信仰は宝

マタイの福音書8章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月15日

<聖書>

イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)がみもとに来て、懇願(こんがん)して、言った。「主よ。私のしもべが中風(ちゅうぶう)で、家に()ていて、ひどく(くる)しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、(なお)してあげよう。」しかし、百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)(こた)えて言った。「主よ。あなたを私の屋根(やね)の下にお入れする資格(しかく)は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは(なお)ります。と申しますのは、私も権威(けんい)の下にある者ですが、(わたし)自身(じしん)の下にも兵士(へいし)たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、(べつ)の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて(おどろ)かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに()げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰(しんこう)を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国(みくに)で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓(しょくたく)に着きます。しかし、御国(みくに)の子らは外の(くら)やみに放り出され、そこで()いて()ぎしりするのです。」それから、イエスは百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)に言われた。「さあ行きなさい。あなたの(しん)じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)8章5-13節)

<説教>

この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、次の2つのことでイエスを(おどろ)かせました。①(あい)の人であった。②信仰(しんこう)の人であった。

当時のユダヤ社会は人種(じんしゅ)階級(かいきゅう)性別(せいべつ)教育(きょういく)信仰(しんこう)などの(ちが)いによるひどい差別(さべつ)がありました。奴隷(どれい)は人間として見なされず、使(つか)()ての道具(どうぐ)(あつか)われました。その命も主人(しゅじん)の自由にされていました。

そんな現実(げんじつ)の中にも(かか)わらず、この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)病気(びょうき)で死にそうな奴隷(どれい)を助けるために行動しました。(あく)罪深(つみぶか)い世の中で正しく生きるために、(かみ)は人に信仰(しんこう)(あた)えられます。

しかし、(けが)れた罪人(つみびと)とみなされた異邦人(いほうじん)百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、イエスに近づくことができませんでした。その(かべ)()(やぶ)ったのは彼の信仰(しんこう)でした。百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)はイエスと会わなくても、イエスが彼の瀕死(ひんし)のしもべに()れなくても、ただイエスのことばによって、しもべは(いや)されて生きると(しん)じました。

信仰(しんこう)は、(よわ)い者を(つよ)くし、現実(げんじつ)しか見えない者の目を開き、プライドを(くだ)(あい)の人と()え、(つみ)(けが)れた者をゆるし、きよめます。十字架(じゅうじか)で死なれたイエスを目撃(もくげき)しなくても、信仰(しんこう)によって(かみ)のみ言葉(ことば)真実(しんじつ)(しん)じる者は(すく)われます。

信仰(しんこう)はイエスによって(あた)えられ、完成(かんせい)されました。イエスは十字架(じゅうじか)でよみがえられ、(つみ)と死に()ち勝ち、よみがえられました。

信仰(しんこう)知識(ちしき)ではありません。(かみ)はありふれた人間関係の中に、(かみ)御心(みこころ)目的(もくてき)計画(けいかく)(おし)え、あなたがどう(こた)えるかを()っておられます。(かみ)信頼(しんらい)して、(かみ)を知り、体験(たいけん)して、無限(むげん)信頼(しんらい)へ…信仰(しんこう)者は神の莫大(ばくだい)(たから)勝利(しょうり)(あたえ)られています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:6)

恵みは神から

ピリピ人への手紙3章3-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月8日

<聖書>

(かみ)御霊(みたま)によって礼拝(れいはい)をし、キリスト・イエスを(ほこ)り、人間的(にんげんてき)なものを(たの)みにしない(わたし)たちのほうこそ、割礼(かつれい)(もの)なのです。ただし、(わたし)は、人間的(にんげんてき)なものにおいても(たの)むところがあります。もし、ほかの人が人間的(にんげんてき)なものに(たの)むところがあると(おも)うなら、(わたし)は、それ以上(いじょう)です。(わたし)八日目(ようかめ)割礼(かつれい)を受け、イスラエル民族(みんぞく)(ぞく)し、ベニヤミンの()かれの(もの)です。きっすいのヘブル人で、律法(りっぽう)についてはパリサイ人、その熱心(ねっしん)教会(きょうかい)(はく)(がい)したほどで、律法(りっぽう)による()についてならば非難(ひなん)されるところのない(もの)です。しかし、(わたし)にとって(とく)であったこのようなものをみな、(わたし)はキリストのゆえに、(そん)(おも)うようになりました。それどころか、(わたし)(しゅ)であるキリスト・イエスを()っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを(そん)(おも)っています。(わたし)はキリストのためにすべてのものを()てて、それらをちりあくたと(おも)っています。それは、(わたし)には、キリストを()、また、キリストの中にある(もの)(みと)められ、律法(りっぽう)による自分(じぶん)()ではなくて、キリストを(しん)じる信仰(しんこう)による()、すなわち、信仰(しんこう)(もと)づいて、(かみ)から(あた)えられる()を持つことができる、という(のぞ)みがあるからです。

(ピリピ人への手紙(てがみ) 3章3-9節)

<説教>

お金、美貌(びぼう)才能(さいのう)があっても、生きているのが(むな)しい人たちがいます。パウロは当時(とうじ)のユダヤ社会(しゃかい)では完璧(かんぺき)なエリートでした。完全(かんぜん)人生(じんせい)を歩んでいました。

