものを捧げて生きていく者とされます。愛とは自分の価値あるものを相手に与えることです。愛を行う者は死から命へ移された者です。人がまことに生きる姿です。

最高の愛、キリストの愛を生きる姿を通してあらわして、キリストの愛を伝える者として。

あなたは神さまにとって最高に価値のある存在なのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書34:4)

お金で買えるもの、買えないもの

土山みことばキリスト教会

心地よいベッドは買えるが、安眠は買えない
 食物は買えるが、食欲は買えない
 家は買えるが、家庭は買えない
 薬は買えるが、健康は買えない
 楽しみは買えるが、幸福は買えない
 お金があれば、何でも買えるわけではない


かつてイギリスで「お金とは何か」の定義を新聞で募集しました。その一等に当選した定義はこれです、「お金とは幸福のほかは何でも買うことができ、天国のほかはどこへでもいけるパスポートである」。お金は便利なものですが、勘違いしてはなりません。
 

「人の心には神以外のものでは埋め尽くすことのできない空洞がある」パスカル 

イエス・キリストが与えてくださる救いは、無代価です。ただ信じれば、救われます。お金を出しても買うことはできないものです。しかし、安っぽい救いではありません。救いは、キリストの命の代価が支払われたので、信じるだけで得られるのです。プライスレスという英語があります。プライスは値段という意味であり、レスは打ち消しです。しかし、無価値なという意味ではありません。その反対です。貴重なという意味です。値段がつけられないほど尊いという意味なのです。神の救いもプライスレスです。キリストが十字架で命を投げ出して、救いの道を開いてくださったのです。

ひとりの伝道者がインドの老齢の真珠採りと親しくなりました。伝道者はイエス・キリストの救いを語りました。しかし、彼は、ヒンズー教では難行苦行しなければならないのに、信じて救われるのは簡単すぎると言いました。ある日、老人は彼に言いました、「明日、巡礼に出かけます。どうぞお別れにわたしの家に来て食事をしてくださいませんか」。食事が終わった時、隣の部屋から老人は小さな箱を持ってきました。そして伝道者に箱を渡しながら言いました、「本当に親切にしていただいたのに、キリストを信じないですみません。しかし、わたしの心からのお礼のしるしにこの真珠を差し上げます」。伝道者はふたを開けてみると、今まで見たこともない見事な真珠です。驚いて、「とんでもありません。これを買わせてください。数百ポンドの値打ちがあります」。

しかし、老人は激しく首を振りました。「わたしは売ろうとは思いません。この真珠は数千ポンドでもすぐ売れるでしょう。もし売れば金持ちになっていたでしょう。けれども売るつもりはありません。わたしには息子がいました。真珠採りでは町一番でした。ところが、ある日、この息子が水にもぐったまま上がってこなかったのです。長い間たって、息子は浮き上がってきました。そして、その時、息子はこの真珠をしっかり握りしめていたのです。この真珠はわたしの命なのです。これを売るわけにはいきません。ただ心からのお礼として受け取ってください」。

伝道者はもう何も言えませんでした。しかし、しばらくして口を開きました、「わかりました。喜んでいただきます。しかし、一つ考えてくださいませんか。神がそのひとり子イエス・キリストの命によって救ってくださるのに、わたしたちがそれを買うことができるでしょうか?」。真珠採りの老人は考え込みました。そしてやがて言いました、「わかりました。神の救いは買う事ができないのですね。ただ信じて救われたいと思います」。

出典:日本福音書房 「恵みのことば」第11号

自分を馬鹿(ばか)にした人たちを救った青年

山本忠一

土山みことばキリスト教会

日本ではあまり知られていませんが、昭和の中頃、愛の実践において光り輝いた人がいました。その名を升崎外彦という、牧師さんです。和歌山県の南部(みなべ)という小さな町で、労祈祷(ろうとう)学園という塾を経営していました。

土地の人々はこれを「アホ学園」と呼んでいました。この労祷学園に知恵遅れの少年が加わったのを知った近所の人が、門柱にペンキで「アホ学校」と落書きしたことがきっかけとなって、それが呼び名となり、南部名物の一つになりました。