しかし、パウロはイエス・キリストを(にく)んでいました。彼の生きる目的(もくてき)はクリスチャンを殺害(さつがい)してこの()から()()ることでした。そんな生き方に平安(へいあん)(よろこ)びもあるはずがありません。

パウロは(かみ)律法(りっぽう)十戒(じっかい)代表(だいひょう)される旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)命令(めいれい))に厳格(げんかく)(つか)えました。そういう意味(いみ)では、パウロは(かみ)(ただ)しいと(みと)められる、(すく)いを()けるに一番(いちばん)ふさわしい人物(じんぶつ)でした。

聖書(せいしょ)によると、すべての人は罪人(つみびと)です。それはキリストを(あい)さずに、いいえキリストに反抗(はんこう)していると言う意味(いみ)罪人(つみびと)なのです((つみ)とは(かみ)に対する意識的(いしきてき)反逆(はんぎゃく))。自分では、善人(ぜんにん)だと思っても、道徳的(どうとくてき)(ただ)しく生きても、この()では(ただ)しくても(かみ)(ただ)しさには(いた)らないのです。

()(ただ)しい関係(かんけい))には①道徳的(どうとくてき)()と②(かみ)()があります。道徳的(どうとくてき)(ただ)しさは素晴(すば)らしいことです。ぜひそのように生きるべきです。しかし(かみ)()をいただくには、キリストが十字架(じゅうじか)であなたの(つみ)のために()なれたことを(しん)じる()(がい)ありません。それだけが(すく)われて(かみ)和解(わかい)して(てん)御国(みくに)に入る方法(ほうほう)です。

キリストを(しん)じる(すく)いは、死後(しご)天国(てんごく)に行く時だけでなく、今の生き方すべてが(よろこ)びと平安(へいあん)希望(きぼう)()えられます。

(かみ)はあなたを(つく)られた方です。(かみ)はいつもあなたを(おぼ)えて(とも)にいてくださいます。(かみ)はあなたの問題(もんだい)解決(かいけつ)()っておられます。(かみ)はあなたの将来(しょうらい)祝福(しゅくふく)約束(やくそく)されています。

(つみ)(ゆる)し」とは(うす)っぺらい言葉ではありません。キリストの(あい)(まじ)わりによってあなたを内側(うちがわ)から(あい)(せい)()の人に()える(いのち)です。それは宗教(しゅうきょう)ではなく生き方です。(かみ)がくださる(のぞ)みです。(のぞ)みは(かみ)(そな)えたキリストの十字架(じゅうじか)にあります。

イエス・キリストは本当の救い主

ルカの福音書2章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月25日

<聖書>

そのころ、全世界(ぜんせかい)住民(じゅうみん)登録(とうろく)をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝(こうてい)アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督(そうとく)であったときの最初(さいしょ)住民(じゅうみん)登録(とうろく)であった。それで、人々はみな、登録(とうろく)のために、それぞれ自分(じぶん)の町に()かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。(かれ)は、ダビデの家系(かけい)であり血筋(ちすじ)でもあったので、身重(みおも)になっているいいなずけの(つま)マリヤもいっしょに登録(とうろく)するためであった。ところが、(かれ)らがそこにいる間に、マリヤは(つき)()ちて、男子(だんし)初子(しょこ)()んだ。それで、(ぬの)にくるんで、飼葉(かいば)おけに()かせた。宿屋(やどや)には(かれ)らのいる場所(ばしょ)がなかったからである。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)2章1-7節)

<説教>

ユダヤ人、また異邦人(いほうじん)旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)預言(よげん)されたメシヤ(すく)(ぬし)(なが)(あいだ)()(のぞ)んでいました。400年の(かみ)のことばの沈黙(ちんもく)、そして、ユダヤはローマに支配(しはい)され、世界(せかい)共通(きょうつう)原語(げんご)のギリシャ語、整備(せいび)されたローマの道路(どうろ)、まさに(すく)(ぬし)到来(とうらい)のよき知らせのための環境(かんきょう)(ととの)ったのです。しかし、表面的(ひょうめんてき)には(かがや)かしいローマの内部(ないぶ)は、すでに死の一歩(いっぽ)手前(てまえ)でした。人々の(たましい)霊的(れいてき)()(かわ)きは限界(げんかい)(たっ)していました。

そんなとき、約束(やくそく)のメシヤ・キリストは、この世界(せかい)歴史(れきし)の中に人間(にんげん)姿(すがた)をして来られたのです。(だれ)もが予想(よそう)もしなかった、飼葉(かいば)おけでお生まれになったのです。いったい(だれ)がそんなところに(かみ)の子がいると信じられるでしょう。

世界(せかい)覇者(はしゃ)権力(けんりょく)頂点(ちょうてん)のローマ皇帝(こうてい)カイザル・アウグスト。彼は自分を王、(かみ)(すく)(ぬし)として人々をひざまずかせました。しかし、人の心まで支配(しはい)はできませんでした。そのカイザルに対して、まことの(すく)(ぬし)は、もっともふさわしくない飼葉(かいば)おけで誕生されたのです。その知らせはカイザルではなく、野宿(のじゅく)夜番(よばん)をする羊飼(ひつじか)いでした。(かみ)(つみ)(くる)ったこの世界(せかい)秩序(ちつじょ)価値観(かちかん)をすべて正しくされます。

キリストと()ばれる(すく)(ぬし)は、この世界(せかい)では()け入れられません。行くべき場所は十字架(じゅうじか)です。キリストが飼葉(かいば)おけで生まれたのは十字架(じゅうじか)で死ぬためでした。

多くの人は(すく)(ぬし)必要(ひつよう)と考えないでしょう。このお(かた)(すく)(ぬし)としてお(むか)えする者とは、次のような失敗(しっぱい)をした人たちなのです。

それは、(かみ)に会って、何事(なにごと)もうまくいると言えなくなった人です。それは、(あく)の力の前に、自分の善意(ぜんい)のもろさと無力(むりょく)さを知っている人です。それは、(かみ)によって、()(あらた)め、(かな)しみの内に、自分の(つみ)(かみ)告白(こくはく)する人です。

つまり、(すく)(ぬし)キリストに()()んで、失敗(しっぱい)勝利(しょうり)()えていただこうとする人たちなのです。このお(かた)によってしか、人は(つみ)刑罰(けいばつ)の死と、その罪責(ざいせき)から(すく)われません。このクリスマスにあなたの(すく)(ぬし)として、イエス様を信じませんか。それは飼葉(かいば)おけの赤ちゃんを、(かみ)の子、(すく)(ぬし)のしるしであると信じることです。

一生に一度のできごと

ルカの福音書1章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月18日

<聖書>

ユダヤの(おう)ヘロデの(とき)に、アビヤの(くみ)(もの)でザカリヤという祭司(さいし)がいた。(かれ)(つま)はアロンの子孫(しそん)で、()をエリサベツといった。ふたりとも、(かみ)御前(みまえ)(ただ)しく、(しゅ)のすべての(いまし)めと(さだ)めを落度(おちど)なく()(おこな)っていた。エリサベツは不妊(ふにん)(おんな)だったので、(かれ)らには(c)がなく、ふたりとももう(とし)をとっていた。さて、ザカリヤは、自分(じぶん)(くみ)当番(とうばん)で、(かみ)御前(みまえ)祭司(さいし)(つと)めをしていたが、祭司(さいし)(しょく)習慣(しゅうかん)によって、くじを()いたところ、(しゅ)神殿(しんでん)に入って(こう)をたくことになった。(かれ)(こう)をたく(あいだ)(おお)ぜいの(たみ)はみな、(そと)(いの)っていた。ところが、(しゅ)使(つか)いが(かれ)(あらわ)れて、香壇(かおりだん)(みぎ)に立った。これを見たザカリヤは不安(ふあん)(おぼ)え、恐怖(きょうふ)(おそ)われたが、御使(みつか)いは(かれ)に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの(ねが)いが()かれたのです。あなたの(つま)エリサベツは(おとこ)()()みます。()をヨハネとつけなさい。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)1章5-13節)

<説教>

祭司(さいし)ザカリヤと(つま)エリサベツは、モーセの(あに)祭司(さいし)アロンの血筋(ちすじ)でした。彼らは(かみ)(みや)仕事(しごと)忠実(ちゅうじつ)(つか)えました。しかいザカリヤには長年(ながねん)(ねが)いがありました。それは、夫婦(ふうふ)の間に子どもが(あた)えられることでした。

その(ねが)いが少しずつあきらめに()わりそうなときに、ザカリヤに大きな仕事(しごと)(あた)えられました。それは祭司(さいし)の中でも、一生(いっしょう)一度(いちど)あるかないかという仕事(しごと)でした。(かみ)(みや)朝晩(あさばん)(ささ)げものの前に(こう)をたくこと大切(たいせつ)仕事(しごと)です。

そのことを(とお)して、(かみ)さまは長年(ながねん)のザカリヤの(いの)りに(こた)えられたのです。

一生(いっしょう)一番(いちばん)出来事(できごと)とは】

あなたにも人生(じんせい)でいろいろな大きな出来事(できごと)があったことでしょう。また、これからもあるかも知れません。しかしイエス様を(しん)じるよりも大きな出来事(できごと)はありません。そのことにより、あなたはまったく(あたら)しく()まれ()わり、どんなときもイエス様の(あい)(いのち)によって(とも)約束(やくそく)の希望により生きることができるのです。それは(かみ)さまが(あた)えてくださった最高(さいこう)のプレゼントです。

聖書(せいしょ)はあなたへの約束(やくそく)

(しゅ)によって(かた)られたことは(かなら)実現(じつげん)すると(しん)じきった人は、(なん)(さいわ)いなことでしょう。」

 (ルカの福音書1:45)

ザカリヤは最初(さいしょ)は、自分たちに子供(こども)(あた)えられるという(かみ)さまの言葉(ことば)(しん)じられませんでした。しかし、(つま)エリサベツがみごもったことにより、不信仰(ふしんこう)自分(じぶん)()(あらた)めました。そして、イエス様の(すく)いを()けることができました。

聖書(せいしょ)言葉(ことば)は、(ほか)でもないあなたへの約束(やくそく)なのです。(しん)じられない状況(じょうきょう)や、自分(じぶん)罪深(つみぶか)さや(よわ)さに()けそうでも、()(あらた)めて、(かみ)さまの言葉(ことば)告白(こくはく)して約束(やくそく)()()りましょう。あなたの人生(じんせい)(とお)して(かみ)さまの御業(みわざ)(あらわ)されていきます。

(かみ)には約束(やくそく)されたことを成就(じょうじゅ)する(ちから)があることを(かた)(しん)じました。だからこそ、それが(かれ)()とみなされたのです。しかし、「(かれ)()とみなされた」と書いてあるのは、ただ(かれ)のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中からよみがえらせた方を(しん)じる私たちも、その信仰(しんこう)()とみなされるのです。