この少年は山本忠一といって、幼い頃脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに、親類も愛想をつかし、捨てられて乞食をしていたのを、升崎牧師が世話をすることにしたのでした。連れ帰ったその夜から、升崎牧師は少年を自分の寝床に寝かせたのですが、朝になるとこの少年は大きな地図を布団いっぱいに描いていました。

この知恵遅れの少年、何の取柄もないと思われている「忠ヤン」(升崎牧師は忠一のことをこう呼びました)にも人に真似のできない、ハエをとるという一つの特技がありました。ハエと見るや、知恵遅れ者特有の落ち着かない目が俄然輝きだして、ハエを見つめながら左手左足で調子をとって右手の指先でパッと打ちました。それは百発百中、神技ともいうべきものでした。

しかし忠ヤンが加わったことにより労祷学園が「アホ学校」と名付けられた事を他の青年たちが問題にしました。そして升崎牧師に、「忠ヤンが労祷学園に出入りしないようにして欲しい。忠ヤンが加わるのなら自分たちは出て行く」とつめよりました。これにはさすがの升崎牧師も苦しみました。聖書には「もし誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は99匹を残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。」とあります。才能のある7人の青年と、1人の知恵遅れの少年と、どちらを選ぶべきか?思い悩んでいるうちに、7人の青年は去って行きました。

ところが、忠ヤンもある日外出したまま、夜になっても帰ってこず、八方手を尽くしてもその消息は全くわかりませんでした。どうやら、昔の放浪癖が出て、足に任せてどこまでも歩いて行ってしまったようです。

忠ヤンがいなくなってしまってから数年後のこと、彼が機帆船に拾われて働いていることを升崎牧師は風の便りで知りました。ところが、昭和14年のある日のこと、一人の紳士が突然升崎牧師を訪ねて来て、言いました。
「あなたは何年か前に山本忠一という子供をお世話くださった升崎先生ではありませんか?」

「おお、あなたは忠ヤンの消息をご存知ですか?」

「実はその忠ヤンが立派な働きをして死にました。これが忠ヤンの形見です。」

その紳士はそう言って船の舵輪(だりん)を差し出しました。彼は忠ヤンの乗っていた機帆船の船長でした。彼は次のように語りました。

「ある日、機帆船幸十丸は、荷物を満載して紀州尾鷲港を出ました。出帆後間もなく海がしけ出し、新宮沖にさしかかった時はどうしても思う方向に船を進めることができず、ついに暗礁に船底をぶっつけてしまいました。破れた船底から水が激しく浸水して、いくら排水してもどうにもなりませんでした。もうこれまで、と一同観念したとき、船底から『親方!親方!船を!船を!』と手を振りながら大声で叫んでいる者がいました。見ると、アホ忠でした。不思議にも水はあれから少しも増していませんでした。船員たちが再び必死になって水をかき出したところ、忠ヤンは船底の穴に自分の太ももをグッと突っ込み、必死にもがきつつ『船を、船を、早く早く陸に上げよ!』と狂おしく叫んでいました。それで船員たちはしゃにむに、船を進めて陸に近づけ、九死に一生を得ましたが、忠一はかわいそうに右大腿部をもぎ取られ、出血多量で上陸するまでに息を引き取ってしまいました。」

升崎牧師は労祷学園でいつも、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年のことを青年たちに教えており、この忠ヤンもよく「俺はハンスだ、ハンスだ」と口ぐせのように言っていましたが、その通りのことを彼はやってのけたのです。人からアホ忠、アホ忠と呼ばれ、自分もまたアホ忠が本名だと思い込んでいた山本忠一。水が噴き込んでくる船底の穴に、布切れや板切れの代わりに自分の体の一部をつめこみ、数名の同僚を救った山本忠一。もし、升崎牧師がかつて彼を受け入れて、愛を示していなければこんなに感動的な話は生まれていたのだろうかと思うのです。

「人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。」
(ヨハネ福音書15:13)