(ローマ人への手紙4:21-24)

あなたを証明するもの

コリント人への手紙第一3章18-23節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月11日

<聖書>

だれも自分(じぶん)(あざむ)いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分(じぶん)(いま)()知者(ちしゃ)だと(おも)(しゃ)がいたら、知者(ちしゃ)になるためには(おろ)かになりなさい。なぜなら、この()知恵(ちえ)は、(かみ)御前(みまえ)では(おろ)かだからです。こう書いてあります。「(かみ)は、知者(ちしゃ)どもを(かれ)らの悪賢(わるがしこ)さの中で()らえる。」また、(つぎ)のようにも書いてあります。「(しゅ)は、知者(ちしゃ)論議(ろんぎ)無益(むえき)だと()っておられる。」ですから、だれも人間(にんげん)(ほこ)ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界(せかい)であれ、いのちであれ、()であれ、また現在(げんざい)のものであれ、未来(みらい)のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは(かみ)のものです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章18-23節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ((すく)(ぬし))は(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「()ける(いし)」として今も()きて(はたら)かれてるのです。

(いえ)()てる(もの)たちの()てた(いし)。それが(いしずえ)(いし)になった。(詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)使徒(しと)たち(キリストのからだ)を(とお)して(はたら)(かみ)言葉(ことば)()きるキリスト信仰(しんこう)土台(どだい)として()て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)()て上げ、また教会(きょうかい)()て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)()きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)基礎(きそ)(何を(しん)じるか)も大切(たいせつ)問題(もんだい)です。(かみ)なき()き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を()け入れる(もの)(かみ)(あい)()安心(あんしん)して、(かみ)から人生(じんせい)目的(もくてき)(あた)えられます。(うち)なる人である(れい)基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに()まれる、(かみ)から()けた聖霊(せいれい)(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、()らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って()()られたのです。ですから自分のからだをもって、(かみ)栄光(えいこう)(あらわ)しなさい。(Ⅰコリント6:19-20)

信仰(しんこう)による(あゆ)みには、(はたら)きや功績(こうせき)結果(けっか)大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな(はたら)きはできなくても、(すく)いは完全(かんぜん)であり、(けっ)して()わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)(ひょう)()してくださる方は(かみ)さまです。

しかし、(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の()っている(もっと)(きよ)信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって(いの)り、(かみ)(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを()(のぞ)みなさい。(ユダの手紙20-21)

キリスト信仰という土台

コリント人への手紙第一3章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月4日

<聖書>

(あた)えられた(かみ)(めぐ)みによって、私は(かしこ)建築家(けんちくか)のように、土台(どだい)()えました。そして、ほかの人がその上に(いえ)()てています。しかし、どのように()てるかについてはそれぞれが注意(ちゅうい)しなければなりません。というのは、だれも、すでに()えられている土台(どだい)のほかに、ほかの(もの)()えることはできないからです。その土台(どだい)とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台(どだい)の上に、(きん)(ぎん)宝石(ほうせき)(もく)(くさ)、わらなどで()てるなら、各人(かくじん)(はたら)きは明瞭(めいりょう)になります。その日がそれを(あき)らかにするのです。というのは、その日は()とともに(あらわ)れ、この()がその(ちから)各人(かくじん)(はたら)きの真価(しんか)をためすからです。もしだれかの()てた建物(たてもの)(のこ)れば、その人は(むく)いを()けます。もしだれかの()てた建物(たてもの)()ければ、その人は損害(そんがい)()けますが、自分(じぶん)自身(じしん)は、()の中をくぐるようにして(たす)かります。あなたがたは(かみ)神殿(しんでん)であり、(かみ)御霊(みたま)があなたがたに宿(やど)っておられることを()らないのですか。もし、だれかが(かみ)神殿(しんでん)をこわすなら、(かみ)がその人を(ほろ)ぼされます。(かみ)神殿(しんでん)(せい)なるものだからです。あなたがたがその神殿(しんでん)です。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章10-17節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ((すく)(ぬし))は(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「()ける(いし)」として今も()きて(はたら)かれてるのです。

(いえ)()てる(もの)たちの()てた(いし)。それが(いしずえ)(いし)になった。

詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)使徒(しと)たち(キリストのからだ)を(とお)して(はたら)(かみ)言葉(ことば)()きるキリスト信仰(しんこう)土台(どだい)として()て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)()て上げ、また教会(きょうかい)()て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)()きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)基礎(きそ)(何を(しん)じるか)も大切(たいせつ)問題(もんだい)です。(かみ)なき()き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を()け入れる(もの)(かみ)(あい)()安心(あんしん)して、(かみ)から人生(じんせい)目的(もくてき)(あた)えられます。(うち)なる人である(れい)基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに()まれる、(かみ)から()けた聖霊(せいれい)(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、()らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って()()られたのです。ですから自分のからだをもって、(かみ)栄光(えいこう)(あらわ)しなさい。

(Ⅰコリント6:19-20)

キリストがあなたの(つみ)(よご)れのために、十字架(じゅうじか)()なれ復活(ふっかつ)されたことを(しん)じる(もの)は、その信仰(しんこう)によって人生(じんせい)のすべてで(かみ)さまが(はたら)かれ、あなたはキリスト(教会(きょうかい))をあらわす存在(そんざい)とされるのです。