キリストが悪魔の罪の支配から人間を解放する

ヨハネの手紙 第一3章8-12節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月13日

悪魔は罪を犯すことを主義として、生業(なりわい)としています。悪魔はキリストを信じる者が神の子とされる神さまのご計画を妨げ、人間に罪を犯させ、その罪責を攻めたて、すきあらば人間を滅ぼそうと狙っています(Ⅰペテロ5:8)。

悪魔はキリストの十字架、キリストの誕生をも妨害しました。それどころかキリスト誕生以前の彼の血統にさえも悪魔の手は及んでいたのです(旧約聖書)。

その一番最初の出来事が、創世記3章にある人間の罪の堕落(だらく)です。

最初の人アダムが悪魔の誘惑に敗れ、罪を犯した結果、彼の子孫、すなわち全人類は罪ある者として生まれてきます。罪の堕落の結果、人間は神さまとの関係を失い、刑罰として死が与えられました。

神から離れた人間は悪魔の支配にあり、死の力に縛られています。しかし、人となられたキリストがこの悪魔の力を十字架で打ち壊してくださいました。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

キリストを信じる者は悪魔の子から神の子どもとして新しく生まれます。神の子どもは習慣的・意識的な罪を犯さず、義(正しさ)を行い、隣人を愛します。この罪・義・愛は密接に関係しています。

愛は罪を犯させません。義(キリストと正しい関係に生きること)は罪から離れさせ、愛の働きをなさせます。

人が愛し合うところに、神さまのご支配が現されます。そこには決して悪魔は入ることができません。キリストの十字架こそは神の愛のしるしです。感謝します。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 (ローマ5:8)

十字架はあなたを罪から守る愛の掟

ヨハネの手紙 第一3章4-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月6日

人間の社会でも国や町内会、会社、学校が定めた法律やルールがあります。あなたはなぜ、それらを守るのでしょうか。罰金や罰則があるからでしょうか。世間体が悪いからでしょうか。それは法律やルールを守ることが、あなたを人間として正しく生きさせ、また事故や危険から生命を守るためです。

神様の造られた世界に生きる人間(神様によって造られた被造物)も同じです。自然界のルールや秩序、法律には書かれていない道徳や倫理のルール、そして神様に対して人間が守るべき聖書のみことばがあるのです。

人間が決めた法律やルールだけを守っても、人間として正しく生きことはできないのです。今も戦争や飢餓や環境破壊、差別偏見など絶えません。神様の正しさの基準を守らなければなりません。人間がもっとも守るべきルールは神様が定めた聖書のみことばなのです。最も尊いルールは互いに愛し合うことです。神は愛です。

聖書の言う罪とは無法地帯の心、無秩序な状態の生き方です。神様を否定して、神様の命令を無視して、自己中心に心の欲のまま、好き勝手に生きることは、人間を堕落させ、滅びに向かわせ、神様が望まれる本来の人間の生き方はできません。

どうしようもない人間の罪の性質をきよめて生き方を180°変えるためにキリストは十字架で死んでくださいました。神様の定めた命令を守れない人間を、罪の刑罰の結果である永遠の滅び(地獄)から救い出すためにキリストは十字架でよみがえられました。

キリストだけが罪と完全に無縁のお方です。このキリストを罪からの救い主と信じる者はこのお方の罪なきご性質と、罪からきよめる力により、罪から義(正しさ)の性質に変えられます。心の法則が悪(罪と死)のルールから善(愛と命)のルールに変えられます

「 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ人への手紙8章2節)。

今まであなたは何を見続けてきましたか。聖いものですか、悲しいものや争いですか。目を覆いたくなるようなものですか。これからはキリストを見上げましょう。キリストはあなたをいつも見ておられます。十字架の上のキリストをいつも見ているならあなたは決して罪を犯し続けることはありません。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル人への手紙12章2節)

習慣的な罪、悪習慣、計画的な罪はきよめられます。罪を犯すことが当たり前ではなく、罪を犯すことは例外になるのです。そして犯してしまった罪はキリストに近づき、悔い改める者を神様は赦してきよめてくださいます。キリストの愛はあなたを罪から守ってくださいます

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)。