あなたの()きる姿(すがた)でキリストはこの世に()きて(はたら)かれることが(あき)らかにされます。

信仰(しんこう)による(あゆ)みには、(はたら)きや功績(こうせき)結果(けっか)大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな(はたら)きはできなくても、(すく)いは完全(かんぜん)であり、(けっ)して()わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)(ひょう)()してくださる方は(かみ)さまです。

しかし、(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の()っている(もっと)(きよ)信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって(いの)り、(かみ)(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを()(のぞ)みなさい。

(ユダの手紙20-21

キリストの十字架の奥義

コリント人への手紙第一2章6-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月13日

<聖書>

しかし私たちは、成人(せいじん)(あいだ)で、知恵(ちえ)を語ります。この知恵(ちえ)は、この()知恵(ちえ)でもなく、この()()()って行く支配者(しはいしゃ)たちの知恵(ちえ)でもありません。私たちの(かた)るのは、(かく)された奥義(おくぎ)としての(かみ)知恵(ちえ)であって、それは、(かみ)が、私たちの栄光(えいこう)のために、世界(せかい)(はじ)まる前から、あらかじめ(さだ)められたものです。この知恵(ちえ)を、この()支配者(しはいしゃ)たちは、だれひとりとして(さと)りませんでした。もし(さと)っていたら、栄光(えいこう)(しゅ)十字架(じゅうじか)につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書(せいしょ)に書いてあるとおりです。「()()たことのないもの、(みみ)()いたことのないもの、そして、人の(こころ)(おも)()かんだことのないもの。(かみ)(あい)する(もの)のために、(かみ)(そな)えてくださったものは、みなそうである。」(かみ)はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示(けいじ)されたのです。御霊(みたま)はすべてのことを探り、(かみ)(ふか)みにまで(およ)ばれるからです。いったい、人の(こころ)のことは、その人のうちにある(れい)のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、(かみ)のみこころのことは、(かみ)御霊(みたま)のほかにはだれも知りません。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章6-11節)

<説教>

(かみ)のみ言葉(ことば)(かみ)のご計画(けいかく)(かみ)御心(みこころ)は、生まれたままの人間にはわかりません。

キリストの福音(ふくいん)(あなたの(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)()なれたキリストを(しん)じるなら(すく)われる)は(かく)された奥義(おくぎ)なのです。

イザヤ書の40-66章は聖書中(せいしょちゅう)(もっと)卓越(たくえつ)したメッセージであると言えます。(つみ)からの解放(かいほう)新天(しんてん)新地(しんち)永遠(えいえん)希望(きぼう)(かた)られています。その中の重要(じゅうよう)箇所(かしょ)が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。

ここには、新約(しんやく)聖書(せいしょ)福音書(ふくいんしょ)以上(いじょう)に、苦難(くなん)のしもべのキリストの十字架(じゅうじか)受難(じゅなん)(しる)されています。そして、またキリストの十字架(じゅうじか)意味(いみ)は誰もわからないと書かれています。

「私たちの()いたことを、だれが(しん)じたか。

(しゅ)】の御腕(みうで)は、だれに(あらわ)れたのか。」  (イザヤ書53:1)

(しゅ)】の御腕(みうで)とは、(かみ)の力を(あら)わしています。この(かみ)の力によって、人は(かみ)言葉(ことば)(しん)じることができるのです。(かみ)啓示(けいじ)(かみ)がご自身(じしん)(あき)らかされる)によってのみ、人は回心(かいしん)して、(つみ)()(あらた)めて、(すく)われるのです。

聖書(せいしょ)によると人間の本質(ほんしつ)(あなたがあなたであること)は(れい)にあります。(れい)(たましい)をもち、(からだ)()んでいるのです。

(からだ)感覚(かんかく))や(たましい)感情(かんじょう))でなく、(れい)(かみ)()るのです。(れい)によって(かみ)との(まじ)わりを持つのです。(からだ)はこの地上(ちじょう)一時的(いちじてき)なものであり、やがて()ちていきます。(れい)こそが(いや)され、(やしな)われることを(おぼ)えなければならないのです。

(にく)によって()まれた者は(にく)です。御霊(みたま)によって()まれた(もの)(れい)です。」

(ヨハネ3:6

キリストを(しん)じるなら、霊的(れいてき)(あたら)しく()まれ()わることができます((からだ)()まれ()わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側(うちがわ)(なに)()こったかわかりません。しかし、(とき)()つとはっきり(あらわ)れてくるのです。

(かみ)(しん)じるとは(かみ)言葉(ことば)(しん)じることです。(かみ)言葉(ことば)(とお)して、(うち)なる(れい)の人は(つみ)からきよめられ、(いや)され、(あい)に生きる者へと()えられ(つづ)けます。イエス様を(しん)じるなら、いつしか(こころ)()えられていることに気付(きづ)くでしょう。また言葉(ことば)(やさ)しく()えられるでしょう。きっと、表情(ひょうじょう)笑顔(えがお)も。そして、自分のことを(あい)することができ、どんな小さなことも大切(たいせつ)(いと)おしく思え、人生(じんせい)はかけがえのない宝物(たからもの)とされます。イエス様はどんな時もあなたを(あい)されています。

あなたもイエス様を(むか)えいれて、この素晴(すば)らしい祝福(しゅくふく)()()ってください。

(かみ)は、(じつ)に、そのひとり()をお(あた)えになったほどに、()(あい)された。それは御子(みこ)(しん)じる(しゃ)が、ひとりとして(ほろ)びることなく、永遠(えいえん)のいのちを()つためである。」

(ヨハネ3:16)

くりかえせない人生(じんせい)だから
(かがや)瞬間(とき)(のが)さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば(あい)()べる(いえ)に住み
微笑(ほほえ)みながら
自由(じゆう)という(まち)(ある)
(いた)みと言う歩道(ほどう)(すわ)
(やさ)しさが(よわ)さではなくて
(つか)えることに(みち)(さが)
むやみに言葉(ことば)(なら)べず
(あい)することを(まな)びながら
ゆるせる(こころ)(そだ)てながら
言葉(ことば)(あそ)びにならぬように
真実(しんじつ)()ばれる小径(こみち)をずっと
(ある)いて()きたい
それが(ねが)
(「(ねが)い」岩渕(いわぶち)まこと)

信仰により神と共に生きる

コリント人への手紙第一2章1-5節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月6日

<聖書>

さて兄弟(きょうだい)たち。(わたし)があなたがたのところへ()ったとき、(わたし)は、すぐれたことば、すぐれた知恵(ちえ)(もち)いて、(かみ)のあかしを()(つた)えることはしませんでした。なぜなら(わたし)は、あなたがたの(あいだ)で、イエス・キリスト、すなわち十字架(じゅうじか)につけられた(かた)のほかは、(なに)()らないことに決心(けっしん)したからです。あなたがたといっしょにいたときの(わたし)は、(よわ)く、(おそ)れおののいていました。そして、(わたし)のことばと(わたし)宣教(せんきょう)とは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)のことばによって(おこな)われたものではなく、御霊(みたま)御力(みちから)(あらわ)れでした。それは、あなたがたの()信仰(しんこう)が、人間(にんげん)知恵(ちえ)にささえられず、(かみ)(ちから)にささえられるためでした。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章1-5節)

<説教>

パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教(せんきょう)しましたが、そこでは、ギリシャ哲学(てつがく)に対して、哲学(てつがく)(てき)にイエスの(すく)いを(つた)えようとしました。その結果(けっか)失敗(しっぱい)し、(よわ)さと(おそ)れを(おぼ)えていました。パウロは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)知識(ちしき)によらず、まっすぐに十字架(じゅうじか)につけられたキリストを()(つた)えることに立ち返ったのです。

(かみ)さまが用意(ようい)された福音(ふくいん)(イエスの十字架(じゅうじか)を信じるなら(すく)われる)が語られる時、聞く者に(かみ)さまが(はたら)かれて、人は(すく)われます。

(すく)われた者は、(かみ)に与えられた信仰(しんこう)によって生きていきます。信仰(しんこう)とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的(せっきょくてき)に自分を(かみ)さまにお(まか)せしていくことが必要(ひつよう)です。自分の信念(しんねん)だけでは()りないのです。

聖書(せいしょ)が言う(つみ)とは、(わる)い行いや、邪悪(じゃあく)な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質(ほんしつ)(つみ)(ぶか)(けが)れている状態(じょうたい)を言います。また、この()は人を(つみ)誘惑(ゆうわく)する(つみ)の力が(はたら)いています。

この(つみ)治療(ちりょう)方法(ほうほう)には人間の本質(ほんしつ)(つく)()える力が必要(ひつよう)です。その力は人間の内側(うちがわ)にはなく、(かみ)の力によるのです。誘惑(ゆうわく)の力に()()かう(かみ)(だす)けが必要(ひつよう)です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この(かみ)の力と(だす)けが必要(ひつよう)です。

バルーン(熱気球(ねつききゅう))は空高く、(とお)くまで人を(はこ)ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから()()がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上(ちじょう)から徐々(じょじょ)()き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第(しだい)に高く地上(ちじょう)から5m、10mと上昇(じょうしょう)したら、もうあなたは(こわ)くて、もう地上(ちじょう)(もど)ってくれ!と(さけ)ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら()がった安全(あんぜん)なカゴに()るとしたら、高く()い上がっても恐怖(きょうふ)はないでしょう。あなたは人間の力では不可能(ふかのう)な高さから地上(ちじょう)景色(けしき)を楽しむことでしょう。

信仰(しんこう)もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、(かみ)の力を()けて、自分の力では到達(とうたつ)できない人生を生きることができます。自我(じが)自己(じこ)中心(ちゅうしん)罪深(つみぶか)欲望(よくぼう)が、キリストの十字架(じゅうじか)(あい)(ゆる)しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に()えられて生きるのです。永遠(えいえん)(のこ)価値(かち)ある()いなき人生です。

「私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを()させる(かみ)の力です。なぜなら、福音(ふくいん)のうちには(かみ)()(けい)()されていて、その()は、信仰(しんこう)(はじ)まり信仰(しんこう)(すす)ませるからです。『義人(ぎじん)信仰(しんこう)によって()きる』と()いてあるとおりです。」

(ローマ人への手紙1章16-17節)

最も小さき者が、偉大な存在につながるなら

コリント人への手紙第一1章26-31節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月23日

<聖書>

兄弟(きょうだい)たち、あなたがたの()しのことを考えてごらんなさい。この()知者(ちしゃ)は多くはなく、権力者(けんりょくしゃ)も多くはなく、身分(みぶん)の高い者も多くはありません。しかし(かみ)は、知恵(ちえ)ある者をはずかしめるために、この()(おろ)かな者を(えら)び、(つよ)い者をはずかしめるために、この()(よわ)い者を(えら)ばれたのです。また、この()()るに()りない者や見下(みくだ)されている者を、(かみ)(えら)ばれました。すなわち、()るものをない者のようにするため、()(ひと)しいものを(えら)ばれたのです。これは、(かみ)御前(みまえ)でだれをも(ほこ)らせないためです。しかしあなたがたは、(かみ)によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、(かみ)知恵(ちえ)となり、また、()(きよ)めと、(あがな)いとになられました。まさしく、「(ほこ)る者は(しゅ)(ほこ)れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)1章26-31節)

<説教>

(かみ)はこの()では価値(かち)のないような者を(えら)んで、信仰(しんこう)(あた)えられます。イエスを(しん)じた者は(しゅ)税人(ぜいにん)遊女(ゆうじょ)のような罪人(つみびと)でした。天国で一番(えら)い者とは、(おさな)い子どもだとイエスは言われました。

この()と天国では価値観(かちかん)はまったく(ちが)うのです。自分が無力(むりょく)価値(かち)のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を(ひく)くして、(よわ)い者を()け入れるへりくだった者です。

(かみ)は自分の価値(かち)()の中にアピールする者ではなく、小さな(よわ)き者を用いて、(かみ)存在(そんざい)(あらわ)されるのです。

人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙(うちゅう)(ひろ)さと(くら)べるときでしょうか。(あい)する人を(まも)れないときかも知れません。しかし人は罪深(つみぶか)い自分の姿(すがた)を見たとき、自分の小ささを知ります。()(ひと)しいような自分に絶望(ぜつぼう)します。(つみ)とは(かみ)から(はな)れて自分を(そこ)ない(うしな)っている状態(じょうたい)のことです。(かみ)の前にすべての人は罪人(つみびと)です。(かみ)の前に自分の小ささを()る者は(さいわ)いです。

(かみ)(つく)られた人間は有限(ゆうげん)である被造物(ひぞうぶつ)です。有限(ゆうげん)ですから、不完全(ふかんぜん)(あやま)りがあり、誘惑(ゆうわく)(よわ)く、失敗(しっぱい)もします。しかし聖書(せいしょ)は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと(おし)えてくれます。それを(かく)したり、(あきら)めたり、無理(むり)に大きく見せようとしないでいいのです。

自分の罪深(つみぶか)さ、(けが)れ、(よわ)さを(みと)めていいのです。自分には何の価値(かち)もなくていいのです。人間はそれを(みと)められず、また(おそ)ろしくもありましょう。それは(けっ)して人生(じんせい)敗北(はいぼく)ではないのです。かえって勝利(しょうり)人生(じんせい)のスタートです。

(だれ)よりも、自分を小さく、(まず)しく、むなしくしてくださった方がおられます。(かみ)のイエス・キリストです。

(もっと)偉大(いだい)存在(そんざい)である(かみ)はすべての所有者(しょゆうしゃ)で、宇宙(うちゅう)世界(せかい)歴史(れきし)(いのち)支配(しはい)しておられます。そのすべてに(ゆた)かな(かみ)が、もっとも小さい者の姿(すがた)になられたのです。(かみ)であるキリストが人間の(つみ)のために人となって十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。あなたの(つみ)身代(みが)わりの犠牲(ぎせい)となられました。あなたに(あい)(しめ)してくださいました。

キリストは(かみ)御姿(みすがた)である(かた)なのに、(かみ)のあり(かた)()てられないとは(かんが)えず、ご自分(じぶん)()にして、(つか)える(しゃ)姿(すがた)をとり、人間と(おな)じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって(あらわ)れ、自分(じぶん)(いや)しくし、()にまで(したが)い、(じつ)十字架(じゅうじか)()にまでも(したが)われました。          (ピリ2:6-8)

あなたは、()るに()りないさき者です。しかし大切(たいせつ)なことは(もっと)偉大(いだい)(かみ)につながることが出来(でき)るということです。自分の(つみ)(かみ)の前に正直(しょうじき)()(あらわ)すならすべての(つみ)(ゆる)されます。このとき、小さい人間が偉大(いだい)(かみ)とひとつとされる人の理解(りかい)()える奇跡(きせき)()こります。そのとき()(ひと)しい者が、永遠(えいえん)価値(かち)ある者に()えられます。

これからは(つみ)()()け、(かみ)()いて生きるのです。イエス・キリストを通して、(かみ)さまの大きな(あい)(めぐ)みを()けて、いつもあなたは、しっかりと存在(そんざい)して、自分の価値(かち)(よろこ)んで生きるのです。

あなたの(ゆび)のわざである(てん)()、あなたが(ととの)えられた(つき)(ほし)()ますのに、人とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを(こころ)()められるとは。(ひと)()とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを(かえり)みられるとは。あなたは、(ひと)を、(かみ)よりいくらか(おと)るものとし、これに栄光(えいこう)(ほま)れの(かんむり)をかぶらせました。

詩篇(しへん)8:3-5)

かつて、(てん)無数(むすう)(ほし)見上(みあ)げては
(わたし)(だれ)にも()られることのない
いてもいなくてもよい(ちい)さい存在(そんざい)だと
()()かせていた。
しかし(いま)は、(ちい)さい()のような(わたし)
完全(かんぜん)()ってくださる(かた)がいることを(しん)じている。
(わたし)存在(そんざい)(おぼ)えて、(あい)して(くだ)さるお(かた)を。
それは(ほし)(つく)られ、私を(つく)られたお(かた)
十字架(じゅうじか)(わたし)のために()なれたキリスト。
(作者不詳)

十字架は神の愛と命のメッセージ

コリント人への手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月16日

<聖書>

十字架(じゅうじか)のことばは、(ほろ)びに(いた)る人々には(おろ)かであっても、(すく)いを()ける私たちには、(かみ)の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵(ちえ)ある者の知恵(ちえ)(ほろ)ぼし、(かしこ)い者の(かしこ)さをむなしくする。」知者(ちしゃ)はどこにいるのですか。学者(がくしゃ)はどこにいるのですか。この()議論家(ぎろんいえ)はどこにいるのですか。(かみ)は、この()知恵(ちえ)(おろ)かなものにされたではありませんか。事実、この()が自分の知恵(ちえ)によって(かみ)を知ることがないのは、(かみ)知恵(ちえ)によるのです。それゆえ、(かみ)はみこころによって、宣教(せんきょう)のことばの(おろ)かさを(とお)して、(しん)じる者を(すく)おうと(さだ)められたのです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)追求(ついきゅう)します。しかし、私たちは十字架(じゅうじか)につけられたキリストを()(つた)えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(いほうじん)にとっては(おろ)かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、()された者にとっては、キリストは(かみ)の力、(かみ)知恵(ちえ)なのです。なぜなら、(かみ)(おろ)かさは人よりも(かしこ)く、(かみ)(よわ)さは人よりも(つよ)いからです。

(コリント人への手紙第一1章18-25節)

<説教>

十字架(じゅうじか)(けい)とは、(はだか)手首(てくび)足首(あしくび)を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛(げきつう)出血(しゅっけつ)多量(たりょう)呼吸(こきゅう)困難(こんなん)(すえ)心臓(しんぞう)破裂(はれつ)()(いた)ります。その期間(きかん)数日(すうじつ)から一週間(いっしゅうかん)以上(いじょう)と言われます。人々の前で(はずかし)められ、人間の尊厳(そんげん)(うば)われる残酷(ざんこく)死刑(しけい)方法(ほうほう)です。

イエスは(かみ)を名のった刑罰(けいばつ)で、むち打たれ、十字架(じゅうじか)(けい)により処刑(しょけい)されました。(すく)(ぬし)キリストを()(のぞ)んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨(ひさん)弱々(よわよわ)しい()に方をしたイエスが(かみ)(すく)(ぬし)キリストであるとは絶対(ぜったい)(しん)じられませんでした。

ギリシャ人にとっても(かみ)とは人間とはかけ(はな)れた崇高(すうこう)存在(そんざい)でした。人間としてこの()に来られ、よりによって(けが)らわしい十字架(じゅうじか)(かか)わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生(たんじょう)したことも()んで三日後の復活(ふっかつ)(おろ)かな話でした。

今もキリストの十字架(じゅうじか)の話を聞くと、いやな思いを()つ人がいます。(くら)不吉(ふきつ)な話に思うかも()れません。あなたの(つみ)やけがれの身代(みが)わりにキリストは十字架(じゅうじか)()なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。

人間の(つみ)とはとんでもなく邪悪(じゃあく)な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では(けっ)して(つみ)現実(げんじつ)から(すく)い出されない姿(すがた)を言っているのです。

人は自分の知恵(ちえ)によって(かみ)のことはわかりません。それが(かみ)知恵(ちえ)だと聖書(せいしょ)は言います。そうです。キリストの十字架(じゅうじか)(しん)じるなら(つみ)(ぶか)い生き方から(すく)われるということは人間の努力(どりょく)では(けっ)してわからないのです。

十字架(じゅうじか)は人間の(つみ)(ゆる)しをあらわすにふさわしいシンボルです。

十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)(あら)わしています。同時(どうじ)十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)(ゆる)しをあらわしています。

また十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)刑罰(けいばつ)をあらわしており、同時(どうじ)にその刑罰(けいばつ)身代(みが)わりに()けてくださる(かみ)(あい)をあらわすのです。

キリストの十字架(じゅうじか)によってしかあなたの(つみ)(ゆる)されません。(かみ)に対して(おか)した人間の(つみ)はそれほど(おも)いものなのです。(つみ)のない(きよ)いキリストの(いのち)だけが人間の(つみ)身代(みが)わりとなることができるのです。

このことをただ(しん)じて()()るなら、あなたは(すく)われます。それ以外(いがい)方法(ほうほう)はどこにもないのです。

十字架(じゅうじか)のことばは、(ほろ)びに(いた)人々(ひとびと)には(おろ)かであっても、
(すく)いを()ける(わたし)たちには、(かみ)の力です。(Ⅰコリント1:18)

そしてどうしてありえようか、(わたし)
(すく)(ぬし)血潮(ちしお)(えき)()るということが?
(しゅ)苦痛(くつう)()()こした(わたし)のために()なれたのか
(しゅ)()(いた)るまで(なや)ました(わたし)のために?
(おどろ)くべき(あい)!どうしてありえようか
わが(かみ)よ、なんじがわがために()にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)